Five Solas Ministry

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

赤木善光 なぜ未受洗者の陪餐は許されないのか II・第二章

赤木善光 なぜ未受洗者の陪餐は許されないのか II・第二章
【関心・疑問】

【論文名】
第二章 未受洗者の陪餐を許すべきだという主張に対する批判

【著者名】
赤木 善光

【書名・(巻・号)・出版社・出版年・(版)】
『なぜ未受洗者の陪餐は許されないのか――神の恵みの手段としての洗礼と聖餐』東京: 教文館, 2008年, pp.81-101

【本文の構成】
I 現代におけるサクラメントの問題
 序
 第一章 教会史的考察
 第二章 現代におけるサクラメントの問題
II なぜ未受洗者の陪餐は許されないのか
 第一章 未受洗者の陪餐を許すべきだという主張
 第二章 未受洗者の陪餐を許すべきだという主張に対する批判
 第三章 赤岩栄が残した課題――上原教会が辿った歴史
 参考資料 陶山義雄「想起すべき聖餐・愛餐――赤岩栄が残した課題」

【内容の要約(ページ数)】

【引用したい文章(ページ数)】
 いま一つの理由は、事柄の本質上、未受洗者の陪餐を許すことは出来ないということです。それは後に申し上げるように、洗礼と聖餐とは本質的に密接に関連しているからです。たとえ未受洗者であっても、陪餐を許すべきだという主張は、洗礼と聖餐とが無関係であって、両者を切り離すことができるということを前提にしています。洗礼は洗礼、聖餐は聖餐であって、両者は無関係だと考えています。しかしそうではないのです。両者は本質的に関連しているのです。したがって、未受洗者の陪餐は許されないのです。(p.82)

 ③確かに福音は開かれたものであるが、キリスト教はそれ自身の秩序を持っている。その秩序を崩すべきでない。もし未受洗者に陪餐を許すと、洗礼の意味がなくなる。未受洗者に陪餐を許すということは、論理的には、洗礼と聖餐とは無関係で、両者を切り離すことができるという主張、また洗礼を無視してもよい、という洗礼否定論を含んでいる。
 一般に未受洗者の陪餐を認めるべきだと主張する人は、洗礼について真剣に考えていないのではないか。この問題における洗礼論の比重は大きい。それは、聖餐以上とも言うことができる。洗礼について論じないことは致命的欠陥だ。
 洗礼も聖餐も同じようにサクラメントであるが、次のような根本的な相違がある。
 (1) 洗礼は「抹消できない印銘」と言われているように、一回限りの、決定的なものであり、やり直しや繰り返しはできない。いったん受ければ、それで事は決定されるのであるから、受洗志願者は重大な決断を要求される。(p.86)

 言うまでもなく、聖餐の目的は救済である。しかし聖餐にはそれだけでなく、審判の面もある。「主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしている」(二九節)のである。私たちは現在、聖餐の持つ、このような審判的な面をも真剣に考えるべきではないだろうか。また聖書学者たちが指摘しているように、もしIコリント一六・二二「主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい」(口語訳では「もし主を愛さない者があれば、のろわれよ」)が初代教会の聖餐式において告知された言葉であるとすれば、聖餐には、すでにパウロの頃から、裁きや呪いの面があることとされていたと言うことができる。(p.97)

【コメント】

赤木善光 なぜ未受洗者の陪餐は許されないのか I・第一章

赤木善光 なぜ未受洗者の陪餐は許されないのか I・第一章
【関心・疑問】

【論文名】
第一章 教会史的考察

【著者名】
赤木 善光

【書名・(巻・号)・出版社・出版年・(版)】
『なぜ未受洗者の陪餐は許されないのか――神の恵みの手段としての洗礼と聖餐』東京: 教文館, 2008年, pp.13-25

【本文の構成】
I 現代におけるサクラメントの問題
 序
 第一章 教会史的考察
 第二章 現代におけるサクラメントの問題
II なぜ未受洗者の陪餐は許されないのか
 第一章 未受洗者の陪餐を許すべきだという主張
 第二章 未受洗者の陪餐を許すべきだという主張に対する批判
 第三章 赤岩栄が残した課題――上原教会が辿った歴史
 参考資料 陶山義雄「想起すべき聖餐・愛餐――赤岩栄が残した課題」

