Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 民数記20章1~13節

聖書の黙想と適用 民数記20章1~13節(新共同訳 旧約pp.245-246)

(1) 民の不平(1~5節)

 イスラエルの人々は、エジプトを出た後、カデシュで主なる神に呟いたために荒れ野で流浪生活をすることになってしまった(13章26節、14章35節)。それから40年が経ち、彼らは再びカデシュに戻って来た(1節)。そこは約束の地カナンに非常に近い場所であった。出エジプトの第一世代は荒れ野で死を迎えたが、モーセの姉ミリアムもこの地で死に、埋葬された(1節)。
 とはいえ、第二世代になっても、イスラエルの人々は全く変わっていなかった。彼らは、「共同体に飲ませる水がなかった」ことに不平を言い、「徒党を組んで」、指導者である「モーセとアロンに逆らった」(2節)。この出来事は、レフィディムで水がなかった時(出エジプト記17章1~3節)、またパランの荒れ野でカナン偵察の報告を聞いた時(民数記13~14章)、彼らの親がモーセやアロンに不満をぶつけた出来事を想い起こさせる。
 不平不満の根底には主なる神への不信仰がある。イスラエルの民は、自分自身と家畜の生存を脅かす水不足という状況に直面して、主なる神の約束と守りを信頼することが出来なくなった。彼らは不平不満に心を支配され、出エジプトの恵みを忘れ(5節)、「同胞が主の御前で死んだとき、我々も一緒に死に絶えていたらよかったのだ」(3節)と言った。何故イスラエルが長い間荒れ野で放浪をしなければならなくなったのか、これまで主なる神が彼らをどのように守り、導いてこられたかについて、彼らは顧みることも感謝することもなかった。
 一時的な困難のために主なる神の恵みを忘れることは非常に愚かなことである。イスラエルの民は「ここには種を蒔く土地も、いちじくも、ぶどうも、ざくろも、飲み水さえないではありませんか」(5節)とないものを列挙した。しかし、主なる神が彼らと共におられ、彼らに目を注いでおられることを忘れてしまっていた。
 私達も、自分自身や仕事、また周りの人ばかりに目を奪われず、私達を愛し、私達と共にいて下さる主なる神を見上げよう。問題にぶつかった時には不平を言うのではなく、主なる神の御前に出て行き、主なる神と対話をしよう。その時、私達は主なる神との繋がりを確信することが出来る。このことは、私達を励まし、強め、満たしてくれる。そして、主なる神に対する感謝と讃美へと私達を導く。

(2) モーセの怒り(6~13節)

 イスラエルの民の不平不満を聞くと、モーセはこれまでと同様に主なる神の御前にひれ伏した(6節)。主なる神はモーセに「あなたは杖を取り、兄弟アロンと共に共同体を集め、彼らの目の前で岩に向かって、水を出せと命じなさい。あなたはその岩から彼らのために水を出し、共同体と家畜に水を飲ませるがよい」(7節)と命じられた。
 しかし、民の度重なる反逆にモーセは憤りを制することが出来なかった。モーセは民に対し「反逆する者らよ、聞け。この岩からあなたたちのために水を出さねばならないのか」(10節)と感情を顕わにした。「杖で岩を二度打」(11節)ってしまったことも、モーセの激しい怒りを表していた。
 モーセが感情に流されてしまったことは、主なる神の僕に相応しい態度ではなかった。主なる神はモーセとアロンに対し、「あなたたちはわたしを信じることをせず、イスラエルの人々の前に、わたしの聖なることを示さなかった」(12節)と叱責された。そして、その結果、二人は約束の地カナンに入ることが出来ず、荒れ野で死ぬことになってしまった(12節、申命記1章37節、3章26節、4章21節)。
 神の民は主なる神の御心を表す管である。どれほど腹立たしい状況に直面しても、自分の感情が主なる神の言葉よりも先立つことがあってはならない。神の民は、いかなる状況にあっても主なる神が助けて下さることを信じ、主なる神の言葉に従い、主なる神の聖さを現さなければならない。

