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Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 民数記7章84~89節

聖書の黙想と適用 民数記7章84~89節(新共同訳 旧約pp.225-226)

(1) イスラエルの献げ物(84~88節)

 各部族の指導者は、部族の状況にかかわらず、皆同じ量の献げ物を主なる神にささげた。祭壇奉献の献げ物はイスラエルの民全体によるものであり、主なる神の臨在に対する感謝と献身の決意が込められている。
 主なる神は何よりも献げ物をささげる者の心を見ておられる。イエス・キリストは「ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れる」(ルカによる福音書21章2節)のを御覧になった時、「この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた」(同3節)と言われた。私達が心を合わせてささげる献げ物を、主なる神はその御業において尊く用いて下さる(コリントの信徒への手紙二8章1~6節)。

(2) 主なる神の御声を聴くモーセ(89節)

 モーセが臨在の幕屋に入ると、「掟の箱の上の贖いの座を覆う一対のケルビムの間から」主なる神の御声を聴いた。主なる神はご自分の民のために、イスラエルの共同体の中心にあるご自分の家、即ち臨在の幕屋に住まわれた。そして、言葉によってご自分の臨在を現された。これは、主なる神の言葉が人となって人の間に住まわれたイエス・キリストの受肉の出来事を予表している(ヨハネによる福音書1章4節)。
 礼拝は主なる神の言葉を聴くことである。主なる神の言葉を聴く時、自己中心に生きることから神中心に生きることへの転換が起こる。神中心に転換するためには、主なる神の愛と御心を知る必要がある。そして、主なる神の愛と御心は、主なる神の言葉を聴かなくては知ることが出来ない。
 祈りにおいても、同様に主なる神の御声を聴こうとする心と態度が必要である。自分の願いを主なる神に聞いていただくことだけが祈りではない。祈りは、主なる神が願っておられることを聴き、私達の考えや思いを主なる神に服従させることでもある。そして、そのためには主なる神の御声を聴く必要がある。
 真に主なる神を礼拝し、崇めるのなら、主なる神の語られることをよく聴かなければならない。今日も私達に語って下さる主なる神に心と耳を傾け、心から礼拝を献げる神の民になろう。

聖書の黙想と適用 民数記7章10~83節

聖書の黙想と適用 民数記7章10~83節(新共同訳 旧約pp.222-225)

(1) 信仰と感謝をもって献げる(10~17節)

 イスラエルの各部族の指導者は、幕屋を建て終えたことに感謝して、「祭壇奉献のための献げ物」をささげた(10節)。その際、指導者は「一日に一人ずつ」(11節)献げた。
 最初に献げたのは、ユダ族のナフションであった(12節)。イスラエル民族の祖ヤコブの長子はルベンであったが(創世記29章32節、49章3節)、彼がヤコブの側女ビルハと一緒に寝たため(同35章22節)、ルベン族ではなくユダ族が実質的に長子の役割を果たしてきた。イスラエルの人々が移動している時も、ユダ族が一番先頭を行進した。後にユダ族からイスラエルを治める王ダビデ、そしてイエス・キリストが出ている。
 ナフションは、銀の皿一枚、銀の鉢一個、穀物の献げ物(13節)、金の柄杓一つ(14節)、焼き尽くす献げ物(15節)、贖罪の献げ物(16節)、和解の献げ物を主なる神にささげた(17節)。ここには献げ物の正確な量と数が記録されている。主なる神は、献げた者の名前、数量まで正確に覚えておられる。
 主なる神は私達が信仰と感謝をもって心から献げるものを喜んで受け入れて下さる。後に主なる神はマラキを通して、イスラエルの人々が心からではなく、煩わしいと思いながらささげた「十分の一の献げ物と献納物」について「あなたたちは民全体で、わたしを偽っている」と言われた(マラキ書3章8~9節)。主なる神は私達の心をご存知であられる。キリスト者は毎週主の日に主なる神を礼拝する。そこで主なる神に献金をささげ、讃美をささげる。その礼拝が主なる神に喜ばれるものとなるように、主なる神に日々自分自身を献げよう。自分の涙でイエス・キリストの足を濡らし、自分の髪の毛で拭い、イエス・キリストの足に香油を塗った女のように(ルカによる福音書7章37~38節)、私達の全てを感謝と喜びをもって献げよう。

