Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 コリントの信徒への手紙一9章1~12節

聖書の黙想と適用 コリントの信徒への手紙一9章1~12節(新共同訳 新約p.310)

聖書の黙想と適用 コリントの信徒への手紙一8章1~13節

聖書の黙想と適用 コリントの信徒への手紙一8章1~13節(新共同訳 新約pp.309-310)

聖書の黙想と適用 コリントの信徒への手紙一7章32~40節

聖書の黙想と適用 コリントの信徒への手紙一7章32~40節(新共同訳 新約pp.308-309)

聖書の黙想と適用 コリントの信徒への手紙一7章17~31節

聖書の黙想と適用 コリントの信徒への手紙一7章17~31節(新共同訳 新約pp.307-308)

聖書の黙想と適用 コリントの信徒への手紙一7章8~16節

聖書の黙想と適用 コリントの信徒への手紙一7章8~16節(新共同訳 新約p.307)

聖書の黙想と適用 コリントの信徒への手紙一7章1~7節

聖書の黙想と適用 コリントの信徒への手紙一7章1~7節(新共同訳 新約pp.306-307)

聖書の黙想と適用 コリントの信徒への手紙一6章12~20節

聖書の黙想と適用 コリントの信徒への手紙一6章12~20節(新共同訳 新約p.306)

(1) 体は主のためにある(12~14節)

 キリスト者の価値観は「主のために」(13節)生きることを望むという点において未信者とは決定的に異なる。にもかかわらず、コリントの教会の中には、「わたしには、すべてのことが許されている」(12節)と考え、体を「みだらな行いのため」(13節)に用いる人々がいた。その背景には、物質的なもの、肉体的なものを軽視する彼らの誤った理解があった。彼らは「食物は腹のため、腹は食物のためにあ」るに過ぎず、「神はそのいずれも滅ぼされ」ると考えていた(13節)。
 それに対し、パウロは「しかし、すべてのことが益になるわけではない」(12節)と反論する。そして、体は「主のためにあり、主は体のためにおられる」(13節)と体の重要性を強調し、体を通して行うべきことと行うべきでないことがあると教えた。
 主なる神はイエス・キリストを「復活させ」た「その力によってわたしたちをも復活させてくださ」る(14節)。その時、この世で「主のために」生き、神の国の建設のために働いた人間は、「永遠の住まいに迎え入れてもらえ」、「本当に価値あるものを任」される(ルカによる福音書16章9節、11節)。永遠の世界における命は永遠に続く。
 地上の生涯は数十年で終わる。しかし、私達は限りある人生を我欲に振り回されて終えてはならない。この間、霊も心も体も「主のために」用いなければならない。私達の人生は選択の連続である。キリスト者は「神のために」という観点によって日毎選択し、生きなければならない。

(2) 聖霊の住まいである体(15~20節)

 パウロはコリントの教会の人々に、彼らの体が「キリストの体の一部」(15節)であることを教える。「主に結び付く者は主と一つの霊となる」(17節)からである。
 その上で、パウロは彼らに「みだらな行いを避けなさい」と勧告し、「みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯している」と述べている(18節)。パウロは、「二人は一体となる」という創世記2章24節の言葉を引用し、キリストの体の一部とされたキリスト者が「娼婦と交わる」ことは、「その女と一つの体となる」(16節)こと、即ち「キリストの体の一部を娼婦の体の一部」(15節)にしようとすることであると指摘する。それは、イエス・キリストの教会に対して重大な影響を及ぼす行為、即ち神の国を破壊する行為に他ならなかった。
 主なる神が御子イエス・キリストの血潮をもって「代価を払って」、私達の体を「買い取られた」のは(20節)、私達の体を「神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿」(19節)とするためであった。キリスト者の体は、主の御心を行う聖霊の住まいとされており、「もはや自分自身のものではない」(19節)。その所有権は主なる神にある。それ故、主なる神の御心に従い、「自分の体で神の栄光を表しなさい」(20節)とパウロは語る。

聖書の黙想と適用 コリントの信徒への手紙一6章1~11節

聖書の黙想と適用 コリントの信徒への手紙一6章1~11節(新共同訳 新約pp.305-306)

(1) 信仰のない人々に訴え出てはならない(1~6節)

 パウロは教会共同体の中で「日常の生活にかかわる争い」(4節)が生じた場合の対処の方法について教えている。というのは、コリントの教会では「一人が仲間の者と争いを起こしたとき」、この世の人々に「訴え出るようなこと」がなされていたからである(1節)。
 パウロは「そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです」(7節)と指摘する。キリスト者同士で争い、第三者に裁きを委ねること自体が、利己的な欲望への敗北を証明するものであった。どちらか一方が裁判で勝ったとしても、それはキリスト者としての敗北を意味した。
 キリスト者は、神の子供としての身分を与えられており、「世を裁く」(2節)者であるばかりか、「天使たちさえ裁く者」(3節)であるとパウロは言う。それ故、その身分に相応しい生き方をしていない時、世から非難を受ける。また、教会に「ささいな事件すら裁く力」(2節)がないこと、「兄弟を仲裁できるような知恵のある者が、一人もいない」(5節)ことは、父なる神と御子イエス・キリスト聖霊を辱めることになる。
 コリントの教会の人々が、「聖なる者」(2節)としての正しいアイデンティティと誇りを持っていたならば、「信仰のない人々の前で」「兄弟が兄弟を訴え」(6節)、「教会では疎んじられている人たちを裁判官の席に着かせる」(4節)ようなことはしなかっただろう。