【内容の要約(ページ数)】

【引用したい文章(ページ数)】
バルト親子によるサクラメントの倫理化

 改革派の神学者カール・バルトは、一九四三年の『教会的洗礼論』により、幼児洗礼否定を公に宣言しました。次いで一九五一年、息子のマルクス・バルトは『洗礼はサクラメントか』という書物で、新約聖書の釈義を通して、洗礼のサクラメント性を否定し、洗礼が倫理であることを聖書によって証明しようと努めました。父親のカールはこの息子の影響を受け、『教会教義学』IV・4(一九六七年)で、洗礼をサクラメントとしてでなく、倫理として論じることに踏み切りました。これらバルト親子の書物はキリスト教会、特に改革派に大きな影響を与えました。(pp.17-18)

【コメント】

近藤剛 キリスト教思想断想 7

近藤剛 キリスト教思想断想 7
【関心・疑問】

【論文名】
7 寛容

【著者名】
近藤 剛

【書名・(巻・号)・出版社・出版年・(版)】
キリスト教思想断想』京都: ナカニシヤ出版, 2013年, pp.123-147

【本文の構成】
はじめに
1 罪
2 悪
3 死
4 信仰
5 愛
6 癒し
7 寛容
8 正義
9 地獄
10 自殺
11 職業
あとがき
人名索引
事項索引

【内容の要約(ページ数)】

【引用したい文章(ページ数)】
宗教的寛容の流失

 ヴォルテールに代表されるような啓蒙主義の宗教的寛容は、フランス革命(一七八九年)以後、極端に変質する。理性宗教の猛威がキリスト教の伝統を腐食し、人間中心主義が「世俗化」を過度に推し進め、その結果、世俗主義を蔓延させたのである。世俗主義において、寛容は価値相対主義の温床と化し、無関心な寛容へと流失し、ニヒリズムを招来することになる。二一世紀の今日、その反動としての宗教的ファンダメンタリズムが猖獗を極め、それに対する不適切な対応が憎悪の連鎖をさらに広げ、世界秩序を崩壊に追い込んでいる。(p.136)

【コメント】

近藤剛 キリスト教思想断想 3

近藤剛 キリスト教思想断想 3
【関心・疑問】

【論文名】
3 死

【著者名】
近藤 剛

【書名・(巻・号)・出版社・出版年・(版)】
キリスト教思想断想』京都: ナカニシヤ出版, 2013年, pp.45-61

【本文の構成】
はじめに
1 罪
2 悪
3 死
4 信仰
5 愛
6 癒し
7 寛容
8 正義
9 地獄
10 自殺
11 職業
あとがき
人名索引
事項索引

【内容の要約(ページ数)】

【引用したい文章(ページ数)】
死に対する不安は精神性の証

 生存の消滅を予期する意識、つまり死に対する不安は、人間が精神であることを強く自覚させる。死を観想することによって、生命の時間性が認識され、個人の一回的な人生の尊厳が明らかにされる。聖書の理解では、人間は神の創造による被造物である。造られた有限的な存在であるという人間の定めが、繰り返し説かれている。むしろ限りのあることが、生の尊さを際立たせる。旧約聖書において、死(マーウェト)は自然秩序の一部分として表現されることが多く(詩編四九編一三節、イザヤ書四〇章八節、ヨブ記二〇章七節を参照せよ)、ある種の無常観を漂わせている。例えば、次のような記述がある。(p.48)

死という苦しみ

 使徒信条における死の強調は、イエスの十字架上での苦しみが現実の苦しみであるということを我々に再認識させる。死は人間の苦しみの中で最後の苦しみであり、苦難の極みと言える。また、死は既存の生存可能性を瞬時に全て剥奪する。死によって人間は現前世界(家族、社会)との関わりを一切断たれ、生との関係を破壊されてしまう。エバハルト・ユンゲルの表現を借りれば、死は「関係喪失」の事態を意味する。ユダヤ教において、死は神との関係が断ち切られて、虚無に帰せられるという究極の恐怖を意味する。例えば、次のような描写がある。(pp.50-51)