(2) 思いを一つにして献げる(18~83節)

 イスラエルの指導者は、各部族を代表して、1日に1人ずつ、12日かけて順番に献げ物をした。まず「ユダ族のアミナダブの子ナフション」が献げ(12節)、最後の日に「ナフタリの人々の指導者エナンの子アヒラ」が献げた(78節)。その順序は、臨在の幕屋の東側の宿営から時計回りになっている。
 各部族が献げたものは、種類、重さ、数量において皆一致している。どの部族も多く献げたり、少なく献げたりしなかった。しかし、日付と部族名と指導者の名前が違うだけで、後は何も変わらない内容が繰り返し記されていることには意味がある。
 第一に、主なる神は同じ献げ物が繰り返されても、うんざりされることは決してない。その中に信仰と感謝が込められているなら、主なる神はそれを受け入れ、祝福して下さる。キリスト者も、同じ讃美歌を歌う場合でも、そこで主なる神への感謝、救われた喜びを込めて歌うなら、歌う度に新しい歌になる。同じ聖書の言葉を聞いても、聞く度に心を新たにして「アーメン」と答えるなら、更なる従順へと一歩踏み出すことが出来る。主なる神の御前に集う度に、新しい心で礼拝を献げよう。
 第二に、どの部族も不平を言わず、決められた順序に従って、自分達の為すべき分を献げたこと、惜しみなく主なる神に献げたことを強調するためだろう。各部族は「穀物の献げ物としてオリーブ油を混ぜた上等の小麦粉」を「銀の皿」「銀の鉢」に入れて献げた。彼らは十分な準備をして、主なる神の御前に出た。自分達の力の限り、最善を尽くして主なる神に仕えた。私達も「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして」(ルカによる福音書10章27節)主なる神を愛し、礼拝しよう。

聖書の黙想と適用 民数記7章1~9節

聖書の黙想と適用 民数記7章1~9節(新共同訳 旧約p.222)

(1) 主なる神に属するものの聖別(1~3節)

 主なる神に属するものは聖別しなければならない。モーセは「幕屋を建て終わった日」に、「幕屋とそのすべての祭具、祭壇とそのすべての祭具」に「油を注いで聖別した」(1節)。油を注ぐことは、それを主なる神のものとして聖別することを意味し、それによって主なる神による権威が付与された(出エジプト記40章13~15節参照)。このような目的に用いられる油は聖霊聖霊の働きを象徴する。主なる神から委ねられた働きは全て聖霊の助けと導きによってのみ果たすことが出来る(ルカによる福音書1章35節、使徒言行録1章8節、コリントの信徒への手紙一2章4~13節、ヨハネの手紙一2章27節)。
 一方、「イスラエルの指導者、すなわち、家系の長」も、民を代表して「六台の牛車と十二頭の雄牛」を主なる神に献げた(2~3節)。彼らは、「部族の指導者」で、人口調査の折、「登録に当たった者たち」であった(2節)。また、彼らの献げ物は幕屋や祭具類を運搬するのに必要な牛車とそれを引く牛であった。イスラエルにおいて民の指導者は、自らの地位と能力をもって主なる神に栄光を帰し、神の民に益をもたらす者であった。彼らが指導者として召されたのは、自分が中心になり、他の人々から献げ物を受けるためではなく、主なる神に仕え、献げ物をするためであった。指導者がまず主なる神に献身する時、共同体の必要は不足なく豊かに満たされる。

(2) 部族の指導者が献げたものの分配(4~9節)

 族長の指導者が共同で準備した献げ物は、主なる神の共同体のために用いられた。主なる神はモーセに(4節)、部族の指導者が献げた牛車と雄牛を、「臨在の幕屋の作業に用い、それぞれの作業の分担に応じて、それをレビ人に与え」るよう命じた(5節)。指導者の献げ物が幕屋を管理するレビ人に分配されることによって、幕屋の運搬に必要な資材は満たされた。主なる神は、働きを委ねられるだけでなく、それを成し遂げる力も与えて下さる(列王記上3章6~13節)。
 とはいえ、その献げ物は、ケハトの氏族、ゲルションの氏族、メラリの氏族に均等に配分されたわけではない。献げ物を分ける時、夫々の働きの内容に従って分配された。その結果、メラリの氏族が最も多く受けた(8節)必要なかったからである。一方、ケハトの氏族には牛車も雄牛も与えられなかった。何故なら、彼らの職務は「聖なるものを肩に担いで運ぶこと」(9節)であったため、牛車と雄牛はからである。
 主なる神は私達一人一人に必要な恵みを十分に与えて下さる。人間の目には不公平に見える分配を通しても、主なる神の御心がなされ、主なる神の公正が現れる。私達の健康、時間、お金、能力などは究極的に主なる神のものであることを覚え(ローマの信徒への手紙11章36節)、主なる神の栄光のためにそれらを用いる者となろう。