(2) 聖なる者とされ、義とされた者として(7~11節)

 イエス・キリストを主と信じた者は、「主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされ」(11節)た。しかし、自分の弱さを認め、聖霊の恵みと力を日々受けなければ、いつでも過去の生活へと逆戻りしてしまう。
 パウロは、キリスト者同士で裁判沙汰にまで発展しているコリントの教会の人々に対し、「なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです」(7節)と述べた。
 その一方で、「兄弟たちに対して」「不義を行い、奪い取ってい」(8節)る人々に向けて、「正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか」(9節)と叱った。「みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません」(9~10節)とパウロは言う。
 キリスト者は、イエス・キリストに倣って愛と正義をもって互いを建て上げ、徳を高めるべきである。過去の自分に戻って、目先の利益だけを追求し、神の国の相続を忘れてしまうことほど愚かなことはない。神の国に対する希望を持っているキリスト者はいかなる現実にも揺るがない。

聖書の黙想と適用 コリントの信徒への手紙一5章1~13節

聖書の黙想と適用 コリントの信徒への手紙一5章1~13節(新共同訳 新約pp.304-305)

(1) コリントの教会における性的不品行(1~5節)

 キリスト者の道徳の水準は、イエス・キリストを主と信じていない人よりも高くなければならない。そのためにキリスト者は、自分の弱さを謙遜に認め、罪の根を遠ざけ、悪魔による罠を警戒し、慎み深い生き方をする必要がある。そして、罪を犯した時には直ちに悔い改めなければならない。
 コリントの教会には「父の妻をわがものとしている」人がいた(1節)。それは当時性的に乱れていたギリシア・ローマ社会においてさえ「ないほどのみだらな行い」であった。にもかかわらず、教会は、それを知りながら、「こんなことをする者を自分たちの間から除外す」(2節)ることなく、見過ごしていた。このような者の罪を明らかにし、懲らしめ、断ち切る時、教会は恥ずかしさと悲しみと痛みを経験する。しかし、そのことによって共同体の聖さは保たれる。

(2) 不道徳な人々との交際(6~13節)

「わずかなパン種が練り粉全体を膨らませる」(6節)ように、罪は共同体全体を腐敗させる。「キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られた」のは、私達が「いつも新しい練り粉のままでいられる」ため(7節)、即ち生活のあらゆる領域において聖く生きるためである。罪を放置することは主なる神の御心ではない。イエス・キリストを主と信じる者は、自分の中で、或いは教会の中でパン種のように膨らむ罪を取り除かなければならない。
 パウロはコリントの教会の人々に「兄弟と呼ばれる人で、みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の物を奪う者がいれば、つきあうな、そのような人とは一緒に食事もするな」(11節)と勧告した。この手紙よりも前に送った手紙――現存していない――においても、パウロはそのことを要請している(9節)。
 教会の「外部の人々は神がお裁きにな」(13節)る。しかし、「内部の人々」(12節)、即ち信仰のある兄弟が罪を犯していることが明らかな場合、教会は正当な手続きを経て懲戒の措置をとらなければならない。そうすることによって、その兄弟に自分の行為を省みさせ、悔い改めの機会を与えるためである。私達が罪から完全に自由になることは難しい。しかし、聖い人生を生きるために努力する時、私達は少しずつイエス・キリストに近づいていくことが出来る。

聖書の黙想と適用 コリントの信徒への手紙一4章9~21節

聖書の黙想と適用 コリントの信徒への手紙一4章9~21節(新共同訳 新約pp.303-304)

(1) 世の屑、すべてのものの滓(9~13節)

 コリントの教会の人々は、高慢になり、「王様」(8節)のように振舞っていた。それに対し、パウロは、自分や他の使徒達を「まるで死刑囚のように最後に引き出される者」(9節)、「世の屑、すべてのものの滓」(13節)に喩え、彼らのような態度がいかに間違っているかを指摘した。
 パウロも他の使徒達も「キリストのために愚か者」(10節)となった。具体的には、イエス・キリストのために「侮辱され」(10節)、「飢え、渇き、着る物がなく、虐待され、身を寄せる所もなく、苦労して自分の手で稼い」(11~12節)だ。また、イエス・キリストのために「侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返し」(12~13節)た。そして、イエス・キリストに更に献身することを願った。神の国において偉大な人は、この世においては謙遜である。

(2) 私に倣う者になりなさい(14~21節)

 パウロは、コリントの教会の人々に「福音を通し、キリスト・イエスにおいてわたしがあなたがたをもうけたのです」(15節)と述べ、自分と彼らの関係を親と子の関係として位置付けた。彼らにとってパウロは「キリストに導く養育係」(15節)に留まらなかった。パウロは「愛する自分の子供として」コリントの教会の人々を「諭」した(14節)。
 また、パウロは「わたしに倣う者になりなさい」(16節)と勧めている。そして、そのために自分の同労者であるテモテを遣わした。テモテについて、パウロは「彼は、わたしの愛する子で、主において忠実な者であり、至るところのすべての教会でわたしが教えているとおりに、キリスト・イエスに結ばれたわたしの生き方を、あなたがたに思い起こさせることでしょう」(17節)と述べている。
神の国は言葉ではなく力にある」(21節)とパウロは言う。主なる神は、イエス・キリストに結ばれ、聖書の言葉に従う謙遜な者を、力強い御腕をもって守り、導かれる。主なる神に忠実に仕える者は必ず勝利する。