Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 詩編66編8~20節

聖書の黙想と適用 詩編66編8~20節(新共同訳 旧約p.898)

(1) 私達を試みられる主なる神(8~12節)

「諸国の民よ、我らの神を祝し/賛美の歌声を響かせよ」(8節)と詩人は語る。主なる神は、「銀を火で練るように」イスラエルの民を「試され」(10節)、そして彼らを「導き出して/豊かな所に置かれた」(12節)からである。
 イスラエルの民は歴史の中で過酷な試練に幾度となく直面した。主なる神は彼らを「網に追い込み」、彼らの「腰に枷をはめ」(11節)、人が彼らを「駆り立てることを許された」(12節)。
 しかし、「火の中、水の中を通」るような苦難に直面しても、イスラエルは決して滅びることがなかった。それは主なる神の恵みであった。試練は、主なる神がご自分の民を純金のようにするための手段であり、主なる神のご計画の内にある。
「神は我らの魂に命を得させてくださる。我らの足がよろめくのを許されない」(9節)と詩人は言う。神の民が試練を通る時、主なる神は黙って見ておられるわけではない。主なる神も悲しみ、心を痛められている。そして、試練の後に必ず豊かな恵みを注いで下さる。

(2) 祈りに耳を傾けて下さる主なる神(13~20節)

 主なる神が祈りに答えて下さった後、詩人は「苦難の中で唇を開き/この口をもって誓ったように」(14節)、「献げ物を携えて神殿に入り/満願の献げ物をささげ」(13節)た。それは、主なる神の恵みに対する感謝のしるしであり、主なる神に真実に仕えるという決心の表現であった。
 また、詩人は「神を畏れる人は皆、聞くがよい/わたしに成し遂げてくださったことを物語ろう。神に向かってわたしの口は声をあげ/わたしは舌をもってあがめます」(16~17節)と述べ、主なる神が自分になさった大いなる御業を証しした。
 苦難の中で主なる神に誓いを立て、祈りを献げた詩人の姿は、絶望の中にある人、苦難の中にある人が覚えるべき姿である。また、彼の証しと讃美は信仰共同体を霊的に目覚めさせる奨励の役割を果たしたことだろう。
 主なる神は、「心に悪事を見ている」者の祈りは「聞いてくださらない」が(18節)、主なる神を切に慕い求める者の祈りには「耳を傾け/聞き入れてくださ」(19節)る。「神をたたえよ。神はわたしの祈りを退けることなく/慈しみを拒まれませんでした」(20節)と詩人は主なる神を讃美する。
 主なる神の御心が行われることを第一に願う謙遜をもって祈ることは、神の民の基本的な態度であり、問題解決の重要な鍵である。

聖書の黙想と適用 詩編66編1~7節

聖書の黙想と適用 詩編66編1~7節(新共同訳 旧約pp.897-898)

(1) 全地による主なる神への讃美(1~4節)

 詩人は「全地よ、神に向かって喜びの叫びをあげよ。御名の栄光をほめ歌え。栄光に讃美を添えよ」(1~2節)と呼びかける。「御名の栄光」は主なる神の御名が持つ栄光であり、主なる神のご性質と密接に繋がっている。
 主なる神が御業を行われる時、全地に感嘆と恐れをもたらす。「御業はいかに恐るべきものでしょう。御力は強く、敵はあなたに服します」(3節)。主なる神の御業は、全地を主なる神に向かって「ひれ伏し」、礼拝し、「御名をほめ歌」うことへと導く(4節)。
 創造主なる神を認め、主なる神に栄光を帰すことは、被造物が主なる神に対してとるべき態度であり、なすべき義務である。特に、神の民は、喜びと確信をもって主なる神に対して讃美し、祈る者である。

(2) とこしえに力強く支配する主なる神(5~7節)