聖書の黙想と適用 民数記6章22~27節

聖書の黙想と適用 民数記6章22~27節(新共同訳 旧約pp.221-222)

(1) 主なる神による祝福(22~23節、27節)

 主なる神は、祭司アロンとその子らがイスラエルの人々に向かって祝福を宣言するよう(23節)、モーセを通して祝福の言葉を与えられた(22節)。神の民を祝福することは祭司に対する主なる神の命令である。主なる神はご自身の民に祝福を与えることを望まれる。
 それ故、祭司の祝福の祈りは「主」を中心にしてなされる。主なる神が祝福の源だからである。主なる神はアブラハムに「わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように」(創世記12章2節)と約束された。
 主なる神は祭司が「わたしの名をイスラエル人々の上に置くとき、わたしは彼らを祝福するであろう」(27節)と約束された。一方、主なる神は、マラキを通して、祭司が主なる神の言葉を「聞かず、心に留めず、わたしの名に栄光を帰さないなら」「わたしはあなたたちに呪いを送り、祝福を呪いに変える」とも警告している(マラキ書2章2節)。祭司が主なる神の言葉に従って祈る時、主なる神の祝福は民の上に留まる。

(2) 主なる神による守りと恵みと平安(24~26節)

 祭司が主なる神の御名によって祈る「祝福」(27節)は、イスラエルが神の民として生きていくのに必要な守りであり(24節)、恵みであり(25節)、そして平安である(26節)。この祝福の言葉の中に私達に必要な全てのものが含まれている。
 祝福には主に逆らう者(詩編37編28節)、飢え(同33編19節)、病気、戦いからの守り(詩編76編4節)も含まれる。これは、荒野での流浪を目前にしていたイスラエルにとって切実なことであった。主なる神だけが私達の一生の守り手であられる。また、主なる神はイスラエルの民に下さる恵みと平安には、物質的な豊かさや子孫の繁栄、健康や長寿なども含まれる(創世記24章1節、詩編127編3節)。
 主なる神が私達に御顔を向けて下さるとは、特別な関心と愛をもって絶えず顧みて下さるという意味である。もし主なる神が御顔を隠されるなら、私達には平安がなく、災いと苦難があるだけである(申命記31章17~18節)。主なる神はイエス・キリストをこの世に遣わされた。そして、主を信じる全ての者に絶えることのない平安を与えて下さる。

聖書の黙想と適用 民数記6章13~21節

聖書の黙想と適用 民数記6章13~21節(新共同訳 旧約p.221)

(1) 誓願期間の満了における感謝の献げ物(13~15節)

 ナジル人は、誓願の「期間が満ちた日」に「臨在の幕屋の入り口」に行き(13節)、主なる神に「焼き尽くす献げ物として傷のない一歳の雄羊一匹」、「贖罪の献げ物として傷のない一歳の雌羊一匹」、「和解の献げ物として傷のない雄羊一匹」、「穀物の献げ物とぶどう酒の献げ物」をささげた(14~15節)。
 このことはナジル人が誓願を果たすことが出来たのは主なる神の恵みによることを示している。キリスト者も主なる神の御前で信仰の決心をすることがある。しかし、信仰の決心を守ることと共に大切なのは、それが出来るよう支え、導いて下さる主なる神の恵みに感謝することである。イエス・キリストが言われたように、「人間にはできないことも、神にはできる」(ルカによる福音書18章27節)からである。謙遜と感謝の心をもって主なる神の御前に立たなければならない。

(2) 日常生活への復帰(16~21節)