聖書の黙想と適用 民数記19章1~10節

聖書の黙想と適用 民数記19章1~10節(新共同訳 旧約pp.245-246)

(1) 罪の清めのための赤毛の雌牛(1~6節)

 主なる神は私達に清さを求められる。コラとその仲間による反逆や民の不平など、イスラエルの共同体では人々が自らの罪の故に次々に荒れ野で死を迎えていった。そのような中で主なる神はモーセとアロンを通してイスラエルの人々に罪の汚れを清める方法を教えられた(1節)。
 イスラエルの民は「まだ背に軛を負ったことがなく、無傷で、欠陥のない赤毛の雌牛」(2節)を罪の清めのための生贄として献げるよう命じられた。彼らは、「宿営の外」で赤毛の雌牛を屠り(3節)、「皮も肉も血も胃の中身も共に焼」(5節)いた。その灰が罪の清めに用いられた。
 雌牛の赤毛は罪の贖いのために流される血を象徴する。イスラエルの民の罪と汚れは生贄の血によって清められた。「血を流すことなしには罪の赦しはありえな」(ヘブライ人への手紙9章22節)かった。「緋糸」を赤毛の「雌牛を焼いている火の中に投げ込む」のもそのためであった(6節)。
 赤毛の雌牛は、私達のあらゆる罪を清めて下さるイエス・キリストの十字架の贖いを思い起こさせる(ヘブライ人への手紙9章12~13節)。今日の私達もイスラエルの人々と同じようにいつも罪と汚れに晒されている。しかし、私達は赤毛の雌牛を生贄として献げる必要はない。何故なら、「御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血」が、私達の罪と汚れを清め、私達を「生ける神を礼拝する」ことへと導いて下さるからである(同14節)。イエス・キリストの御名によって罪を告白する時、私達は罪の赦しを得ることが出来る。

(2) 民の罪の清めに関わる人々(7~10節)

 祭司は赤毛の雌牛を用いて「イスラエルの人々の共同体のために罪を清める水を作る」(9節)全ての過程に関わった。赤毛の雌牛は祭司の前で屠られ(3節)、焼かれた(5節)。祭司は「指でその血を取って、それを七度、臨在の幕屋の正面に向かって振りま」(4節)いた。「杉の枝、ヒソプ、緋糸を取って、雌牛を焼いている火の中に投げ込む」(6節)ことも祭司の役割であった。このようにして作られた「雌牛の灰」(9節)は、イスラエルの人々の罪を清めるために用いられた。
 しかし、この過程で祭司は「夕方まで汚れ」ることになった(7節)。赤い「雌牛を焼いた者」(8節)、「雌牛の灰を集めた者」(10節)も同様であった。「イスラエルの人々の共同体のために罪を清める水を作る」(9節)ことに携わった時、祭司は「自分の衣服を洗い、体に水を浴び」なければ、「宿営に入ることができ」なかった(7節)。彼らの労苦と犠牲があってこそ、イスラエルの共同体は清さを保つことが出来た。
 キリスト者も祭司の使命を与えられている。罪のために悩み、苦しむ隣人を助けることには、非常に大きな労苦と犠牲を伴う。しかし、その人が救いを受けるために、キリスト者は、聖書の言葉と祈りをもって清さを保つよう努めると共に、愛をもって隣人を助けることを求められている。

聖書の黙想と適用 民数記18章21~32節

聖書の黙想と適用 民数記18章21~32節(新共同訳 旧約p.245)

(1) レビ人に対する報酬(21~24節)