 詩人は、主なる神が導かれた出エジプトの出来事について、まるで目の前で繰り広げられたことのように、「来て、神の御業を仰げ/人の子らになされた恐るべき御業を」(5節)と語っている。
 出エジプトの時、「神は海を変えて乾いた地とされた。人は大河であったところを歩いて渡った」(6節)。海が乾いた地となることを誰が想像しただろうか。それは人知を超えた御業であった。それ故、イスラエルの民は「主よ、神々の中に/あなたのような方が誰かあるでしょうか。誰か、あなたのように聖において輝き/ほむべき御業によって畏れられ/くすしき御業を行う方があるでしょうか」(出エジプト記15章11節)と叫んだ。
 詩人は「神はとこしえに力強く支配し/御目は国々を見渡す。背く者は驕ることを許されない」(7節)と宣言する。王の王、主の主であられる主なる神は、奇しい御業を行われる全能者であり、世界と歴史を御力をもって治められる主権者である。主なる神が選ばれた民になさった偉大な御業は、全ての民が主なる神の御前にひれ伏し、拝むべき理由である。

聖書の黙想と適用 詩編65編1~14節

聖書の黙想と適用 詩編65編1~14節(新共同訳 旧約pp.896-897)

(1) 神殿に臨まれる主なる神(1~9節)

 ダビデは、主なる神が「祈りを聞いてくださ」(3節)ったことに感謝し、「聖なる神殿」(5節)で主なる神に礼拝を献げた。彼は主なる神に「賛美をささげ」(2節)、「満願の献げ物をささげ」(2節)た。
 また、ダビデは主なる神が自分の「罪の数々」を「贖ってくださ」った恵みに感謝と讃美を献げている(4節)。主なる神は、ご自分の民の祈りを聞かれ、罪を贖って下さる「救いの神」(6節)である。罪の贖いの恵みによって、神の民は主なる神の御前に出て行けるようになった。主なる神に「選ばれ、近づけられ」(5節)、主なる神に出会う時、私達はこの世の交わりにおいては味わうことの出来ない喜びを経験する。
 ダビデは、主なる神が「お与えになる多くのしるしを見て」(9節)、「遠い海、地の果てに至るまで/すべてのものが」主なる神に「依り頼み」(6節)、「畏れ敬」(9節)うようになることを願った。主なる神は、イエス・キリストを通して、この地の全ての民が罪の赦しを受け、神の民とされる祝福を注がれた。イエス・キリストは十字架で人類の罪を贖い、「父のもとに行く」(ヨハネによる福音書14章6節)道となって下さった。

(2) 地に臨まれる主なる神(9~13節)

 主なる神は、神殿で恵みを与えて下さるだけでなく、ご自分の民が住む「地に臨んで水を与え/豊かさを加えられ」(10節)る方である(9節)。農夫が地に水をやり、乾いた大地を潤すように、主なる神は「地を備え/畝を潤し、土をならし/豊かな雨を注いで柔らかにし/芽生えたものを祝福してくださる」(10~11節)。雨は上から臨み、この地から出るものではない。主なる神の恵みも雨のようである。
 主なる神の祝福は、霊的な領域だけでなく、私達の生活の実際的な部分において現れる。主なる神の恵みが臨む時、地は豊かさと祝福で満たされる(12節)。「荒れ野の原にも滴り/どの丘も喜びを帯とし/牧場は羊の群れに装われ/谷は麦に覆われ」(13~14節)ることは、主なる神の恵みの御業である。
 主なる神の恵みは私達の人生を豊かにする。主なる神は私達がイエス・キリストにあってその恵みに生きることを願われている。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(ヨハネによる福音書15章5節)。

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書1章24~38節

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書1章24~38節(新共同訳 新約p.100)

(1) イエス・キリストの誕生が予告される(24~33節)

 エリサベトが身ごもって「六か月目」に、主なる神は、天使ガブリエルを「ナザレというガリラヤの町」に遣わした(26節)。ガブリエルがナザレの町に行ったのは、「ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめ」(27節)マリアと会うためであった。ギリシア語の原文を見ると、マリアが「おとめ」(παρθένος [parthenos])であることが27節の前半と後半に繰り返し記され、強調されている。また、「ダビデ家のヨセフ」という言葉は、イエス・キリストがヨセフの法的な子として生まれることにより、ダビデの子孫として認められ、ダビデの王位を継ぐことを示唆している。
 ガブリエルはマリアに「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」(28節)と挨拶した。マリアは天使の言葉に戸惑い、「いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ」(29節)。天使はマリアに「恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた」(30節)と言った。そして、「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」(31節)と伝えた。
 マリアが産む男の子をイエスと名付けなければならない理由について、マタイによる福音書では「この子は自分の民を罪から救うからである」(1章21節)という天使の言葉が記されている。一方、ルカによる福音書では、天使はこの男の子について「偉大な人になり、いと高き方の子と言われる」(32節)と述べている。バプテスマのヨハネも「主の御前に偉大な人になり」(14節)と言われているが、イエス・キリストは「いと高き方の子」として比べることの出来ない位置にある。
 更に、「神である主」はイエス・キリストに「父ダビデの王座」をお与えになる(32節)。これは主なる神がダビデと結ばれた契約に基づいている(サムエル記下7章13節、詩編2編8節)。イスラエル王国は南北に分裂し、その罪の故に滅亡した。しかし、イエス・キリストは王として正義と平和を実現し、「その支配は終わることがない」(33節)。イエス・キリストこそ主なる神が約束された救い主である。