 誓願の期間が終わると、ナジル人は、「献身のしるし」としてそれまで伸ばしていた「髪をそり」、「それを取って和解の献げ物を焼く火に燃や」した(18節)。誓願の痕跡を消すのは、自分の献身と節制を人に誇るようなことがあってはならないからである。高慢の要因となり得るものを、ナジル人は主なる神に献げた。
 また、誓願の期間の満了の際、祭司が祭儀に立ち会い、ナジル人から献げ物を受け取り、それを「主の御前に携えて行」った(16~20節)。このことは、ナジル人の誓願が個人的な敬虔ではなく、共同体の中で行われる業であることを示している。ナジル人は家族や祭司の協力があって誓願を果たすことが出来る。キリスト者も、独りではなく、共同体の中で、共同体と共に信仰生活を送る。その時、良い実がもたらされる。
 その一方で、主なる神が「ナジル人であるゆえに主にささげるべき献げ物のほかに、その人になおささげる力があれば、それに加えることができる」(21節)と語られたように、ナジル人としての献身は、強制ではなく、個人の意志による。強いられてではなく、自ら進んで献身する者を主なる神は用いて下さる。
 誓願の期間を終えたナジル人は、それまで禁じられていたぶどう酒を再び飲むことが出来る(20節)。しかし、一定期間主なる神に献身したその人は、日常生活に戻っても、以前とは違う人生を生きるようになるだろう。主なる神を更に愛し、主なる神の御心に敏感になることだろう。
 キリスト者も、神の民として、イエス・キリストの弟子として、主なる神の御心を行うことを期待されている。感謝の心で礼拝を献げ、日常生活において主なる神の言葉に従っていこう。罪の誘惑に打ち勝ち、「地の塩」「世の光」として天の父に栄光を帰そう(マタイによる福音書5章13~16節)。勿論、それはとても難しいことである。忍耐と謙遜が必要であり、困難を伴うこともある。しかし、信仰によって主なる神と共に歩む時、私達の心は喜びと平安で満たされる。

祈り ローマの信徒への手紙8章18~30節

祈り ローマの信徒への手紙8章18~30節(新共同訳 新約pp.284-285)

 天の父よ、あなたの聖なる御名を心から讃美致します。今日もあなたの御言葉に耳を傾ける時を与えて下さり、有り難うございます。
 主よ、あなたは御子イエス・キリストを送って下さり、私達の全ての罪を十字架の死をもって贖って下さいました。また、私達をイエス・キリストに似た者とするために聖霊を送って下さいました。イエス・キリストの内にあって罪を赦された者として、イエス・キリストを長子とする神の子の一人とされた者として、あなたの御心を行うことが出来ますよう助けて下さい。神の国の栄光を望みつつ、現在の苦しみに打ち勝たせて下さい。私達が現に見ているものではなく、見えないものに目を注ぎ、忍耐して待ち望むことが出来ますように。私達が何をどう祈るべきか分からないほど苦しい時にも、聖霊が言葉に表せない呻きをもって私達のために執り成して下さっていることを心より感謝致します。
 主よ、イエス・キリストにあって私の兄弟姉妹となったお一人お一人の上にあなたの溢れる恵みと愛と希望を注いで下さい。特に、今弱っておられる方、苦しみの中にある方を顧みて下さい。痛みの中、病の中にあるお一人お一人にあなたの御手を伸ばし、あなたが支え、癒して下さいますようお願い致します。そのお一人お一人と今日も共にあって、あなたでなければ行うことが出来ないあなたの御業を行って下さい。あなたの希望を注いで下さい。苦しい状況の中にあってもあなたのご臨在を経験することが出来ますように。また、私達が互いに助け合い、愛し合い、赦し合い、重荷を負い合うことが出来ますように。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

聖書の黙想と適用 民数記6章1~12節

聖書の黙想と適用 民数記6章1~12節(新共同訳 旧約pp.220-221)

(1) ナジル人の誓願(1~5節)