 イスラエルの人々は、約束の地カナンにおいて主なる神から「嗣業の土地」を与えられ、そこを生活の基盤とした。しかし、レビ人は、住まいとして「四十八の町とその放牧地」(35章7節)を与えられただけで、嗣業の土地を所有することはなかった(23~24節)。しかし、主なる神ご自身が彼らの「受けるべき割り当てであり、嗣業」(20節)であった。
 その上で、主なる神は「イスラエルでささげられるすべての十分の一」をレビ人に与えられた(21節)。民がささげた献げ物は、主なる神に対する感謝のしるしであると共に、レビ人が「臨在の幕屋の作業をする報酬」(21節)であった。こうしてレビ人は臨在の幕屋で仕える働きに専念することが出来た。主なる神はご自分のために働く者の奉仕と献身に対して報いて下さる。
 主なる神は今日の教会においてもレビ人のような働き人を立てられている。キリスト者は誰でも尊いが、主なる神への礼拝という神の国における中心的な活動に携わるよう召されたという意味において彼らの職責は特別に尊い。献身者は自分が主なる神のものとされていることに恐れ戦きつつ務めに励もう。また、他のキリスト者は、その働き人が主なる神の言葉をまっすぐに説き明かし、主なる神に忠実に仕えているならば、主なる神の権威を認め、彼らに敬意を払い、彼らの労苦と献身に感謝し、金銭的にも責任をもって支えていこう。

(2) レビ人が主にささげる十分の一の献納物(25~32節)

 十分の一の献げ物は、全ての神の民が主なる神から与えられた恵みの一部を感謝をもって主なる神にお返しするものである。主なる神はレビ人に、主なる神が「嗣業として与えた十分の一」のうち「十分の一を主にささげる献納物」とするよう命じられた(26節)。
 その際、レビ人は「贈られたもののうちから最上のもの、聖なる部分を選んで、主にささげる献納物としなければならな」(29節)かった。また、彼らは「最上のものをささげる」ことにおいて「罪を犯し」たり、「イスラエルの人々の聖なる献げ物を汚」さないように注意しなければならなかった。主なる神はレビ人に、それを蔑ろにすることは「死を招」くと言って厳守を求められた(32節)。
 その上で、レビ人が「主にささげる献納物」は「祭司アロンに与え」られた(28節)。民が献げた主なる神への献納物はレビ人のものとなり、レビ人が献げた主なる神への献納物は祭司のものになった。このようにイスラエルの共同体は、民とレビ人と祭司が相互の奉仕と主なる神の祝福によって親密に繋がっていた。
 キリスト者が自分の収入の10分の1を献げるのも義務感や点数稼ぎのためであってはならない。イスラエルの民は献げ物を通して主なる神への愛を表した。また、それと共に同胞に対する愛と感謝をもって共同体を形成した。同様に、キリスト者が豊かに献げたいと願うのも主なる神を愛しているからである。また、収入の一部を主なる神に献げることによって、教会では他の兄弟姉妹に対する愛と配慮が更に豊かになっていく。

聖書の黙想と適用 民数記18章8~20節

聖書の黙想と適用 民数記18章8~20節(新共同訳 旧約pp.244-245)

(1) 祭司に与えられる献げ物(8~14節)

 主なる神のために働く人には主なる神ご自身からの報酬がある。主なる神は祭司アロンに「あなたはイスラエルの人々の土地のうちに嗣業の土地を持ってはならない。彼らの間にあなたの割り当てはない」(20節)と言われた。その一方で、アロンに「イスラエルの人々が聖なる献げ物としてささげる献納物の管理を任せ、その一部を定められた分として」(8節)与えることを約束された。祭司はイスラエルの人々が主なる神にささげた「穀物の献げ物、贖罪の献げ物、賠償の献げ物」を食べることが出来た(9~10節)。また、カナンの地で収穫された「最上のオリーブ油、極上の新しいぶどう酒、穀物など、主にささげられた初物」(12節)にも与ることが出来た。
 主なる神は、「イスラエルの人々がささげた」献げ物が祭司のものとなることについて、「不変の定め」(11節、19節)、「あなたとあなたの子孫に対する永遠の塩の契約」(19節)と言って、その不変性を強調された。これが臨在の幕屋で主なる神に仕える祭司に対する報酬であった。それによって主なる神は、祭司が生活の心配をすることなく、主なる神の働きだけに専念出来る環境を作られた。
 主なる神に仕えることには様々な苦難が伴う。しかし、主なる神はご自分の僕を決してお見捨てにはならない。ご自分に仕える者の必要をご存知であり、その僕が生活を維持出来るよう責任を持って下さる。主なる神は私達の献身に対して神の国の良いもので報いて下さる。

