Five Solas

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書黙想 ヨハネの福音書6章35~40節

聖書黙想 ヨハネ福音書6章35~40節(新改訳 新約p.170)
「父なる神の御心」

 神は、イエス・キリストがまことのパンであることを認め、へりくだって御前に出る者を決して捨てられません。人々はイエス・キリストを信じることのできるしるしとして五つのパンと二匹の魚の奇蹟を見たのにもかかわらず、依然として信じません。信仰は目で見たり耳で聞いて得られるものではありません。目で見ず、耳で聞かなくても信じることです。奇蹟を経験しなくても日々の生活で会ったイエス・キリストを信じて生きる人が神の子です。神は、自ら神の子になる資格がないと思っている人々をもみな受け入れてくださいます。イエス・キリストは、この世に執着せずにイエス・キリスト愛する人々に永遠のいのちを与え、終わりの日に神の国で生きられるようにされますが、この地のパンだけを求める人々には、彼らの豊かな人生がこの地で終わるようにされます。

聖書黙想 ヨハネの福音書6章30~34節

聖書黙想 ヨハネ福音書6章30~34節(新改訳 新約pp.169-170)
「天からのまことのパン」

 人々は奇蹟を体験すればするほど、さらに大きな奇蹟を求めます。多くの人が五つのパンと二匹の魚の奇蹟を体験しましたが、依然として疑い、別のしるしを求めます。イエス・キリストモーセの預言した預言者なら、パンではなくマナを与えるしるしを見せてくれというのです。しかしイエス・キリストは天からのパンはモーセではなく神が与えられたものであると言い、神が与えるまことのパンについて述べられます。まことのパンは天から下って来て、世にいのちを与えるイエス・キリストです。このパンを食べることのできる条件は、イエス・キリストを受け入れて信仰によってイエス・キリストの前に出ること、イエス・キリストを捜し求めることです。ほかのものではなく、主だけを捜し求めることです。なぜなら、天からのまことのパンはイエス・キリストだからです。

祈り ヨハネの福音書6章22~29節

祈り ヨハネ福音書6章22~29節(新改訳 新約p.169)

 主はいのちの食物をくださるのに、私は朽ちていく食物を食べる者のように生きていないでしょうか。肉的なものではなく霊的なものに価値を見出す者とならせてください。

聖書黙想 ヨハネの福音書6章26~29節

聖書黙想 ヨハネ福音書6章26~29節(新改訳 新約p.169)
イエス・キリストを捜す理由」

 生活の必要を満たすために信仰を持つことは、御利益信仰の出発点です。イエス・キリストは自分に従う多くの人に「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです」と言われました。イエス・キリストの言われたとおり、彼らがイエス・キリストに従ったのは、たましいの飢えを解決してくれるメシヤに会ったからではなく、飢えたお腹を満たしてくれる奇蹟の人に会ったからです。しかし、彼らはこの方が誰かを知りませんでした。イエス・キリストを正しく知り、信じることは神の御業です。いのちのパンであるイエス・キリストに従い、交わる人生が永遠のいのちに至る人生です。なくなる食物のためだけに生きるのではなく、永遠の食物のためにイエス・キリストに従って生きていくことが本当の知恵です。

聖書黙想 ヨハネの福音書6章22~25節

聖書黙想 ヨハネ福音書6章22~25節(新改訳 新約p.169)
イエス・キリストを捜す人々」

 多くの人がイエス・キリストを捜すためにさまざまな推測をしました。前日、彼らは弟子たちだけが舟に乗って湖の向こう岸に渡るのを見たので、イエス・キリストがまだその地域に残っておられるものと思いました。しかし、どんなに捜してもイエス・キリストを捜し出すことはできませんでした。ついに彼らは湖の向こう側のカペナウムでイエス・キリストに会いました。彼らはイエス・キリストがどのようにしてそこに来られたのか不思議で、イエス・キリストに尋ねます。「先生、いつここにおいでになりましたか。」彼らの考えではイエス・キリストが湖の向こう岸におられる確率は0%でした。イエス・キリストが水の上を歩いて行かれたとは到底考えられなかったからです。人々は世の中の可能性だけで神を推測し、理性と論理と法則で神を測ろうとします。しかし、神はあらゆる不可能を可能にされる方です。

祈り ヨハネの福音書6章16~21節

祈り ヨハネ福音書6章16~21節(新改訳 新約p.169)

 海の中で嵐にあっても恐れることなく、1人で舟をこぎ続け、倒れることがないように守ってください。水の上を歩いて来られる主を待つ信仰を与えてください。

聖書黙想 ヨハネの福音書6章19~21節

聖書黙想 ヨハネ福音書6章19~21節(新改訳 新約p.169)
「湖の上を歩かれたイエス・キリスト

 弟子たちは、突然吹き荒れた強風の前で、なすすべがありませんでした。あらゆる方法を用いて苦境に打ち勝とうとしましたが、無駄でした。その時、弟子たちはイエス・キリストが水の上を歩いて来られるのを見ました。これは、神が葦の海を分けて出エジプトの御業を成し遂げられた出来事を思い起こさせます。イエス・キリストはご自分が新しい出エジプトの主人として来られたことを示されますが、弟子たちは湖の上を歩いて来られるイエス・キリストを恐れます。イエス・キリストであっても湖の上を歩けるはずがないと思ったからです。恐れる弟子たちに、イエス・キリストは恐れることはないと言われます。イエス・キリストは湖の上を歩いて弟子たちのところに来られ、出エジプトの出来事を再現されます。弟子たちがイエス・キリストだと知った瞬間、恐れは喜びに変わりました。

聖書黙想 ヨハネの福音書6章16~18節

聖書黙想 ヨハネ福音書6章16~18節(新改訳 新約p.169)
「強風に見舞われた舟」

 人間の力ではどうすることもできない状況にあるとき、イエス・キリストに拠り頼む信仰が芽生えます。夕方、弟子たちが湖畔に降りてきました。イエス・キリストのいない弟子たちの姿が暗やみとして表現されています。弟子たちだけが乗っていた舟がやみの中で予想もしなかった強風に見舞われます。強風が吹く夜の海はひどく荒れていたことでしょう。弟子たちはこのような苦境から抜け出そうとしてあらゆる努力を尽しましたが、状況は変わりませんでした。弟子たちは強風が吹き荒れる夜の海の真中でイエス・キリストがそばにおられないという事実を、切に感じたことでしょう。強風が吹く夜の海は危機ではありますが、イエス・キリストに拠り頼む機会でもあります。私たちは静まった海よりも強風が吹く夜の海の上でイエス・キリストに会う確率が高いです。

祈り ヨハネの福音書6章1~15節

祈り ヨハネ福音書6章1~15節(新改訳 新約pp.168-169)

 私の持っているパンと魚は何か、また主が私を通して誰を食べさせようとしておられるのかを考えます。すべてを主にささげ、いのちの奇蹟が現れる日々となりますように。