【コメント】

橋本龍三, 春名純人編 カルヴァンを継ぐもの 六

橋本龍三, 春名純人編 カルヴァンを継ぐもの 六
【関心・疑問】

【論文名】
六、カルヴィニズムと経済

【著者名】
荻原 登

【書名・(巻・号)・出版社・出版年・(版)】
橋本 龍三, 春名 純人編『カルヴァンを継ぐもの』日本カルヴィニスト協会二十周年記念論文集; 1, 東京: すぐ書房, 1978年, pp.159-204

【本文の構成】
一、日本におけるカルヴィニズムの確立
二、北米のカルヴィニズムへの一考察
三、オランダのキリスト教哲学
四、カルヴァンの『キリスト教綱要』における神認識と自己認識について
五、テオドール・ド・ベーズの教会論
六、カルヴィニズムと経済
あとがき
付録 日本カルヴィニスト協会(JCA)講演会の歴史

【内容の要約(ページ数)】

【引用したい文章(ページ数)】
 以上要するに、カルヴァンにとっては、神の言葉は人間の全体にかかわっており、その精神も肉体も、現在も将来も、一個の個体としても社会の一員としても、神の言葉は全面的にかかわっている。神が語られるときに、人間はその全体像において神の前に立つ。神と人間の関係が基本である。この意味において、カルヴァン宗教改革は本質的に神学的改革であった。この関係が基本であるから、その結果として宗教改革は、道徳的・社会的・政治的・経済的な帰結を生ずる。人間の営む生のいかなる領域も、神の言葉と無関係に存在するものではないのである。これが大切なポイントである。カルヴァンの教理の眼目である。このことを念頭においたうえで、次にカルヴァンの経済思想、なかんずく利子論について、やや詳しくふれることにしよう。(p.173)

【コメント】

橋本龍三, 春名純人編 カルヴァンを継ぐもの 一

橋本龍三, 春名純人編 カルヴァンを継ぐもの 一
【関心・疑問】

【論文名】
一、日本におけるカルヴィニズムの確立

【著者名】
入船 尊

【書名・(巻・号)・出版社・出版年・(版)】
橋本 龍三, 春名 純人編『カルヴァンを継ぐもの』日本カルヴィニスト協会二十周年記念論文集; 1, 東京: すぐ書房, 1978年, pp.5-32

【本文の構成】
一、日本におけるカルヴィニズムの確立
二、北米のカルヴィニズムへの一考察
三、オランダのキリスト教哲学
四、カルヴァンの『キリスト教綱要』における神認識と自己認識について
五、テオドール・ド・ベーズの教会論
六、カルヴィニズムと経済
あとがき
付録 日本カルヴィニスト協会(JCA)講演会の歴史

【内容の要約(ページ数)】

【引用したい文章(ページ数)】
 カルヴィニズムは、聖書の語る全側面から人間を見ようとする。だから性急な結論を好む者は常につまずく。堕落の悲惨さを主張する点で徹底しているが、人間は堕落したとは言え、神に造られた存在としてその特性を失ってはいない。したがって、カルヴィニズムは人間の価値を不当に傷つけはしない。宗教的道徳的活動において、人間は、造られた者としての価値を発揮するし、『地を従わせよ』(創世記一章28節)との文化命令にも服して、文化を築きつづけて来たのである。しかし、生ける神に服そうとしない宗教活動は、偶像崇拝や自己開発の一手段になったりして、決して栄光を神に帰する礼拝にならない。道徳的能力もまた、人間の生得的能力や価値決定者としての自己の絶対化につながる、危険性を持っている。さらには、文化的所産も、その輝かしさゆえに、人間讃美や文化に膝をかがめさせる、人間絶対化への契機となりやすい。(pp.16-17)

 しかし、現代は、神を認めない世界においてさえ、人間の絶対化や文化礼賛の行きつくところが何であるかを、その終末的様相を通して露見させている。かくして宗教や道徳の領域においてのみならず、文化の再認識と救済においても、わたしたちはカルヴィニストに負わせられている使命の重大さを、いよいよ徹底して確認しなくてはならないところに来ている。このように言うとき、おのが限界を知る者は、恐れおののかずにはおれない。しかし、カルヴィニストは、依然として、神の御思いのスケールに従って思索し語ろうとするなら、これらのことを主張しつづけねばならないのである。(p.17)