(2) 主なる神のものである初子(15~20節)

 主なる神は祭司アロンに「人であれ、家畜であれ、主にささげられる生き物の初子はすべて、あなたのものとなる」(15節)と約束された。祭司は「牛、羊、山羊の初子」を「宥めの香り」として「燃やして主にささげ」た後(17節)、その肉を与えられた(18節)。また、「イスラエルの人々が主にささげる聖なる献納物」には、祭司だけでなく「共にいる息子たち、娘たち」も与ることが出来た(19節)。但し、「人の初子」と「汚れた家畜の初子」は、生贄にしてはならず、「贖い金を支払う」ことによって「必ず贖わねばならな」かった(15~16節)。「贖う」とは「身代金を払う」という意味である。
 全ての初物は主なる神のものであるという考えは、エジプトにおける初子の死の出来事を背景にしている。この時、主なる神はイスラエルの初子を生かされ、ご自分のものとされた(出エジプト記13章2節)。これはイスラエルの民全体が主なる神のものとなったことを意味する。主なる神はイエス・キリストを通して私達をご自分のものとされた。主なる神がイエス・キリストを代価として払い、私達を買われた。だから、私達の人生と働きを全て主なる神に委ねて忠実に進もう。

聖書の黙想と適用 民数記18章1~7節

聖書の黙想と適用 民数記18章1~7節(新共同訳 旧約pp.243-244)

(1) 祭司の助け手としてのレビ人(1~4節)

 主なる神は、「主の幕屋に近づく者が皆死ぬのであれば、わたしたちは絶え果てるではありませんか」(17章27節)というイスラエルの人々の言葉を受けて、祭司とレビ人の任務について教えられた。
 祭司とレビ人は「共に聖所に関する罪責を負わねばならない」(1節)人々であった。アロンとその子らは聖所において祭司の務めを担い(1節)、主なる神に生贄を献げ、イスラエルの民の罪を贖う働きをした。他の人が祭司の職に欲を出したら裁かれた。一方、レビ族のうち、アロンとその子らを除く者は、祭司の「身近な助け手」(2節)として、祭司の「務めを助け」に協力し、「幕屋全般の務めを果た」した(3節)。しかし、レビ人は「聖所の祭具および祭壇に絶対に近づいてはならな」(3節)かった。祭壇には祭司しか近づくことが出来なかった。
 祭司とレビ人は、臨在の幕屋で共に主に仕える働きを担ったが、夫々の役割は明確に区別されていた。これは、レビ人に対する差別でも、レビ人が祭司より劣っているということでもない。役割の違い、主なる神の召しの違いを意味した。主なる神はご自分の民に一人一人固有の召しを与えられ、為すべき務めを任される。主なる神によって与えられた役割が何であれ、それを喜びと感謝をもって受け入れ、忠実に果たす時、私達は主なる神の御心に適う共同体を形成することが出来る。

(2) 賜物としての祭司の務め(5~7節)

 主なる神が祭司に「祭壇および垂れ幕の奥にかかわる事柄について」(7節)任されたのは、主なる神の「怒りが再びイスラエルの人々に臨むこと」(5節)を防ぐためであった。レビ人は「主に属する者として」祭司を助け、「臨在の幕屋の作業に従事」し(6節)、民が聖所に入るのを防いだ。聖所に「一般の人が近づ」いて、主なる神の領域を侵した場合、その人は「死刑に処せられ」た(7節)。このように祭司とレビ人は聖なる神と罪ある人間の緩衝地帯としての役割を果たした。
 主なる神はアロンとその子孫に「賜物として」「祭司の務め」をお与えになった(7節)。主なる神から与えられた務めを担うこと自体が、彼らに対する主なる神の報酬であった。今日においても或る働きを通して主なる神に仕えることは、主なる神が私達に与えて下さる尊い賜物である。主なる神が私達にご計画を示して下さった時、自分のスケジュールを白紙にし、主なる神の御声に聴き従う者だけがその使命を果たすことが出来る。主なる神から使命を受けることは、自分が諦め切れなかった価値やビジョンを捨て、新たに生まれることを指す。自分の人生の計画を一旦置いて、主なる神の御声を聴くことに集中してみよう。

