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Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 ミカ書3章1~12節

聖書の黙想と適用 ミカ書3章1~12節(新共同訳 旧約pp.1451-1452)

(1) 聖霊によって満たされたミカ(1~8節)

 イスラエルの指導者の罪は、民の罪より遥かに深刻だった。彼らはイスラエルの牧者として立てられ、「正義を知ること」を主なる神に求められていた(1節)。しかし、実際にはそれとは正反対に「善を憎み、悪を愛」(2節)した。具体的には、屠殺場で動物の「皮をはぎ、骨から肉をそぎ取る」(2節)ように、民からの搾取を日常的に行い、民を苦しめた。彼らは自分の貪欲を満たすために、正義を捨てた。
 国の支配層の罪が余りにも酷かったので、主なる神は彼らに裁きを下される。彼らは主なる神の言葉を聞くことを拒んだので、主なる神も「彼らが主に助けを叫び求めても」答えられない(4節)。
 また、預言者も貪欲に陥り、自分の口と腹を満たしてくれる者には祝福を宣言し、そうでない者には呪いを告げた(5節)。民が死のうが、どんなに酷い生活を送っていようが、全く関心を示さなかった。主なる神の言葉を伝えるべき者が、主なる神に逆らう者になってしまった。
 預言者は、主なる神の御前でその言葉を聴き、主なる神が語られたことを聴いたままに民に伝える者として立てられた。自分の状況や周囲の環境に合わせて都合の良いことを語るために立てられたのではない。それ故、主なる神は、敬虔を利得の手段と考える偽預言者に対し、「お前たちには夜が臨んでも/幻はなく/暗闇が臨んでも、託宣は与えられない」(6節)という呪いを宣告された。主なる神が彼らに語られなくなったので、「先見者」(預言者)は「うろたえ」、「恥をか」く(7節)。預言者としての務めを果たさない者の口を、主なる神は封じられる。
 一方、預言者ミカは迫害の中にあっても「力と主の霊/正義と勇気」で満たされた(8節)。国の指導者に直言することは決して容易ではない。しかし、聖霊に満たされた彼は、主なる神によって強められ、勇敢にされ、死も迫害も恐れず、主なる神の言葉をまっすぐに伝える力を与えられた。ミカは、人を恐れず、ただ主なる神だけを畏れ、「ヤコブに咎を/イスラエルに罪を告げ」(8節)た。
 私達は自分の力では世の偽りに勝つことが出来ない。聖霊に満たされることによってのみ、世を恐れずに主なる神の言葉を語ることが出来る。世に染まらず、世に勝つことが出来る。イエス・キリストが求める者には与えると約束して下さった聖霊をいつも求め(ルカによる福音書11章13節)、罪を遠ざけ、主なる神が望まれるように生きていこう。

(2) イスラエルの支配層に対する裁きの宣告(9~12節)

 イスラエルの統治者は正義をもって国を治め、祭司は主なる神に正しく仕えるよう民を導き、預言者は主なる神の言葉を正しく伝えなければならなかった。しかし、ミカの時代の支配層は「賄賂を取って裁判をし」、祭司や預言者も金銭に目がなく、「代価を取って教え」たり、「託宣を告げ」た(11節)。指導者の腐敗はそのもとにある社会と民に影響を及ぼし、国全体が腐敗してしまった。エルサレム(シオン)は正義ではなく流血と不正で満ちた(10節)。しかも、そのように主なる神を全く畏れていなかったにもかかわらず、彼らは「主が我らの中におられるではないか/災いが我々に及ぶことはない」(11節)と高ぶっていた。
 だが、彼らは自分が寄りかかる主なる神によって裁きを受けることになる。彼らの罪はエルサレムを「畑」にし、「石塚」にしてしまう。神殿の山も「木の生い茂る聖なる高台」となってしまう(12節)。即ち、エルサレムもそこに立つ神殿も滅ぼされて廃墟になってしまう。主なる神を捨てて生きるところには罪と悪が満ち、貪欲の結果は滅びである。主なる神が語って下さっている間に私達は立ち帰らなければならない。また、国の指導者が正義を大切に考える者となるよう祈ろう。

聖書の黙想と適用 ミカ書2章1~13節

聖書の黙想と適用 ミカ書2章1~13節(新共同訳 旧約pp.1450-1451)

