Five Solas

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書黙想 マルコの福音書12章24~27節

聖書黙想 マルコの福音書12章24~27節(新改訳 新約pp.84-85)
「今生きておられる神」

 復活と永遠のいのちは、クリスチャンにとって最も大きな希望です。サドカイ人たちが無理な論理を展開したのは、復活を信じず、この世が全部だと考えていたからです。彼らはこの地ですべての報いと懲罰を受けると信じていたので、それ以上のことを理解することができませんでした。サドカイ人たちは、復活と永遠のいのちをくださる神の力を信じませんでした。しかし、復活も、永遠のいのちも、御使いも、確かに実在します。復活するとき、私たちのからだは栄光に輝く姿へと変わり、御使いのようになります。この地での婚姻関係は天国に続きませんが、神は特別な方法で私たちの人生を幸いなものにしてくださいます。神がアブラハム、イサク、ヤコブの神であると言われたこと(出エジプト記3章6節)は、神とともに彼らが今も生きていることを意味します。すべての信仰者は神の中で生きています(ルカの福音書20章38節参照)。

聖書黙想 マルコの福音書12章16~17節

聖書黙想 マルコの福音書12章16~17節(新改訳 新約p.84)
「知恵深い答え」

 聖徒は、この地の市民としての義務にも忠実でなければなりません。ローマと政治的に結託していたヘロデ党と、彼らを蔑視していたパリサイ人たちは、ローマ皇帝に税金を納める問題で互いに対立していました。ですから、イエス・キリストがどちらの側についても厄介な立場に置かれることになります。主は彼らのたくらみを知っておられ、どちらか一つや両方を拒まずに、両方を認める答えをされました。当時、ローマに納めていた人頭税は1デナリでしたが、これは勤労者の一日の賃金に当たるものでした。その銀貨にはカイザルの肖像が刻まれており、彼がローマ神の大祭司であるという銘も刻まれていました。イエス・キリストはカイザルのものはカイザルに返しなさいと言う一方で、神のものは神に返しなさいと言われ、カイザルはもちろんのこと、この世のすべてのものが神に属していることをはっきりと語られました。

聖書黙想 マルコの福音書12章10~12節

聖書黙想 マルコの福音書12章10~12節(新改訳 新約pp.83-84)
「家を建てる者の見捨てた石」

 神の御手の中では、家を建てる者の見捨てた石も重要な礎石として整えられます。イエス・キリスト詩篇118篇22~23節を引用して、いくつかのことを教えられました。第一に、権力者たちがダビデを認めず神に敵対したように、イエス・キリストも敵によって殺されますが、必ずよみがえって勝利されます。第二に、ダビデの王座が永遠に建てられるという約束がイエス・キリストによって成就されます。第三に、世はイエス・キリストに逆らい見捨てますが、永遠の天国が臨むとき、すべての人々がともに主の栄光を見ます。第四に、石は子孫を象徴しますが、とこしえの岩であるイエス・キリストを中心にしてその民がとこしえまで立つことになります(ヨハネの黙示録3章21節; 7章9~10節)。宗教指導者たちは、イエス・キリストのたとえが自分たちのことを指していると知って主を捕らえようとしますが、イエス・キリストを支持する民を恐れるあまりに、そのまま立ち去ります。

祈り マルコの福音書11章15~25節

祈り マルコの福音書11章15~25節(新改訳 新約p.82)

 簡単に汚れてしまう私の心の宮を日々聖めてください。祈っていながらも信仰の足りなさのゆえに、疑って心配する弱さをお赦しくださり、いっさいの問題を主にゆだねることができますように。

聖書黙想 マルコの福音書11章20~25節

聖書黙想 マルコの福音書11章20~25節(新改訳 新約p.82)
「信仰をもって祈りなさい」

 イエス・キリストはベタニヤから出たところでいちじくの木に実がないのをご覧になり、これをのろわれます(マルコの福音書11章13~14節)。翌朝、弟子たちはそこを通って、根から枯れたいちじくの木を見て驚きます。この出来事を通して、イエス・キリストは弟子たちに4つのことを教えられます。神を信じ、心の中で疑わず、祈って求める者はすでに受けたと信じ、人を赦しなさいということです。このようなイエス・キリストの教えを逆に考えると、祈る人が神を信じられず、心に疑いを抱き、相変わらず心配し、怒りの心で人を赦せずにいることは、祈る人の正しい態度ではないということです。神は信仰をもってささげる祈りを喜ばれ、相手の咎を赦す者に大きな恵みを施されます。

聖書黙想 マルコの福音書11章15~19節

聖書黙想 マルコの福音書11章15~19節(新改訳 新約p.82)
「祈りの家の変質」

 エルサレムは、主の神殿がある場所で、ダビデが「シオンの要害」を攻め取って以来「ダビデの町」と呼ばれている場所です(サムエル記 第二5章4~7節)。ダビデが全力をかけて準備した「神殿建築プロジェクト」は、息子であるソロモンの時代に実現し、「平和の町」エルサレムに神殿が建てられました。契約の箱が主の神殿に入るとき、ソロモンは神に切なる祈りをささげます(列王記 第一8章1~66節)。このように神殿は「祈る場所」として出発し、預言者イザヤによって「すべての民の祈りの家」と宣言されています(イザヤ書56章7節)。しかし、イエス・キリストの時代、神殿は祈りの家どころか、イエス・キリストが「強盗の巣」と言われたほどに物質中心の取引所に変質してしまいました。「祈りの家」を最初の意図のとおりに聖く保つことができませんでした。

祈り 申命記3章12~22節

祈り 申命記3章12~22節(新改訳 旧約pp.281-282)

 先に相続地を与えられた部族も、ほかの部族のために戦いで先鋒に立つと約束しました。共同体の一員として力を合わせて益をなし、ほかの人を助けられますように。

聖書黙想 申命記3章18~22節

聖書黙想 申命記3章18~22節(新改訳 旧約p.282)
「まだ残っている使命」

 目標がすべて成就される前に、小さな成就に酔ってその場にとどまってはなりません。神が与えられた使命は、完全に成就されるまで最善を尽くすべきです。ルベンとガド、マナセの半部族は、ヨルダン川の東の地を分配され、そこにとどまりたいという誘惑にかられたことでしょう。しかし、イスラエルの大部分の部族は、地を所有するためにヨルダン川を越えなければならなかったので、モーセヨルダン川の東を分配された部族の勇士たちにほかの部族とともに地を征服する義務が残っていると教えました。彼らは最後までともにすべき運命共同体だったからです。個人の目標を達成したからと満足してはなりません。私たちにはともに汗を流して成就すべき、さらに大きな信仰共同体の使命が残っています。