聖書の黙想と適用 民数記17章16~28節

聖書の黙想と適用 民数記17章16~28節(新共同訳 旧約pp.242-243)

(1) 十二本の杖(16~22節)

 主なる神は、モーセとアロンの権威を認めず反逆し続けるイスラエルの民に対し、ご自分が誰を指導者として選んだか、確かな証拠を示そうとされた。主なる神はモーセに、イスラエルの各部族の指導者――レビ族の指導者はアロン(18節)――の「名前を書き記し」(17節)た杖を「臨在の幕屋の中の掟の箱の前に置」(19節)くよう命じられた。その上で、ご自分が選んだ者の「杖は芽を吹くであろう」(20節)と告げられた。
「杖」を意味するヘブライ語(מַטֶּה [matteh])には「部族」という意味もある。それ故、12本の杖はイスラエルの12部族を象徴するものであった。そして、各部族の指導者の12本の杖を「臨在の幕屋の中の掟の箱の前」に置くことは、12部族が主なる神の御前に立っていることを意味した。また、木としては既に枯死している杖に「芽が吹く」というのは、主なる神の超自然的な力によるもので、誰にも否定出来ない奇蹟である。こうして主なる神は、モーセとアロンに対する「イスラエルの人々の不平を取り除」(20節)き、他の部族が彼らの権威についてこれ以上反論出来ないようにされた。主なる神はご自分がお立てになった指導者の苦しみを決して見過ごされない。
 一方、イスラエルの12部族は、皆神の民であるが、全ての人が指導者として、祭司として立てられるわけではない。どのような働きを任せられているか以上に重要なことは、どのような心で主なる神に仕えるかである。主なる神は私達がご自分に向かう心を御覧になっている。

(2) アロンの杖(23~28節)

 翌日、モーセが幕屋に入って行くと、掟の箱の前に置かれた12本の杖のうち、「レビの家のアロンの杖」だけが「芽を吹き、つぼみを付け、花を咲かせ、アーモンドの実を結んでいた」(23節)。アーモンドの白い実は清らかさと聖さの象徴である。主なる神は、この御業を通してご自分が全てを治めておられること、そしてアロンを祭司に任命したことを示された。
 その上で、主なる神はモーセに「アロンの杖を掟の箱の前に戻し、反逆した者たちに対する警告のしるしとして保管しなさい」(25節)と言われた。主なる神は、「コラとその仲間」の反逆、民の不満に対して恐ろしい裁きを下された。主なる神は私達にも特別な御業を行われることによって懲らしめや警告をお与えになることがある。その時、自分の罪を悔い改めて、反逆と不満を捨て、主なる神に対する感謝と讃美を選ぼう。主なる神は、枯死していた杖に命を吹き込まれたように、私達にも新しい命を与えて下さる。

聖書の黙想と適用 民数記17章1~15節

聖書の黙想と適用 民数記17章1~15節(新共同訳 旧約p.242)

(1) 警告のしるしとしての祭壇の覆い(1~5節)

 主なる神は、モーセを通して「祭司アロンの子エルアザル」に(1節)、焼かれて「命を落とした罪人」250人が献げた青銅の香炉を「焼け跡から取り出し」(2節)、その「香炉を打ち延ばして板金にし、祭壇の覆いを作」るよう命じられた(3~4節)。彼らは罪を犯して主なる神の裁きを受けたが、香炉は「主の御前にささげられ、聖なるものとされている」(3節)。主なる神はこれを用いてイスラエルの人々に秩序に対する従順と主なる神に仕える方法を教えられた。
 祭壇の覆いは「イスラエルの人々に対する警告のしるし」(3節)であった。即ち、イスラエルの人々は、今後焼き尽くす献げ物をささげる時、祭壇の覆いを見る度に「アロンの子孫以外の者が主の御前に近づき、香をささげてはならないこと」、「コラとその仲間のように」主なる神が立てられた指導者に妬みを抱くことのないようにすることを「思い起こ」すことになった(5節)。これは彼らに同じ失敗を繰り返させないための主なる神の配慮であった。
 私達は自分が犯した罪の故に懲らしめを受けた時、それを教訓とし、同じ罪を繰り返さないよう警戒する必要がある。その際、過去の罪をなかったことにして、隠そうとしてはならない。過去の罪を主なる神の御前で認め、心から悔い改めることを主なる神は願われる。