(2) お言葉どおり、この身に成りますように(34~38節)

 マリアは最初ガブリエルの言葉を素直に受け入れることが出来なかった。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」(34節)と彼女は言った。
 それに対し、ガブリエルは「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」(35節)と答えた。そして「生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」(35節)と述べ、イエス・キリストの神性と無罪性を示唆した。また、ガブリエルは、マリアの妊娠に対する確かな証拠として、「年をとって」おり、「不妊の女と言われていた」エリサベトが、妊娠して「もう六か月になっている」ことを知らせた(36節)。
 これらを受けて、ガブリエルは「神にできないことは何一つない」(37節)と言った。「神にできないことは何一つない」と訳されているギリシア語の原文(ὅτι οὐκ ἀδυνατήσει παρὰ τοῦ Θεοῦ πᾶν ῥῆμα [hoti ouk adynatēsei para tou Theou pan rhēma])は、直訳すると「というのは、不可能ではないからだ、神には、全ての言葉が」となる。処女が身ごもるというかつて一度もなかったことも、主なる神にとっては不可能なことではないと天使は強調する。
 天使の言葉に対し、マリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(38節)と応答した。マリアは、結婚前の妊娠によってどのようなことが起こり得るか、知らないわけではなかった。聖霊によって身ごもったということを、ヨセフが理解してくれる保証はどこにもない。また、周囲の人々からは品行が悪い女性と見なされるかも知れない。それどころか、姦淫の罪に問われて石打ちで処刑されるかも知れない。マリア自身、天使の言葉を完全に納得出来たわけではなかっただろう。それでも、彼女は自分の判断よりも主なる神の言葉を第一とした。
 マリアを動かしたのは、主なる神の御心が成就することであった。そのために彼女は自分自身を主なる神に明け渡した。「お言葉どおり、この身に成りますように」というマリアの告白は、そこそこの勇気と信仰では不可能である。それは彼女の命を懸けた信仰告白であった。主なる神の御心は自分自身を主なる神に献げる従順を通して成就される。

聖書の黙想と適用 詩編64編1~11節

聖書の黙想と適用 詩編64編1~11節(新共同訳 旧約p.896)

(1) 敵の威嚇から私の命をお守り下さい(1~7節)

 敵が陰謀に企てる状況の中で、ダビデは「神よ、悩み訴えるわたしの声をお聞きください。敵の脅威からわたしの命をお守りください」(2節)と祈り求めた。
「さいなむ者」、「悪を行う者」(3節)と表現されているダビデの敵は、「舌を鋭い剣とし/毒を含む言葉を矢としてつがえ/隠れた所から無垢な人を射ようと構え/突然射かけ」(4~5節)てきた。また、「悪事にたけ、共謀して罠を仕掛け」(6節)、「巧妙に悪を謀」(7節)った。彼らの誹謗は鋭い剣のようであり、彼らの陰謀は待ち伏せている猟師が獲物を狙って放つ毒矢のようであった。
 悪を行う者は、「見抜かれることはない」(6節)、「我らの謀は巧妙で完全だ。人は胸に深慮を隠す」(7節)と言う。しかし、彼らの行いは主なる神の御前に皆明らかになっている。主なる神は人間の密かな思いまでご存知である。悪を行う者がどれだけ密かに、巧妙に悪を図っても、主なる神はその陰謀を砕かれ、ご自分の民を守られる。

(2) 主に従う人は主を避け所とする(8~11節)

