Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 イザヤ書5章1~7節

聖書の黙想と適用 イザヤ書5章1~7節(新共同訳 旧約p.1067)

(1) 主なる神の期待と落胆(1~2節)

 主なる神は農夫であり、イスラエルの民は「ぶどう畑」(1節)である。農夫は「良いぶどうが実る」ことを期待して、「肥沃な丘」を「よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた」(1~2節)。そして、愛情を込めて世話をし、「見張りの塔を立て、酒ぶねを掘」(2節)った。私達に対する主なる神の労苦はいつも最高のものである。しかし、期待に反して、「実ったのは酸っぱいぶどう」(2節)だった。
 ぶどう畑の目的は華麗な花や立派な枝ではなく、良い実を結ぶことである。農夫であられる神は、私達に良い実を結ぶことを期待される。私達も良い実を結んで主なる神の情熱に応えなければならない。
 では、どうすれば良い実を結ぶことが出来るだろうか。主なる神は「裁きの霊と焼き尽くす霊をもってシオンの娘たちの汚れを洗い、エルサレムの血をその中からすすぎ清め」(4章4節)られる。私達の肉の力では良い実を結ぶことは出来ない。ただイエス・キリストだけがそれをお出来になる。ぶどうの木であられるイエス・キリストにしっかりと繋がっている時、枝である私達は豊かな実を結ぶ(ヨハネによる福音書15章5節)。

(2) イスラエルの裏切りと主なる神の裁き(3~7節)

 主なる神は、イスラエルの民を選ばれ、良い所に置かれただけでなく、自ら彼らの保護者になられた。「わたしがぶどう畑のためになすべきことで/何か、しなかったことがまだあるというのか」(4節)と言われるほど、彼らのために尽力し、惜しみなく愛を注がれた。
 しかし、イスラエルの民は「裁き(ミシュパト)」と「正義(ツェダカ)」を願われる主なる神の期待に全く応えなかった。寧ろ「流血(ミスパハ)」と「叫喚(ツェアカ)」を引き起こした(7節)。ご自分の愛にイスラエルの民が裏切りによって応えたことは、主なる神を失望させ、悲しませた。
 これに対し、主なる神は彼らに裁きを下すことを決められた(5~6節)。私達は裁きのメッセージを聞く時、主なる神の御心を理解しなければならない。また、その愛がどれほど細やかで具体的であるかを見なければならない。

聖書の黙想と適用 イザヤ書4章1~6節

聖書の黙想と適用 イザヤ書4章1~6節(新共同訳 旧約p.1066)

(1) 裁きの日に恥を見る女(1節)

 エルサレムは主なる神の厳しい裁きによって荒れ果て、残された者は大きな災いと苦難に遭う。特に女はひどい苦しみと恥を味わう。
 男がバビロンの軍隊によって「剣に倒れ」(25節)るため、女は結婚相手を見つけることが出来なくなる。ユダの社会において夫がいないことは大きな恥であった。夫がいなければ、子を生むことが出来なかったからである。そのため、ユダに裁きが臨んだ時、「七人の女が一人の男」に縋り付き、「どうか、あなたの名を名乗ることを許し/わたしたちの恥を取り去ってください」と哀願することになる。
 主なる神を蔑み、「高慢」(16節)に振る舞う者は、裁きの日に恥を見ることになる。そのような女の姿は、高慢が荒廃の前ぶれであることを証明する。

(2) エルサレムの将来の栄光(2~6節)

 主なる神は怒りの鞭をもってイスラエルの民を懲らしめられる。しかし、彼らを完全には滅ぼされない。主なる神の裁きの目的はイスラエルの破滅ではなく、回復だからである。
 このような主なる神の救いの計画が「主の若枝」(2節)として表れた。主なる神はイエス・キリストダビデの子孫としてこの地に送られる。この方は、イスラエルの民を「聖なる者」、「命を得る者」とし(3節)、また「裁きの霊と焼き尽くす霊をもって」彼らの汚れを洗われる(4節)。こうして彼らは患難と苦痛から抜け出し、新しい希望を持つようになる。
 父が子供を永遠に捨てることがないように、主なる神もご自身の民の背きに対して永遠に呪いと裁きで報いることはなさらない。私達は思いがけない事故や病気、試練によって信仰と希望を失いそうになることがある。しかし、主なる神の怒りは寧ろ私達に大きな希望と慰めと与える。主なる神による回復と救いが約束されているからである。

聖書の黙想と適用 イザヤ書3章13~26節

聖書の黙想と適用 イザヤ書3章13~26節(新共同訳 旧約pp.1065-1066)