(2) 民のために罪を贖う儀式を行うアロン(6~15節)

イスラエルの人々の共同体全体」は、主なる神の裁きを目の当たりにしたにもかかわらず、自分達の罪を悟らなかった。そればかりか、彼らは「あなたたちは主の民を殺してしまったではないか」(6節)とコラとその仲間の死をモーセとアロンのせいにし、彼らを激しく糾弾した。そのため、主なる神の怒りは民全体に及んだ(7節)。主なる神は彼らに罰として疫病を下された(11節)。その結果、14700人が疫病によって死んだ(14節)。自分の罪を認めて悔い改めなければ、主なる神の裁きを免れることは出来ない。
 イスラエルの人々を救ったのはアロンの執り成しであった。アロンは、モーセの指示を受け(11節)、「香をたき、民のために罪を贖う儀式を行」(12節)った(11節)。すると、災害は治まった(13節)。250人が献げた香炉は主なる神の裁きと死をもたらしたが、アロンの香炉は民に贖いと命をもたらした。このことを通して主なる神は、祭司としてのアロンの権威と使命をもう一度イスラエルの民に教えられた。
 祭司には民を執り成す使命が与えられている。自分に敵対する人々のために執り成しをしたアロンの姿は、十字架上で私達のために「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカによる福音書23章34節)と祈られたイエス・キリストの姿と重なる。キリスト者にも、祭司として、相手が誰であれ――たとえ自分と敵対する人間であったとしても――、その人を生かすために、執り成しの祈りを献げる責任と務めが与えられている。

聖書の黙想と適用 民数記16章12~22節

聖書の黙想と適用 民数記16章12~22節(新共同訳 旧約pp.240-241)

(1) ダタンとアビラムの反逆(12~14節)

「エリアブの子であるダタンとアビラム」は、コラと共にモーセに反逆し、モーセの呼び出しにも応じなかった(12節)。彼らは、自分達が約束の地カナンに入り、「嗣業」として畑やぶどう畑を得ることなく、荒れ野で死ななければならなくなった原因と責任をモーセに押しつけた。また、モーセが自分達の上に君臨したがっていると非難した(13~14節)。彼らは「エジプトの国で死ぬか、この荒れ野で死ぬ方がよほどましだった」(14章2節)と言った自分達の不信仰を棚に上げ、あらゆる不平不満をモーセ一人のせいにした。
 ダタンとアビラムは「あなたがたは分を越えている。共同体全体、彼ら全員が聖なる者であって、主がその中におられるのに、なぜ、あなたたちは主の会衆の上に立とうとするのか」(3節)と《平等主義》を根拠にモーセに逆らった。しかし、その実、彼らの非難は、モーセとアロンにだけ権威が与えられていることに対する嫉妬に基づくものであった。そこから彼らは徒党を組み、イスラエルの民を扇動し、モーセとアロンに逆らわせようとした。
 確かに、全ての人間は「神にかたどって創造された」(創世記1章27節)者として、同じように尊厳を持ち、同じように主なる神に愛されている。その意味で人間は《存在においては》皆平等である。しかし一方で、主なる神はご自身の御業を行い、神の国を前進させるために特定の人をお立てになる。その意味で人間は《役割においては》平等ではない。主なる神が立てられた人を拒むことは、主なる神に対する反逆である。主なる神が立てられた権威に対する反逆は、いかなる理由があろうとも決して正当化することは出来ない。

(2) モーセの祈り(15~22節)