 主なる神はダビデに対して陰謀を企む者に「矢を射かけ」(8節)られる。しかも、主が放たれる矢は、悪を行う者がダビデに向けて射かけた「自分の舌」(9節)の言葉であった。悪を行う者が口にした言葉は、彼ら自身に返ってきて突き刺すことになる。彼らが自らの言葉のために滅びると、「見る人は皆、頭を振って侮る」(9節)。
 主なる神は天地万物を治めておられる。そして、ご自分に従う者の苦しみを無視される方ではない。主なる神の裁きを通して、「人は皆、恐れて神の働きを認め/御業に目覚める」(10節)。主なる神は生きておられる。
 それ故、「主に従う人」、「心のまっすぐな人」(11節)は、悪に対して悪をもって報いることをしない。敵の誹謗と陰謀の中にあっても、「主を避けどころとし」(11節)、主なる神の裁きに委ねる。
 私達が頼ることが出来るのは、主であり、救い主であられるイエス・キリストだけである。心配や恐れがある時、全ては主なる神の統治と支配の下にあるということを思い起こそう。主なる神が私達と共にいて下さるから、私達は「主によって誇り」(11節)、「喜び祝」(11節)うことが出来る。主にあって平安を味わい、大胆に明日を迎えることが出来る。

聖書の黙想と適用 詩編63編1~12節

聖書の黙想と適用 詩編63編1~12節(新共同訳 旧約pp.895-896)

(1) 私の魂はあなたを渇き求める(1~5節)

 ダビデは「ユダの荒れ野」(1節)という孤独な状況において主なる神の恵みを切に求めた。この時、彼は、荒れ野の「乾ききった大地のように」「衰え」、「渇き果てて」いた(2節)。それ故、ダビデは「神よ、あなたはわたしの神。わたしはあなたを捜し求め/わたしの魂はあなたを渇き求めます」(2節)と告白した。
 このような魂の渇望は主なる神の臨在を経験することで満たされる。ダビデは、「聖所」での礼拝を通して主なる神を「仰ぎ望み」、主なる神の「力と栄えを見」た(3節)。そして、「あなたの慈しみは命にもまさる恵み。わたしの唇はあなたをほめたたえます」(4節)という告白へと導かれた。主なる神の慈しみこそ私達の命の源だからである。
 主なる神の慈しみと恵みを経験する時、私達は、荒れ野のような人生の中にあっても、「命のある限り」(5節)、主なる神に讃美と祈りを献げる者とされる。そして、主なる神は私達の渇いた魂を潤された園のようにして下さる。

(2) 私の魂はあなたに付き従う(6~12節)

 主なる神の臨在を経験し、当時最上の食材であった「乳と髄のもてなしを受けたように」、ダビデの「魂は満ちたり」た(6節)。彼は「わたしの魂は喜びの歌をうたい/わたしの口は賛美の声をあげます」(6節)と告白している。
 主なる神を求める者は最上の満足を得る。この世が与えるいかなる満足も、主なる神と共にある喜びとは比較にならない。それ故、彼は「床に就くときにも御名を唱え」、主なる神への「祈りを口ずさんで夜を過ごし」た(7節)。
 また、ダビデは、主なる神が必ず自分を「助けてくださ」(8節)り、「右の御手で支えてくださ」(9節)ると堅く信じていた。彼の「命を奪おうとする者は必ず滅ぼされ/陰府の深みに追いやられ」(10節)、「剣にかかり、山犬の餌食とな」(11節)ると確信していた。それ故、ダビデは主なる神以外の何かに依り頼むことがなかった。「わたしの魂はあなたに付き従」(9節)うと彼は言う。
 この世を生きていると、窮地に追い込まれる時がある。これ以上生きていたくないと思う時さえある。しかし、主なる神と共に人生を歩む時、主なる神は私達を最善の道へと導いて下さる。

聖書の黙想と適用 詩編62編1~13節

聖書の黙想と適用 詩編62編1~13節(新共同訳 旧約pp.894-895)

(1) 神こそ、私の岩、私の救い(1~8節)