(1) シオンの娘の高慢(13~23節)

 美しさを慕い求め、自分の外見を飾ること自体は罪ではない。問題は外に表れている姿と内に隠されている姿との不均衡である。人は外見を見るが、主なる神は心を御覧になる。
 シオンの娘は、主なる神の御心に適うことよりも、人によく見られることに神経を使い、身を飾り、贅沢に暮らした(16節)。そのような彼女達の根本的な問題が「高慢」(16節)という言葉によく表れている。
 シオンの娘は高ぶり、自分で自分を高めようとした。そして、自分のことにしか関心がなかったので、「貧しい者から奪って家を満たし」(14節)たり、「貧しい者の顔を臼でひきつぶ」(15節)すような搾取が出来た。更に、彼女達は神の民でありながら、主なる神を忘れ、迷信や異邦の風習に従った(20節)。そのようなシオンの娘に対し、主なる神は「飾られた美しさ」を全て奪うと言われた(18節)。

(2) 美しさは恥に変わる(24~26節)

「その日」(18節)、即ち主なる神の裁きが臨む日、シオンの娘の生活は一変する。主なる神が彼女達の愛用品を全て奪われることによって、「芳香は悪臭となり、帯は縄に変わり/編んだ髪はそり落とされ/晴れ着は粗布に変わり/美しさは恥に変わる」(24節)。
 主なる神は外に表れていたものを除かれるだけでなく、隠されていた心の内を、そのまま表される。それは「外側は美しく見える」「白く塗った墓」が開き、その内側の「死者の骨やあらゆる汚れ」が臭いを放つようなものである(マタイによる福音書23章27節)。
 それだけではなく、彼女達と心を通い合わせ、罪を犯してきた「シオンの男ら」と「勇士」も裁きを受け、滅びる。今日、主なる神を忘れ、富と名誉と快楽を生きる目的にしている人々の末路も同様である。
 主なる神の裁きは既に始まっており、時が来れば、完全な姿で現される。主なる神に属しているもの以外に、永遠に保たれるものは何もない。

聖書の黙想と適用 イザヤ書3章1~12節

聖書の黙想と適用 イザヤ書3章1~12節(新共同訳 旧約p.1065)

(1) 頼るべき対象を誤ったイスラエル(1~7節)

 偶像礼拝とは主なる神以外の何かを主なる神以上に頼りにすることである。ユダの民は主なる神よりもパンや水といった生活の必需品を頼りにした(1節)。また、彼らは主なる神よりも「勇士と戦士、裁きを行う者と預言者/占い師と長老/五十人の長と尊敬される者/参議、魔術師、呪術師」(2~3節)を信頼した。
 主なる神は、ご自分が万物の真の所有者であること、自分こそが真に「支えとなり/頼みとなる者」であることを教えるため、ユダの民が拠り所にしていたものを全て「取り去」ると告げられた(1節、3節)。
 その結果、ユダに混沌がもたらされる。経験のない未熟な「若者」が「支配者」として立てられ、「気まま」に「国を治めるようになる」(4節)。また、「民は隣人どうしで虐げ合う」(5節)ようになる。自分のことしか関心のない者が国を統治し、何が起こっても誰も責任を取らないため、国は大混乱に陥る。主なる神よりも人やこの世のものに依り頼むことは悲惨な結果をもたらす。

(2) イスラエルの行いの実(8~12節)

 主なる神は私達の言葉と行いを全て見ておられる。ユダの民は「舌と行いをもって主に敵対」(8節)するという罪を犯した。それに対し、主なる神は「災いだ、彼らは悪の報いを受ける」(9節)と宣告された。
 のみならず、主なる神の目は私達の心をも見通されている。ユダの民は、その「表情」によって「ソドム」の人々のような「罪を表し」ていると主なる神は言われた(9節)。この方の御前では、罪の行為だけでなく、動機までもが余す所なく顕わになる。心の中の思いが顔に表れるように、私達の中の隠された罪も必ず顕わになる。
 その上で、主なる神はそれらに基づいて私達に報いを与えられる。「主に従う者」にもたらされる「幸い」も(10節)、「主に逆らう悪人」にもたらされる「災い」も(11節)、私達の「行いの実」(10節)である。キリスト者は、「主に従う者」として、美しく、尊い実を結ばなければならない。これこそ主なる神が私達に望まれることである。

聖書の黙想と適用 イザヤ書2章12~22節

聖書の黙想と適用 イザヤ書2章12~22節(新共同訳 旧約p.1064)

(1) 高ぶる者は低くされる(12~21節)