 ナジル人は「男であれ、女であれ、特別の誓願を立て、主に献身し」(2節)た者である。誓願の理由は、主なる神に対する愛であり、感謝である。イスラエルの民は誰でもナジル人となることが出来た。主なる神は全ての民がご自身を愛し、感謝することを願われた。
 誓願期間中、ナジル人には厳格に守らなければならないことがあった。彼ら彼女らは「ぶどう酒も濃い酒も断ち、ぶどう酒の酢も濃い酒の酢も飲まず、ぶどう液は一切飲んではならな」(3節)かった。聖書においては飲酒そのものが全面的に禁止されているわけではない。実際、イエス・キリストは徴税人や罪人と一緒に飲み食いをされた(ルカによる福音書7章34節)。その一方で、ぶどう酒や強い酒は、理性を麻痺させ、正しい判断やそれに従うことを難しくさせ、それを飲んだ人を支配する危険性を持っている(箴言20章1節、エフェソの信徒への手紙5章18節)。ナジル人は、ただ主なる神だけに頼るために、ぶどうの木の全ての産物を遠ざけるよう命じられた。
 また、ナジル人は、「頭にかみそりを当ててはなら」ず、「髪は長く伸ばしてお」かなければならなかった(5節)。日々伸びる髪の毛は力と生命力を象徴した。それを主なる神が与えて下さっていること、自分の頭の上に主なる神がおられることを表すために、ナジル人は髪の毛を剃ってはならなかった。「主に献身している」「聖なる者」(5節)として、彼ら彼女らはたとえ自分の体であっても思い通りにすることは出来なかった。
 ナジル人の誓願の目的は禁欲それ自体にあるのではない。主なる神に対して自分を献げることにある。それは神の民イスラエルに自分が主なる神に属するものとされていることを自覚させるものであった。キリスト者にもこのような姿勢が求められている。この世にありながらも主なる神だけを畏れ、霊と心と体を主なる神に献げ、イエス・キリストの福音を証しする者として生きていこう。

(2) 汚れに対する対処(6~12節)

 誓願期間中、ナジル人はあらゆる汚れたものから遠ざからなければならなかった。彼ら彼女らは「死体に近づい」たり、「彼らに触れてはならな」かった(6~7節)。たとえ「父母、兄弟姉妹が死んだ」(7節)としても、死体に接触してはならなかった。主なる神は命の源であられるのに対し、死は、アダムの罪の結果、主なる神の呪いとして人類にもたらされたものだからである。ナジル人は「主にささげられた聖なる者」(8節)なので、「汚れを受けて」(7節)主なる神の聖さを損なってはならなかった。主なる神に献身した者は、家族よりも主なる神を愛することを求められた。
 また、「人が思いがけず、突然自分のそばで死ん」(9節)だ場合のように、ナジル人が自分の意志とは関係なく不可抗力的に汚れることがある。その時には「最初の誓願期間は無効」(12節)となり、もう一度最初から誓願を始めなければならなかった。今まで伸ばしていた髪の毛を「七日目の清めの日」に剃り(9節)、「八日目」に「二羽の山鳩ないし家鳩」(10節)を生贄として献げ、「その人が負った罪を清める贖いの儀式を行」(11節)い、「改めて、主に献身してナジル人となる期間を定め」(12節)た。
 主なる神は、ご自分の民が御前に聖く生き、その言葉に従って生きることを望まれる。聖くあることは受動的な姿勢ではなく、細心の注意を払い、積極的に自分を汚れから守る行為である。「わたしの床に入りなさい」と迫るポティファルの妻をヨセフが遠ざけたように(創世記39章7~12節)、罪の誘惑から逃げ、遠ざかることも必要である。それでも私達は主なる神の聖さを損なうことをしてしまうことがある。その時には「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネによる福音書1章29節)であるイエス・キリストに立ち帰り、罪を悔い改めよう。

聖書の黙想と適用 民数記5章11~31節

聖書の黙想と適用 民数記5章11~31節(新共同訳 旧約pp.219-220)

(1) 主なる神の御前で隠し事は出来ない(11~21節)