【コメント】

大久保潤, 篠原章 沖縄の不都合な真実 第五章

大久保潤, 篠原章 沖縄の不都合な真実 第五章
【関心・疑問】

【論文名】
第五章 「公」による「民」の支配

【著者名】
篠原 章

【書名・(巻・号)・出版社・出版年・(版)】
大久保 潤, 篠原 章『沖縄の不都合な真実新潮新書; 601, 東京: 新潮社, 2015年, pp.118-138

【本文の構成】
序章 沖縄はこれからどうなるのか
第一章 普天間問題の何が問題なのか
第二章 高まる基地への依存
第三章 「基地がなくなれば豊かになる」という神話
第四章 広がる格差、深まる分断
第五章 「公」による「民」の支配
第六章 本土がつくったオキナワイメージ
第七章 「沖縄平和運動」の実態と本質
第八章 異論を封殺する沖縄のジャーナリズム
第九章 「構造的沖縄差別論」の危うさ
あとがき
主な参考文献

【内容の要約(ページ数)】

【引用したい文章(ページ数)】
 沖縄県にとって最大の経済的な課題は何よりも「貧困」にあります。が、この問題をさらに掘り下げてみると、①所得(雇用者報酬または労働分配)が公務員に偏在している、②所得上の著しい公民格差が存在する、③政治的な影響力のある公務員が経済的イニシアティブも握っている、④結果として「民」優位ではなく、琉球王朝以来の「公」優位の経済社会が温存されている、といった問題が浮き彫りになります。失業率や沖縄を悩ます他の経済的・社会的課題の大部分も「公」優位の、言い換えれば「公が支配する社会経済体制」に起因すると考えてよいでしょう。
 基地問題だけに目を向けて、公務員によるこのような「支配体制」から目をそむけているようでは、現状はけっして改善されません。(p.138)

【コメント】

大久保潤, 篠原章 沖縄の不都合な真実 第四章

大久保潤, 篠原章 沖縄の不都合な真実 第四章
【関心・疑問】

【論文名】
第四章 広がる格差、深まる分断

【著者名】
大久保 潤

【書名・(巻・号)・出版社・出版年・(版)】
大久保 潤, 篠原 章『沖縄の不都合な真実新潮新書; 601, 東京: 新潮社, 2015年, pp.90-117

【本文の構成】
序章 沖縄はこれからどうなるのか
第一章 普天間問題の何が問題なのか
第二章 高まる基地への依存
第三章 「基地がなくなれば豊かになる」という神話
第四章 広がる格差、深まる分断
第五章 「公」による「民」の支配
第六章 本土がつくったオキナワイメージ
第七章 「沖縄平和運動」の実態と本質
第八章 異論を封殺する沖縄のジャーナリズム
第九章 「構造的沖縄差別論」の危うさ
あとがき
主な参考文献

【内容の要約(ページ数)】

【引用したい文章(ページ数)】
 同年、教育の貧困についてより深刻な問題が発覚しました。沖縄の公立中・高の補習で、給料とは別にPTA会費から教師に報酬が出ていたことが国会で問題になり、文科省が調査しました。同様の事例が全国一七道県であったのですが、沖縄では模試の監督、遅刻指導、補習の時間割作成、実力テストの作問、小論文指導、面接指導などでも報酬が出ていました。(pp.98-99)

 ただでさえ高給で安定している教師の生活を、低所得の家庭が上乗せする形で支える倒錯した状況が、なぜ放置されてきたのでしょうか。
 それは、沖縄では先生は憧れの職業であり、社会をリードする支配階級だからです。このエリートである先生や役所の職員が基地反対運動を担っています。私は、生徒と先生の信頼関係が壊れているとしか思えない、こうした教育現場の貧困を知るたびに、平穏な生活を目指しているはずの基地反対運動の本気度を疑いたくなるのです。(p.99)

【コメント】