 主なる神は「誇る者と傲慢な者」(12節)を嫌われる。にもかかわらず、イスラエルの民は主なる神を忘れ、高慢になり、その言葉を心に留めなかった。
 イスラエルの民が主なる神の御前で高ぶる時、どうなるだろうか。主なる神の言葉を無視した彼らには「万軍の主の日が臨」(12節)み、彼らは「卑しめられ」、「低くされ」る(12、17節)。主なる神の裁きは「主の恐るべき御顔と威光の輝きとを避けて」「岩の洞穴、地の中に入るがよい」「岩の洞窟、崖の裂け目に入るがよい」(19節、21節)と言われるほど恐ろしいものであった。
 主の日はユダの民をきよめ、回復させるために必要不可欠なものであった。その裁きを通して、「主はただひとり、高く上げられ」(17節)、「偶像はことごとく滅びる」(18節)。

(2) 人間に頼るのをやめよ(22節)

 人間は互いに支え合い、愛し合うように創造された。それ故、誰かに助けを求めることは罪ではなく、或る程度必要である。しかし、人に依存することは出来ない。人間は「鼻で息をしているだけの者」、即ち有限で無力な存在に過ぎず、完全に頼ることの出来る対象ではないからである。にもかかわらず、イスラエルの民は主なる神に依り頼む代わりに、欠けだらけで移ろい易い人間、或いは偶像に依存した。
 私達が絶対的に信頼すべき対象は、全能の主なる神ただおひとりである。真の希望は主なる神だけである。主なる神を見上げて生きる人は決して絶望で終わることはない。主なる神だけに頼って生きる時、私達は命と平安を得ることが出来る。私達の目を主なる神に向けよう。

聖書の黙想と適用 イザヤ書2章1~11節

聖書の黙想と適用 イザヤ書2章1~11節(新共同訳 旧約pp.1063-1064)

(1) 道を示される主なる神(1~4節)

 イザヤは主なる神が全世界の支配者であられることを宣言する(2節)。主なる神は異邦の神々のように限界のある存在ではない。神の国イスラエルの民にだけ開かれているのではなく、全人類に開かれている(2~3節)。その結果、「終わりの日」(2節)には、諸国の民が「こぞって大河のように」主の神殿の山に向かい(2節)、「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう」(3節)と声を掛け合うようになる。
 では、神の国の民はどのように生きるべきだろうか。主なる神が示される道を歩むこと、即ち、「主の教え」「御言葉」に聴き従うことが求められている(3節)。そこには主なる神の癒しがあり、回復があり、約束がある。そして、主なる神が「国々の争いを裁き、多くの民を戒められる」(4節)ことによって、国々はやがて「剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌」とし、「国は国に向かって剣を上げ」なくなる(4節)。「もはや戦うことを学ばな」(4節)くなる。
 主なる神の言葉を学ぶことは主なる神が喜ばれる生き方を実践するための必須条件である。イスラエルの民が主なる神から戒めを受けたのは、主なる神の言葉を知らなかったからではない。知っていながら従わなかったからである。教会の中心も、人間関係やプログラムではなく、主なる神の言葉に従って生きることである。主なる神は悔い改める者を待っておられる。

(2) 主の光の中を歩もう(5~11節)

 神の民は暗闇の業を捨て、主の光の中を歩まなければならない(5節)。イザヤは、主なる神がユダの民を捨てられた理由について語る前に(6節)、「ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう」(5節)と呼びかけた。主の光の中を歩むとは、主なる神の言葉に従って生きることである。
 しかし、ユダの民は、主なる神の言葉よりもこの世のやり方に従い、「金と銀」「財宝」「軍馬」「戦車」といった目に見えるものを追い求めた(7節)。異邦人のように、「占い師や魔術師」に縋り、近隣諸国との同盟に依り頼んだ(6節)。そして、人が造った偶像にひれ伏した(8節)。
 そのため、イザヤは「彼らをお赦しにならぬように」(9節)と主なる神に求めた。この世の欲望を追求しながら、クリスチャンであると自称する人々は今日も数多くいる。この世の何ものも主なる神とは比べられないことを知り、主の光の中を歩むことが、キリスト者の生きる道である。

聖書の黙想と適用 イザヤ書1章21~31節

聖書の黙想と適用 イザヤ書1章21~31節(新共同訳 旧約pp.1062-1063)

(1) 不義に満ちたイスラエル(21~23節)