(1) 貪欲な支配層の罪とそれに対する裁き(1~5節)

 ユダ(南王国)の罪は、個人を越えて組織的になっていた。イスラエルの支配層は「寝床の上で悪をたくらみ/悪事を謀」った。そして、朝になるとそれを行った。具体的には彼らは「貪欲に畑を奪い、家々を取り上げ」、「住人から家を、人々から嗣業を強奪」した(2節)。彼らはそれを行うことの出来る「力をその手に持って」いた(1節)。主なる神は十戒において「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない」(出エジプト記20章17節)と命じられた。彼らが貧しい人々に対して行った搾取は、律法に反する不当な行為であった。
 主なる神は、自分が所有している富を弱い者、貧しい者を助けるために使う人を祝福される。一方、富を独占し、自分の利益しか考えなくないエゴイストに呪いをもたらされる。祝福を与える人は更に祝福され、祝福を自分のもとに留める人は損失を被る。イエス・キリストも「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」(ルカによる福音書12章15節)と教えられ、「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」と悔い改めた徴税人ザアカイに「今日、救いがこの家に訪れた」(同19章8~9節)と宣言された。
 主なる神は支配層の罪を隅から隅までご存知であられた。それ故、「この輩に災いをたくら」まれた。主なる神に逆らい、貧しい人々の相続地を奪い取ろうとした支配層に下る災いとは、異邦人の捕虜にされることであった(3節)。イスラエルは敗北し、人々は彼らに対して「嘲りの歌をうたい/苦い嘆きの歌をうた」うようになる。そして、支配層が陰謀と悪事によって貧しい人々から奪い取った土地は「取り去られ」、「人手に渡され」てしまう(5節)。彼らが自分の利益のために他人を不幸にした邪悪な計画は、主なる神の裁きによって空しい結果に終わる。
 冨が与えられること自体は主なる神に対する罪ではない。それは主なる神が私達に下さった祝福である。しかし、欲に囚われ、広大な畑を既に所有しているにもかかわらず満足出来ないとしたら、私達は悔い改めなければならない。

(2) 主なる神の言葉に対する拒否(6~13節)

 私達は本能的に裁きを否定する。自分がどれだけ悪を行ったとしても、裁きが自分に下されるということを信じたくないからである。だが、主なる神の裁きが下される時が必ずやって来る。だから、私達は罪を悔い改めて、主なる神に立ち帰らなければならない。
 貪欲に陥って罪悪を犯す人々の特徴は、主なる神の言葉に耳を閉ざすことである。イスラエルの支配層は、ミカが語る主なる神の言葉を聞いて、「たわごとを言うな」(6節)と述べ、これ以上預言をしないよう脅迫した。彼らは「主は気短な方だろうか。これが主のなされる業だろうか」と述べ、主なる神がそのようにして裁くことなど有り得ないと考えていた。罪に陥ると、主なる神さえ自分のために存在すると考えるようになる。
 それに対し、ミカは「わたしの言葉は正しく歩む者に益とならないだろうか」(7節)と答えた。主なる神の言葉は正しく歩む者にとって益となる。主なる神の言葉を通して、私達は正しい考えを養われ、正しい行いへと導かれる。
 しかし、彼らは主なる神の言葉を拒否したことによって悪事を行い続けた。イスラエルの支配層は同胞からまるで「敵」のように「衣服をはぎ取」った(8節)。また、頼る者のいない女や幼子の住まいまで奪った(9節)。それは「寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない」(出エジプト記22章21節)という律法の違反に他ならなかった。主なる神が律法を与えられたのは愛の故であるが、それを聴こうとしないと人間は堕落していく。罪は私達が悪を行った時に自分が悪い行いをしているということを分からなくさせる。
 その一方で、彼らは偽預言者の偽りの言葉には耳を傾けた(11節)。偽預言者は主なる神の御心には関心がなかった。彼らはただ人の心を満たし、人から相応しい代価を受ければそれで十分であると考えた。「ぶどう酒と濃い酒」を飲めば、気分が良くなるように、偽預言者は人々に悔い改めを迫らず、イスラエルの民が聞いていて自己満足に浸れるメッセージだけを伝えた。そして、偽預言者による人間中心のメッセージを聞いた民は、ますます罪に走り、主なる神の怒りは更に大きくなっていった。主なる神の言葉を聞く時、罪の悔い改めが起こるが、虚しいメッセージばかりを聞いていたイスラエルの民には希望が閉ざされていた。
 結局、主なる神は彼らに対して裁きを宣言される。主なる神は彼らに「立て、出て行くがよい。ここは安住の地ではない。この地は汚れのゆえに滅びる。その滅びは悲惨である」と言われた(10節)。カナンは約束の地であった。しかし、彼らは罪を一向に悔い改めなかったためにそこから立ち去るよう主なる神に命じられた。主なる神を捨てた代価は滅びである。
 だが、主なる神は裁きの中にも憐れみと恵みを注いで下さる。イスラエルが裁かれ、国が滅びたとしても、主なる神は「イスラエルの残りの者を呼び寄せ」、牧場の羊のように顧みて下さる。そして、再び立ち上がることが出来るようにして下さる。