 モーセは自分に反逆する人々に対して「激しく憤っ」(15節)た。しかし、その怒りを彼らにそのままぶつけることをせず、主なる神の御前に心を注ぎ出した。モーセは主なる神に「彼らから一頭のろばも取ったことはなく、だれをも苦しめたことはありません」(15節)と告白した。これは「我々の上に君臨したいのか」(13節)というダタンとアビラムの非難に対する応答であった。
 その一方で、主なる神がモーセとアロンに「この共同体と分かれて立ちなさい。わたしは直ちに彼らを滅ぼす」(21節)と言われると、彼らは主なる神の御前にひれ伏し、「あなたは、一人が罪を犯すと、共同体全体に怒りを下されるのですか」と執り成しの祈りを献げた(22節)。モーセは、何か問題が起こると、まず主なる神に祈り、謙って御心を求めた。また、自分に反逆するイスラエルの民のためにも執り成しの祈りを献げた。主なる神は、そのようなモーセを指導者として立て、イスラエルを守り導かれた。

聖書の黙想と適用 ローマの信徒への手紙14章1~12節

聖書の黙想と適用 ローマの信徒への手紙14章1~12節(新共同訳 新約pp.293-294)

(1) 主なる神の召し使いとしてのキリスト者(1~6節)

 教会の中で見解の相違から他のキリスト者を批判することが起こる時がある。当時のローマの教会には、イエス・キリストの福音の故に「何を食べてもよいと信じている人」(2節)――異邦人のキリスト者――がいた。一方、ユダヤキリスト者の中には、イエス・キリストを信じるようになった後も、律法の食物規定を守り(レビ記11章)、「野菜だけを食べている」人がいた。そのため、ローマの教会では「食べる人」が「食べない人を軽蔑し」たり、逆に「食べない人」が「食べる人を裁」くなど、見解の相違により互いを罪に定めるということが起こっていた(3節)。
 また、ローマの教会では暦をめぐる問題も存在した。一部のユダヤキリスト者は、律法に規定されている暦を依然として重視し、「ある日を他の日よりも尊」んだ。一方、異邦人キリスト者は、それに縛られることなく「すべての日を同じように考え」た(5節)。
 両者の対立に対し、パウロは「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません」(1節)と教えている。そして、その理由として主なる神の主権に言及している。即ち、キリスト者は主なる神の「召し使い」であり、主なる神が「主人」としてその人を「立たせ」ている(4節)。それ故、特定の食べ物を食べない人を侮ったり、食べる人を裁くことは、その人を召し使いとして受け入れた主なる神を裁くことに他ならなかった(3節)。
 その上で、パウロは、キリスト者にとって重要なのは、何をするかしないかではなく、「主のために」それをする(しない)ことであると教えた(6節)。
 教会ではイエス・キリストの福音があらゆる問題の是非を判断する基準である。そして、信じ、告げ知らせる福音は同じでなければならない(ガラテヤの信徒への手紙1章8節)。その一方で、福音の本質に関わらない事柄においては意見の違いを認め合う必要がある。
 とはいえ、福音の本質に反しないかどうかを判断するのが難しい事柄がある。その場合、私達はそれが主なる神に栄光を帰するかどうかを自らに問う必要がある。何故なら、主なる神に栄光を帰することこそが、「召し使い」であるキリスト者に求められていることだからである。
 キリスト者は「主人」である神を見上げ、主なる神が一人一人に与えられた相違を認め、互いに調和を保って生きる方法を学ばなければならない。主なる神が、私達一人一人に信仰を与え、その信仰を成長させて下さる。私達が躓かないよう、ご自分の御力をもって立たせて下さる。だから、他のキリスト者の行動をむやみに裁かず、互いに尊び、受け入れ、配慮し合おう。裁くことがお出来になるのは主なる神だけである(4節)。全てのことを「主のために」行い、互いに寛容をもって愛に努める時、主なる神に喜ばれる共同体を形成することが出来る。

(2) 主なる神の裁きの座の前に立つ(7~12節)