 敵が自分を「亡きものにしよう」(4節)とする中で、ダビデは「神にのみ」「希望をおい」(6節)た。最も近い人々からさえ助けを受けられない状況にあって、ダビデの心は極度の緊張と動揺を経験した。彼は自分の置かれた立場を、いつ崩壊するか分からない「倒れる壁、崩れる石垣」(4節)に喩えている。
 敵に囲まれた状況の中で敵だけを見るなら落胆するしかない。主なる神を見上げなければならない。ダビデは自分の魂に「沈黙して、ただ神に向かえ」(6節)と命じている。「沈黙して、ただ神に向かう」(1節)中で、全ての煩いと恐れを主なる神に委ねたのである。「神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは決して動揺しない」(2節、7節)とダビデは告白する。
 主なる神こそ救いの岩であると信じる人は、人生の重荷をこの方に委ねることが出来る(詩編55編23節、ペトロの手紙一5章7節)。主なる神は「従う者を支え」(詩編55編23節)、私達の「心と考えとをキリスト・イエスによって守」(フィリピの信徒への手紙4章7節)って下さる。

(2) どのような時にも神に信頼せよ(8~12節)

 救いの神に対する体験は、主にある兄弟姉妹を励まし、共に献身へと導く。主にあって平安を回復したダビデは、民に「どのような時にも神に信頼し/御前に心を注ぎ出せ」(9節)と勧めた。そして、「暴力に依存するな。搾取を空しく誇るな」(11節)と呼びかけた。
 ダビデの勧めは私達が誰に頼るべきかを教えている。人生の安全を人間や所有に置くことは愚かな行為である。私達は「力は神のものであり/慈しみは、わたしの主よ、あなたのものである」(12~13節)と告白しなければならない。主なる神だけが私達の救い主であり、人生において頼るべき方である。

聖書の黙想と適用 詩編61編1~9節

聖書の黙想と適用 詩編61編1~9節(新共同訳 旧約p.894)

聖書の黙想と適用 ヨナ書4章1~11節

聖書の黙想と適用 ヨナ書4章1~11節(新共同訳 旧約pp.1447-1448)

聖書の黙想と適用 ヨナ書3章1~10節

聖書の黙想と適用 ヨナ書3章1~10節(新共同訳 旧約p.1447)

(1) ヨナに再び臨む主の言葉(1~2節)

「さあ、大いなる都ニネベに行って、わたしがお前に語る言葉を告げよ」(2節)という主なる神の言葉がヨナに臨んだ(1節)。この言葉は「さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ」(1章2節)という最初にヨナに臨んだ主の言葉を思い起こさせる。主なる神はヨナにもう一度任務を任せることにより、彼の悔い改めが真実であるかを立証する機会をお与えになった。
 ペトロもイエス・キリストからヨナと同じような機会を与えられている。彼はイエス・キリストを3度否定した。しかし、その後イエス・キリストの言葉を再び聞いた。復活されたイエス・キリストは、ペトロと出会い、「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」と3度確認された。そして、「わたしの羊を飼いなさい」と命じられた(ヨハネによる福音書21章15~17節)。
 私達にも人生の中で主なる神の言葉がこのように繰り返し聞こえてくる時がある。もし私達が最初に臨んだ主なる神の言葉に対して従順の実を結ぶことが出来なければ、その言葉は何度も響いてくる。主なる神が繰り返し語られる言葉への不従順は、信仰生活の次の段階に進めなくする障害となる。
 主なる神の御声を聞き、その御声が継続して私達の耳元に響いているなら、すぐに従わなければならない。主の御声に従う時、私達は予想もしていなかった驚くべき結果を見ることになる。

(2) ニネベの悔い改め(3~10節)

「ヨナは主の命令どおり、直ちにニネベに行った」(3節)。ヨナはニネベの「都に入り、一日分の距離を歩きながら」、「もう四十日すれば、ニネベの都は滅びる」と叫んだ(4節)。
 すると、驚くべきことが起こった。「身分の高い者も低い者も身に粗布をまとっ」て、主なる神の御前に罪を悔い改めたのである(5節)。ニネベの王までもが「王座から立ち上がって王位を脱ぎ捨て、粗布をまとって灰の上に座し」(6節)た。更に、ニネベの王は「布告を出し」、「人も家畜も、牛、羊に至るまで、何一つ食物を口にしてはならない」と「断食を命じた」(7節)。
 主なる神は、ニネベの人々が「悪の道から離れたことを御覧になり、思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた」(10節)。しかし、これを見たヨナは不愉快になり、怒った(4章1節)。彼はニネベの悔い改めを受け入れることが出来なかった。自分の願いとは異なる結果になったため、その現実を認めることが出来なかった。
 主なる神は私達に従順だけを求められる。従順の後の結果は主なる神が責任を取って下さる。