聖書の黙想と適用 ミカ書1章8~16節

聖書の黙想と適用 ミカ書1章8~16節(新共同訳 旧約pp.1449-1450)

(1) 預言者ミカの慟哭(8~9節)

 預言者ミカは主なる神の裁きを伝えたが、自分が宣告した主なる神の言葉に胸が引き裂かれそうな思いになった。ミカは「裸、はだしで歩き回り」、「山犬のように悲しみの声をあげ/駝鳥のように嘆」いた(8節)。これからサマリアが受ける「痛手はいやし難く」、サマリアに臨む裁きはやがて「ユダにまで及び」、そして「エルサレムに達する」からである(9節)。イスラエル(北王国)は、主なる神の言葉に耳を傾けず、偶像に仕えて滅びたが、ユダ(南王国)も同じ道を歩んでいた。
 裁きの預言は悔い改めへの呼びかけであり、主なる神の言葉は必ずその通りになるという警告である。イエス・キリストが「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である」(ルカによる福音書5章31節)と言われたように、自分が病んでいることを自覚した時、初めて人は医者のもとに向かう。そして、治療を受けることが出来る。しかし、自分が罪人であることを認めない者は、悔い改めることもせず、そのため裁きが近づく。
 ここでミカは自分を第三者の立場に置いて主なる神の言葉を語っているわけではない。彼自身も裁きの宣告に痛み、悲しみ、慟哭した。更に、ミカにそれを告げるよう命じた主なる神ご自身も、悲しみ、心を痛められた。

(2) ユダの町々に対する裁き(10~16節)

 ミカはユダに下る主なる神の裁きについて預言した。10~15節に出てくる町々はユダの南西部に位置していたと考えられる。征服者による略奪と破壊は、ユダの北部から始まり南部まで及ぶ。
「ツァアナン」の住民は「裸で恥じて出て行」き、「ベト・エツェル」にも「悲しみの声が起こ」るなど、ユダが頼れる所は次々になくなっていく。それ故、ミカは「シャフィル」の住民に「立ち去れ」と忠告する(11節)。
 また、「マロト」の住民は「幸いを待っていた」が、「災いが主からエルサレムの門にくだされ」るため、誰も幸いを見ることは出来ない(12節)。
「ラキシュ」の住民も、「戦車に早馬をつな」いであたふたと逃げることになる。ラキシュはユダに偶像がもたらされる入口だったのだろう。ミカはラキシュを「娘シオンの罪の初め」と呼び、「お前の中にイスラエルの背きが見いだされる」と批判している(13節)。
 主なる神の裁きの結果、ユダの人々は故郷を離れることになる(14節)。「アドラム」(15節)はダビデがサウルに追われた時に逃れた町である(サムエル記上22章1節)。しかし、アドラムまで逃れようとも、そこさえも最早ユダの民を守ってはくれない。主なる神の裁きを避けられる所はどこにもない。更に、征服者は、彼らの子供達に対し、力の源と考えられていた親の「髪の毛をそり落と」すという屈辱を与える(16節)。
 主なる神の裁きは、ユダの人々から全てのものを奪い、破壊してしまう。それは人間の力で耐えることの出来るものではない。主なる神の裁きが臨む前に私達は悔い改めるべきである。

聖書の黙想と適用 ミカ書1章1~7節

聖書の黙想と適用 ミカ書1章1~7節(新共同訳 旧約p.1449)