 姦淫は夫婦関係を破壊する行為である。配偶者の不倫を疑い始めると、夫婦の信頼関係は忽ち崩れてしまう。しかも、それは結婚している男女の間の道徳的問題に留まらない。「男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」(創世記2章24節)と言われ、結婚制度を定められた主なる神に対する罪でもあった。また、姦淫は共同体の聖さを壊す社会的問題でもある。
 主なる神は、「ある人の妻が心迷い、夫を欺き、別の男と性的関係を持った」(12~13節)のではないかと夫が疑いを抱き、嫉妬に駆られた時(14節)、問題を解決する方法をイスラエルの人々に示された。それが「嫉妬した場合の献げ物、すなわち罪の判定のための献げ物」(15節)である。妻の不倫が疑われる場合、夫は彼女を祭司のところに連れて行き、「嫉妬した場合の献げ物」を主なる神に献げなければならなかった(15節)。
 その上で、祭司は彼女を臨在の幕屋で「主の御前に立たせ」(16節)た。そして、「聖水を土の器に入れ、幕屋の床にある塵を取ってその水に入れ」(17節)た。それから祭司は、その女の「髪をほどき」(18節)、彼女に「夫ある身でありながら、心迷い、身を汚し、夫以外の男に体を許した」(20節)ことがあるならば、自分の身に主なる神の呪いが下ること、そうでないならば「呪いを免れる」ことを誓わせ(19節)、その水を飲ませた。
「主がお前の腰を衰えさせ、お前の腹を膨れさせ」(21節)るという呪いは、男女の不倫関係のように隠れた所で犯した罪であっても、主なる神は全てご存知であり、それを正しく裁かれることを示している。イエス・キリストは「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる」(ルカによる福音書6章43~44節)と言われた。姦淫を夫に一時的に隠すことは出来ても、永遠に隠すことは出来ない。ましてや主なる神は決して騙されない。主なる神の御前では全てのことは明らかである。

(2) 主なる神に裁きを委ねる(22~31節)

 主なる神は、家庭の平和が壊れる危機に直面した時、私達がその問題をご自身にもとに持っていくことを願われる。
 主なる神が定められた「呪いをくだす水」(24節)についての規定は、夫から見れば、自分だけで判断して妻を罪に定めるのではなく、主なる神に判断をお委ねすることを意味した。それ故、訴える夫自身も主なる神の御前にきよくなくてはならない。実際、律法では「妻をめとり、彼女のところに入った後にこれを嫌い、虚偽の非難をして、彼女の悪口を流し」た男、姦淫した男にも主なる神の裁きが下ることが記されている(申命記22章13~25節)。
 また、妻から見れば、呪いの誓いに対して「アーメン、アーメン」と言う中で(22節)、自分を振り返り、主なる神の御前に立つことになる。その一方で、この規定は、夫から不当に疑われ、害を被ることから妻を保護するものでもあった。また、「女が身を汚しておらず、清い」場合、主なる神は彼女に「子を宿す」という祝福を与えて下さる(28節)。何の罪もないことが明らかになったならば、夫はそれ以上妻を疑ってはならない。寧ろ自分の疑いによって妻に恥を味わわせてしまったことを謝り、妻をより一層愛さなければならない。
 夫も妻も感情的になったり、偏見をもって判断せず、完全に主なる神の裁きに委ねることを求められる。神の民は、主なる神に対しても、配偶者に対してもいつも真実でなければならない。家庭のきよさを守ることは一方だけの責任ではない。夫も妻も、共に主なる神の御前にある者として、主なる神を第一とし、互いに愛し、赦し合う努力が必要である。

聖書の黙想と適用 民数記5章1~10節

聖書の黙想と適用 民数記5章1~10節(新共同訳 旧約pp.218-219)

(1) 汚れた者を分離せよ(1~4節)

 主なる神はモーセに「重い皮膚病にかかっている者、漏出のある者、死体に触れて汚れた者をことごとく宿営の外に出」(2節)すよう命じられた。共同体の中に汚れた者がいる時、そのことによって共同体全体が汚れるからである。主なる神は、イスラエルの共同体の「ただ中に住んで」(3節)おられたので、彼らに聖さを願われた。それに対し、イスラエルの人々は主なる神がモーセに言われた通りに実行した(4節)。
 罪は《伝染する》という特徴を持っている。共同体の中に罪を犯している人や正しくない思いや考えを持っている人がいる時、共同体全体が影響を受けることになる。最初は大したことないと思っていても、徐々に感覚が麻痺していき、最終的には破滅に到る。イエス・キリストは私達に悔い改めなければ滅びると警告された(ルカによる福音書13章3節、5節)。罪は容認すべきものではなく、遮断すべきものである。日常生活の中で罪を犯してしまった時、イエス・キリストの御前に出て告白しよう。そして、人情や空気に引きずられることなく、罪を捨て去り、遠ざけよう。神の民はどれほど小さな罪であっても容認してはならない。

(2) 犯した罪の告白とそれに対する賠償(5~10節)