 聖書において主なる神とその民の関係は夫婦の関係として表されている。結婚した夫婦が守るべき最も重要な原則は「忠実」(21節)であることである。かつて主なる神とイスラエルの民の関係は愛に満ちていた。
 しかし、ここで主なる神はイスラエルに向かって「どうして遊女になってしまったのか」(21節)と叫ばれている。イスラエルはどうしてそのような遊女になってしまったのだろうか。主なる神の愛を忘れ、その裁きを忘れたからである。イスラエルが遊女になってしまったことで、その関係に亀裂が入った。
 また、主なる神に「忠実であった」かつてのイスラエルには「公平が満ち、正義が宿っていた」(21節)。しかし、今は不義を愛する「人殺しばかり」になってしまった(21節)。不義を憎んでいた姿はどこにも見られず、「支配者らは無慈悲で、盗人の仲間となり/皆、賄賂を喜び、贈り物を強要」(23節)した。また、「孤児の権利は守られず/やもめの訴えは取り上げられ」ることがなかった。
 主なる神の愛を覚え、主なる神の裁きを恐れたなら、彼らは信仰を守り続けただろう。妻である神の民が、主なる神のもとに立ち帰り、従うことが、正義と公平を回復出来る唯一の道であった。

(2) 裁きを通しての贖い(24~31節)

 主なる神がイスラエルを不義の故に裁かれる時、彼らはどうなるだろうか。主なる神はご自分の民だからといって、裁きを退けては下さらない。
 その一方で、ご自分の民を永遠の怒りと裁きに引き渡されるのでもない。主なる神は裁きを通してご自分の民を「初めのとき」(26節)の姿へと回復することを願われる。ここにイスラエルの民と私達の希望がある。主なる神は裁きを行うことによってイスラエルの民から「不純なものをことごとく取り去る」(25節)と言われる。主なる神の裁きを受けて「悔い改める」(27節)時、イスラエルは再び「正義の都/忠実な町」(26節)となる。
 しかし、「背く者と罪人は共に打ち砕かれ」、「断たれる」(28節)。最初の状態に立ち返るか、主なる神に逆らったまま滅びるかは私達の悔い改めにかかっている。

聖書の黙想と適用 イザヤ書1章10~20節

聖書の黙想と適用 イザヤ書1章10~20節(新共同訳 旧約pp.1061-1062)

(1) 悪を行うことをやめよ(10~17節)

 心の込もっていない義務的な孝行を喜ぶ親はいない。同様に、形式的な信仰の行いが主なる神に喜ばれることはない。イスラエルは、「ソドムの支配者」「ゴモラの民」のように、「主の言葉」「神の教え」に耳を傾けなかった(10節)。「雄羊や肥えた獣の脂肪の献げ物にわたしは飽いた」(11節)、「むなしい献げ物を再び持って来るな」(13節)、「お前たちの新月祭や、定められた日の祭りをわたしは憎んでやまない。それはわたしにとって、重荷でしかない」(14節)といった主なる神の言葉から、彼らの罪悪がどれほど主なる神に忌み嫌われるものであったかが分かる。
 その一方で、主なる神はイスラエルの民を咎められるだけでなく、彼らに解決策も示された。それは彼らが自らの身を清くし、「悪を行うことをやめ」(16節)、「善を行うことを学」(17節)ぶことであった。具体的には「搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り/やもめの訴えを弁護」(17節)することを、主なる神は求められた。主なる神の要求は常に具体的である。

(2) 進んで従うか、頑なに背くか(18~20節)

 主なる神はイスラエルに「論じ合おうではないか」(18節)と呼びかけられた。この言葉は互いに頭を突き合わせて問題解決の糸口を見つけようという意味である。主なる神は、イスラエルの民が自分の罪を認め、赦しを求めるなら、「罪が緋のようでも雪のように白く」(18節)して下さる。悔い改める罪人に赦しを与えて下さることは、主なる神の憐れみと忍耐の深さを表している。
 続いて、主なる神は、「大地の実りを食べることができる」(19節)祝福の道と、「剣の餌食になる」(20節)災いの道を示され、2つのうちの1つを選ぶようイスラエルの民に求められた。主なる神の言葉に「進んで従うなら」(19節)祝福があり、「かたくなに背くなら」(20節)災いが臨む。私達も日々このどちらかを選択しなければならない。その結果は祝福にもなり、災いにもなる。

聖書研究 イザヤ書1章1~9節

聖書研究 イザヤ書1章1~9節(新共同訳 旧約p.1061)

【概要】

【背景】

【釈義】

【黙想】

【適用】

【祈り】

聖書研究 詩編49編14~21節

聖書研究 詩編49編14~21節(新共同訳 旧約p.881)

【概要】

【歴史的背景】

【釈義】

【黙想】

【適用】

【祈り】