(1) 住まいから出てこられる主なる神(1~4節)

「ユダの王ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代」に主なる神の言葉がミカに臨んだ(1節)。ミカは「サマリアエルサレム」についての幻を見て、主なる神の御心を知った(1節)。ミカが預言者として活動した頃、イスラエル(北王国)とユダ(南王国)は、偶像に仕え、様々な罪を犯し、主なる神を畏れようとしなかった。その罪が満ちたため、主なる神は立ち上がられた。ミカ書は、腐敗し、堕落しきった宗教指導者や、貪欲による搾取と偽りを日常的に行っていた支配層に向けられた裁きのメッセージである。
 ミカは「諸国の民」「大地とそれを満たすもの」に「皆聞け」「耳を傾けよ」と呼びかけた(2節)。偶像に対しては人間が一方的に話すだけだが、主なる神は生きておられ、私達に語られる。主なる神の言葉が臨んだら、まず聞かなければならない。聞いてこそ理解することが出来る。聞かないことは不従順である。罪と欲望で満たされていては、主なる神の言葉は聞こえない。
 その上で、ミカは「見よ、主はその住まいを出て、降り/地の聖なる高台を踏まれる」(3節)と語り、主なる神の裁きを予告した。傲慢と偽りの安定の象徴であり、偶像礼拝が行われていた「地の聖なる高台」を主なる神は踏みつけられる。サマリアエルサレムの罪に対して主なる神が立ち上がり、彼らの罪悪の証人となられる(2節)。
 主なる神の裁きが始まると、「山々はその足もとに溶け、平地は裂ける」(4節)とミカは言う。その時「火の前の蠟のように/斜面を流れ下る水のように」主なる神の裁きは止まることを知らない。そのため、主なる神の裁きに耐えられる者は誰もいない。
 主なる神は、ご自分の民が罪を犯した時、その罪を即座に裁かれることをせず、悔い改めの機会を与えて下さる。裁きを下す前に罪を指摘し、ご自身の御心を伝えられる。そして、民が悔い改めて、ご自分のもとに立ち帰るよう待って下さる。旧約の時代には預言者が先に遣わされ、最後には御子イエス・キリストが遣わされた。主なる神は忍耐深い方であられる。
 しかし、主なる神が永遠に罪を裁かれないということはない。主なる神は聖い方であられる。だから、民がご自身の言葉に耳を傾けないなら、主なる神は罪を裁くことによって、人々を悔い改めさせ、ご自身に立ち帰らせる。主なる神の言葉はこの世に救いと裁きを告げる。裁きを告げながら、同時に救いを示される。真実の救いは主なる神にある。

(2) 主なる神の裁き(5~7節)

 主なる神が審判者として臨まれたのはイスラエルとユダの罪のためであった(5節)。主なる神が立ち上がられる時、イスラエルの都サマリアは徹底的に破壊され、「野原の瓦礫の山」だけが残る(6節)。また、その時には「偶像」が全て粉砕され、神殿娼婦に与えた金銭は全て「火で焼かれる」(7節)。エルサレムも「ユダの聖なる高台」と化し、偶像に仕えるが故に、主なる神の裁きを避けられない(5節)。
 悔い改めとは、罪との繋がりを断ち切り、主なる神に再び繋がることである。偶像礼拝が「淫行」と密接に結び付いていたように、罪は互いに関連し合っており、一つの罪が別の罪を呼ぶ。
 主なる神は彼らの悔い改めを待っておられた。そして、私達に対してもミカの預言を通して悔い改めを呼びかけておられる。罪の結果は悲惨なものである。主なる神が裁きのために立ち上がられる前に、その言葉に従って罪から離れよう。主なる神の言葉を自分に対する言葉として受けとめ、主なる神が指摘する罪があるなら、直ちに悔い改めてそれを捨てよう。そうすれば裁きを避けることが出来る。

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書24章44~53節

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書24章44~53節(新共同訳 新約pp.161-162)

(1) 聖書の言葉を成就されたイエス・キリスト(44~47節)