 私達の人生の目的は私達が誰に属しているかによって違ってくる。パウロは「生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」(8節)と述べ、キリスト者が主なる神の主権と所有権の下にあることを教えた。イエス・キリストは、十字架で死なれることによって「死んだ人の主」となられた。また、復活を通して「生きている者の主」となられた(9節)。だから、生きた者に対しても、死んだ者に対しても主権と所有権を主張することが出来る。
 キリスト者は、イエス・キリストを主人とし、「生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬ」(8節)者である。「だれ一人自分のために」生きる者も死ぬ者もいない(7節)。パウロの生涯はまさにその良い模範であった。
 その上で、パウロは、私達が主なる神のものであるように、他のキリスト者も主なる神のものであり、それ故他のキリスト者を裁いたり、侮ったりしてはならないと説いた(10節)。パウロによれば、自分と信仰の表し方が異なるという理由で、他のキリスト者を批判し、非難するのは、その人に対する主なる神の主権と所有権を認めていないからである。そして、それは私達がやがて「神の裁きの座の前に立つ」(10節)ことを意識していないためであるとパウロは指摘する。
 パウロはやがて訪れる主なる神の裁きを警告する。最後の裁きの時、私達は主なる神の御前で「一人一人、自分のことについて神に申し述べ」(12節)なければならない。全ての言行が主なる神によって裁かれる日を意識して生きる時、私達は、他の人の信仰を裁いたり、侮ったり、非難したり出来なくなる。また、その最後の裁きの時、全ての神の民が主なる神の御前に膝を屈め、主なる神をほめたたえることになる(11節)。見解の相違の故に今対立している他のキリスト者も、自分と同じようにイエス・キリストによって救いへと入れられた「兄弟」(10節)である。生きるにしても死ぬにしても、私達は主なる神に栄光を帰すことが求められている。

聖書の黙想と適用 民数記15章32~41節

聖書の黙想と適用 民数記15章32~41節(新共同訳 旧約p.239)

(1) 安息日の違反(32~36節)

 イスラエルの人々にとって安息日の遵守は神の民としてのアイデンティティを守るための重要な要素であった(出エジプト記20章10節)。もし自分の都合や利益のために安息日を無視するなら、彼らは主なる神への服従を蔑ろにすることになる。
イスラエルの人々が荒れ野にいたとき」、「安息日に薪を拾い集めている」男が見つかった(32節)。見つけた人々は彼を「モーセとアロンおよび共同体全体のもとに連れて」行った(33節)。しかし、彼を「どうすべきか」、主なる神から「示しが与えられていなかった」ため、彼を「留置」することにした(34節)。
 それに対し、主なる神は、モーセに「その男は必ず死刑に処せられる。共同体全体が宿営の外で彼を石で打ち殺さねばならない」(35節)と言われ、この男に対して断固とした処罰をお命じになった。
 安息日を無視した男に対する死刑は、主なる神の言葉に従わないことがどのような結果をもたらすかを示している。「故意に罪を犯した者」(30節)は主なる神から厳しい罰を受ける。この出来事を通して、主なる神は、私達が主なる神の言葉に背くことの深刻さと破壊性を、そして主なる神の言葉をいつも思い起こし、行うことの大切さを教えられた。

(2) 衣服の房(37~41節)

 主なる神の言葉を守ることは、主なる神が喜ばれる生活の第一歩である。とはいえ、イスラエルの民がまさにそうであったように(14章2節)、私達も大いなる恵みを体験してもすぐに忘れてしまう。それ故、いかなる時でも主なる神の命令を思い出すことの出来る工夫が必要である。
 主なる神は、イスラエルの民がご自分の「すべての命令を思い起こして守り」(40節)、「自分の心と目の欲に従って、みだらな行いをしないため」に(39節)、「代々にわたって、衣服の四隅に房を縫い付け、その房に青いひもを付けさせ」(38節)た。
 主なる神は人間の弱さをよくご存知である。それ故、イスラエルの民が「神に属する聖なる者」(40節)となるために、彼らに主なる神の命令にいつも立ち帰る方法を教えられた。主なる神はイスラエルの民を「エジプトの国から導き出した」「神、主」(41節)である。私達も主なる神の言葉と祈りを通して主の御前にきよい者として生きる知恵と力を受けることが出来る。この世にあって神の民として相応しく生きることは、日常生活の中で主なる神の言葉を慕い求めることから始まる。