 主なる神は、共同体の中で他の人に罪を犯した人がいた時、その人は「犯した罪を告白し、完全に賠償し、それに五分の一を追加して損害を受けた人に支払」(7節)わなければならないと命じられた。聖く歩む人生は、自分の罪を正直に認め、告白することから始まる。そして、罪の悔い改めは言葉だけで終わってはならない。責任を負って賠償するなど、具体的な行動として示される必要がある。
 また、罪に対する「賠償を継ぐべき近親がいない場合」(8節)にも、賠償の責務が免除されるわけではなかった。その時には「その賠償は主のものとなり、祭司が受け取る」(8節)と主なる神は規定された。「男であれ、女であれ、何か人が罪を犯すこと」は、被害を受けた人に対してだけでなく、主なる神に対して罪を犯すことだからである(6節)。この他にも「罪の贖いの儀式をする贖罪の雄羊」(8節)をはじめ、イスラエルの人々が「聖なる献げ物として祭司のもとに携えて来」たものは、「すべて祭司のものとな」(9節)った。
 罪の解決のためには、それに相当する代価を必ず支払わなければならない。主なる神は完全な代価を要求される。イエス・キリストは「主の民に罪の赦しによる救いを知らせる」(ルカによる福音書1章77節)ためにこの世に来られたが、私達の全ての罪に対する代価を十字架の死をもって支払って下さった。主なる神は、私達の全ての罪をイエス・キリストの上に負わせ、それを十字架において処罰された。このイエス・キリストを主として、救い主として受け入れる時、主なる神は私達を受け入れて下さる。
 また、イエス・キリストを主と告白した後も私達は罪を犯してしまう。その時、私達が「自分の罪を公に言い表」し、悔い改めるなら、「神は真実で正しい方」なので、「罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めて」(ヨハネの手紙一1章9節)下さる。だから、日々イエス・キリストの御前に出て、罪の告白と悔い改めをしよう。主を信頼し、主が自分を治めて下さることを求めていこう。

聖書の黙想と適用 民数記4章34~49節

聖書の黙想と適用 民数記4章34~49節(新共同訳 旧約p.218)

(1) レビ人の人口調査(34~45節)

 モーセとアロンと共同体の指導者は(34節)、先に「生後一か月以上のレビ人の男子の総数」を調べたが(3章39節)、臨在の幕屋での奉仕や聖なる祭具を運ぶ奉仕を担うことの出来るレビ人の数をはっきりさせておく必要があった。そこで「臨在の幕屋で作業に従事することのできる三十歳以上五十歳以下」(35節、39節、43節)のレビ人の数を調査した。ケハトの氏族は2750人(36節)、ゲルションの氏族が2630人(40節)、メラリの氏族が3200人であった(44節)。
 レビ人自体が、イスラエルの人々の中で主なる神によって聖別された存在であるが(2章47~48節、3章12~13節)、その中でも主なる神への奉仕に直接関わることの出来る資格として年齢による制限が設けられた。また、氏族によって担当する職務も違っていた。神の民は皆主なる神の僕であるが、誰が何をしてもいいわけではない。主なる神の働きをきちんと遂行するためには、年齢、知識、霊性、人格といった準備が整っていることが必要である。また、共同体の秩序を保つために、役割分担を明確にし、他の人と互いに協力し合って進めていかなければならない。そして、何よりも主なる神の言葉を基準とすることが求められる。

(2) 主なる神の命令に従うレビ人(46~49節)

 人口調査の結果、「臨在の幕屋で作業を行い、運搬の作業をすることのできる三十歳以上五十歳以下の者」(47節)として登録されたレビ人の総数は8580人であった(48節)。レビ人は、イスラエルの民が宿営している時には祭司を助け、移動している時には聖なるものを運搬する務めを担った。その際、モーセは徹底して主なる神に従い、レビ人は「モーセを通してなされた主の命令」に従った(49節)。民数記では「主が命じられたとおり」という言葉が繰り返し出てくる(1章54節、2章34節、3章51節)。神の民は主なる神の御心に従わなければならない。主なる神が命じられた通りに従うことが最善の生き方である。
 私達にも主なる神から割り当てられた働きがある。神の民の一員として「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして」(申命記6章5節、ルカによる福音書10章27節)主なる神に礼拝を献げ、生活を通して主なる神に仕え、自分に与えられた荷を負い、神の国を広げるという目標に向かって進んでいかなければならない。主なる神の指示に従う時に最も良い結果を生む。