 復活されたイエスは、弟子達に「聖書の意味を悟らせるために彼らの心の目を開」(45節)かれた。イエス・キリストの十字架と復活によって「モーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄」(44節)、即ち旧約聖書においてイエス・キリストについて記されていたことは全て成就した。
 イエス・キリストの十字架と復活は、主なる神の救いのご計画の成就である。新約聖書、特にイエス・キリストの十字架の死と復活に照らして旧約聖書を読み、旧約聖書に照らして新約聖書を読む時、私達は主なる神の救いの計画をよく理解することが出来る。聖書を悟るためには、イエス・キリストの十字架の死と復活を知り、信じなければならない。
 その上で、イエス・キリストは、ご自身が「苦しみを受け、三日目に死者の中から復活」(46節)されたことによって、「罪の赦しを得させる悔い改め」が、イエス・キリストの「名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」と予告された(47節)。イエス・キリストの死と復活によって悔い改めて罪の赦しを受ける道が開かれた。
 聖書の言葉を通してイエス・キリストの十字架と復活を知り、イエス・キリストを主と信じた時に与えられるのは、環境や状況によって変化する一時的な平安ではない。どのような状況においても永遠に生きておられるイエス・キリストにある平安である。キリスト者は、この福音を全ての民に、即ち「地の果てに至るまで」(使徒言行録1章8節)宣べ伝えるという使命を受けている。

(2) 天に上げられたイエス・キリスト(48~53節)

 イエス・キリストの十字架と復活の福音が全世界に宣べ伝えられるためには、弟子達が「これらのことの証人」(48節)にならなければならない。そして、そのためには聖霊の助けが必要である。イエス・キリストがこの地で働かれる時、聖霊の力に満たされたように(4章14節)、弟子達にも聖霊の力が必要であった。それ故、イエス・キリストは弟子達に聖霊を送ることを約束された。そして、聖霊を受けるまでエルサレムに留まるよう命じられた(49節)。
 イエス・キリストは、弟子達を祝福しながら(50節)、天に上げられた(51節)。しかし、イエス・キリストの働きは、天に上げられた後も終わってはいない。主なる神はイエス・キリストをご自分の右の座に着かせ、あらゆるものの主とされた(エフェソの信徒への手紙1章20~21節、フィリピの信徒への手紙2章9~10節)。イエス・キリストはご自分を信じる者が証人となり、福音が地の果てまで伝えられるよう聖霊を注いで下さる。そして、ご自分の民を救い、神の国へと招き、祝福し、守って下さる。
 イエス・キリストが与えて下さる聖霊に満たされることによってのみ、私達はイエス・キリストから与えられた使命を果たすことが出来る。教会の歴史の中で聖霊についての誤解や過度の強調がしばしば見られた。病が癒され、異言を語ることが出来なければ聖霊を受けていないというような誤った賜物主義が存在した。或いは、聖霊を受けることによって聖書には書かれていない別の啓示を受けると考える誤解も存在した。イエス・キリスト聖霊を送られたのは、私達をイエス・キリストに似た者とし、主なる神の愛と力によって福音宣教に当たらせるためである。助け主であられる聖霊の導きと守りを受け、イエス・キリストが主であり、救い主であられることを伝えよう。

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書24章28~43節

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書24章28~43節(新共同訳 新約p.161)

(1) イエス・キリストが復活されたことを知る弟子達(28~35節)

 2人の弟子は、イエス・キリストが「聖書を説明してくださったとき」、心が熱くなり(32節)、「一緒にお泊まりください」(29節)と願った。イエス・キリストは、彼らと一緒に食事の席に着き、パンを取って祝福し、彼らにお渡しになった(30節)。すると、2人の弟子の目は開け、自分の目の前にいるのが復活されたイエス・キリストであることに気付いた(31節)。
 その時、イエス・キリストの「姿は見えなくなった」(31節)。けれども、イエス・キリストが復活され、今も生きておられることを弟子達は確信するに到った。彼らはイエス・キリストを信仰によって見ることが出来るようになった。イエス・キリストはトマスにも「見ないのに信じる人は、幸いである」(ヨハネによる福音書20章29節)と言われている。
 イエス・キリストが復活されたことを知った2人の弟子は、彼らはすぐにエルサレムに戻った(33節)。日が暮れていたが、復活されたイエス・キリストを伝えたいという思いを止めることは出来なかった。イエス・キリストの復活は、衝撃的で驚くべきニュースである。そして、イエス・キリストの十字架の贖いが事実であることを確信させる。このことを知った者は、その福音を伝えずにはいられなくなる。
 エルサレムでは11人の弟子達とその仲間が集まって(33節)、イエス・キリストが復活して、シモンに現れたことについて話していた(34節)。2人の弟子も自分達が見て知ったことを話した(35節)。イエス・キリストの復活は、多くの証人がいる客観的な事実である。
 私達はイエス・キリストの復活をどれほど確信しているだろうか。イエス・キリストの復活はキリスト教の最初期から今日まで教会が信じ、伝え続けてきた核心のメッセージである。イエス・キリストの復活は、聖書の真理であり、私達の勝利と希望の根拠である。復活は事実なので、私達が恐れるべきものは何もなく、再び立ち上がることが出来る。私達のために苦しまれ、死に打ち勝たれたイエス・キリストは、今も生きておられ、共にいて下さる。私達の唯一の望みである復活されたイエス・キリストを宣べ伝えていこう。

(2) 肉体的に復活されたイエス・キリスト(36~43節)

 復活されたイエス・キリストは、弟子達に集まっていた所の「真ん中に立ち」、「あなたがたに平和があるように」(36節)と言われた。弟子達は恐れ戦き、イエス・キリストを亡霊であると考えた(37節)。それに対し、イエス・キリストは、「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか」(38節)と言われ、ご自分の手と足を示しながら(40節)、肉体的に復活されたことを弟子達に語られた(39節)。それでも弟子達が信じられず、不思議がっていると(41節)、焼いた魚を彼らの前で召し上がられた(42~43節)。こうしてイエス・キリストは、ご自分の復活の確かさを弟子達に分かるように証しされた。
 イエス・キリストは肉体的に復活された。復活以前の姿と連続性のある体の復活である。そして、再臨の時にもこの復活された姿で来られる(使徒言行録1章11節)。イエス・キリストは、ご自分が肉体的に復活されたことを弟子達がよく理解し、確信することを願っておられる。そのことが信仰と希望の根拠だからである。イエス・キリストの実際的な復活は、イエス・キリストの救いの御業が完全に成就したことを確信させる。
 イエス・キリストの復活はキリスト者の希望である。イエス・キリストが栄光の体で実際に復活されたので、私達もイエス・キリストのように実際に復活することを確信出来る。復活に対する信仰や理解が曖昧であったり、疑いがあると、教会生活に熱心であっても、躓きや誘惑に直面した時、脆くも崩れ、困難や苦しみを克服することが難しくなる。復活の信仰だけが、どのようなことがあっても、それを乗り越えさせる力となる。だから、聖書を読み、聖霊の助けを受けて、イエス・キリストの肉体的な復活について確信することは大変重要である。

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書24章1~12節

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書24章1~12節(新共同訳 新約pp.159-160)

(1) 空の墓を目撃した婦人達(1~8節)

 安息日が終わった「週の初めの日の明け方近く」、婦人達は「準備しておいた香料を持って」イエス・キリストの墓に行った(1節)。香料は死体の防腐処理のためのものである。彼女達は安息日の直前にイエス・キリストを急いで葬ったため、葬りですべきことを十分に出来なかった。このことから彼女達がイエス・キリストを心から愛してはいたけれども、イエス・キリストの復活については考えていなかったことが分かる。
 ところが、墓を塞いでいた石が脇に転がされており(2節)、イエス・キリストの遺体は見当たらなかった(3節)。イエス・キリストの死と葬りを見守った婦人達が、墓を見間違える筈がない。空の墓はイエス・キリストの復活の確かな証拠であった。
 婦人達は誰かが遺体を持って行ったと思い、途方に暮れた(4節)。その時、「輝く衣を着た」2人の天使が現れた(4節、23節)。その姿は栄光の復活を証しするのに相応しい姿である。天使は「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」(5~6節)と告げた。
 その上で、天使はイエス・キリストが「まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい」(6節)と促した。イエス・キリストは、公生涯の間、「人の子は必ず、罪人の手に殺され、十字架につけられ、三日目に復活する」と何度も語られた。イエス・キリストの復活は、予期せぬ出来事ではなくイエス・キリストの言葉の成就であった。このことを通してイエス・キリストの言葉と働きが真実であることが立証された。
 婦人達は、十字架と復活に関するイエス・キリストの言葉を思い出し(7~8節)、イエス・キリストの復活を悟った。当時法的な証人になれなかった女性が復活の最初の証人となった。
 キリスト教の核心的な真理は、イエス・キリストの贖いの死と復活である。イエス・キリストの復活は、イエス・キリストが神であり、救い主であることの確かな証拠である。「イエス・キリストの復活を信じられない」と言う人は多い。彼らは復活を非科学的であると考える。しかし、イエス・キリストの復活は確かな証拠と証人が存在する歴史的事実である。
 また、イエス・キリストの復活は、イエス・キリストの言葉の成就である。イエス・キリストがお語りになったことは全てその通りになる。イエス・キリストが罪と死に勝利されたから、私達も罪と死の力から解放された。私達をこの世に打ち勝たせるものはイエス・キリストの言葉だけである。いつも聖書に触れ、イエス・キリストの言葉を忘れないことによって、私達は復活の希望へと導かれる。そして、この世における恐れや不安に打ち勝ち、復活の証人として歩むことが出来る。

(2) 婦人達の証言を信じられなかった弟子達(9~12節)

 イエス・キリストが復活された日の朝には驚きと恐れ、また混乱があった。イエス・キリストの復活の知らせを聞いた婦人達は、空の墓から戻ると、イスカリオテのユダを除く「十一人とほかの人皆」に一部始終を知らせた(9~10節)。彼女達はイエス・キリストにずっと付いて行き、十字架の死と葬りにも立ち会った。
 だが、弟子達は、婦人達から空の墓の証言を聞いても、「この話がたわ言のように思われたので」(11節)信じようとはしなかった。彼らは、イエス・キリストから直接訓練を受け、十字架と復活についても聞いてきた。にもかかわらず、彼らが信じられなかったのは、イエス・キリストの復活はすぐには信じ難いことだからである。
 ただ、ペトロは、墓に走って行って、中を確かめた。そこにはイエス・キリストの遺体はなく、「亜麻布しかなかった」(11節)。復活の証しは確認すればするほど多く存在し、証人も増えていく。
 イエス・キリストの復活について聞いても、すぐに信じることは簡単ではない。有り得ないことであると考え、戸惑ってしまう。それ故、私達は2つの方法で復活について語る必要がある。第一に、聖書的な根拠と歴史的な根拠を正しく示すことである。ただ主張するだけではなく、歴史的な事実であることをきちんと説明しなければならない。第二に、イエス・キリストの復活は私達が自分の知恵で理解することの出来ない福音であることを認め、聖霊の働きを求めることである。私達は、聖霊の照らしと助けを受け、聖書の言葉を想い起こすことによって信仰に到ることが出来る。最も良くないことは、復活について語るのを恥ずかしがることである。福音は大胆に伝えるべきものである。

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書23章44~56節

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書23章44~56節(新共同訳 新約p.159)

(1) イエス・キリストの死(44~49節)

 イエス・キリストが十字架で死なれる時、全地が暗くなり(44節)、太陽が光を失った(45節)。暗闇が臨むことは旧約聖書では主なる神の裁きを表している(出エジプト記10章21~22節、詩編105編28節、イザヤ書13章10節、60章2節、エレミヤ書13章16節、エゼキエル書32章7~8節、ヨエル書3章4節、アモス書5章18節、20節、8章9節、ミカ書3章6節)。主なる神は人間の罪に対する怒りを罪のないイエス・キリストに下された。そして、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(46節)と大声で叫んで息を引き取られた。これは、ヨハネからバプテスマを受け(3章21節)、公生涯を始められたイエス・キリストが、その働きを全うされたことを示している。イエス・キリストは、主なる神の御心に従って贖いの供え物となられ、罪人が受けるべき呪いと裁きを代わりに受けられた。
 私達はイエス・キリストが受けられた十字架の苦しみを知らなければならない。そして、イエス・キリストが負われた私達の罪、偽り、頑なな心を自覚しなければならない。十字架の苦しみを知れば知るほど、イエス・キリストが私達に与えて下さった恵みの大きさと深さを知ることが出来る。
 イエス・キリストが息を引き取られた時、神殿の幕が裂けた(45節)。そのことによって主なる神と人間の関係の回復が目に見える仕方で表された。主なる神の御前に出て行くことの出来なかった罪人が罪の赦しを受け、主なる神の御前に出ることが出来るようになったのである(ヘブライ人への手紙10章20節)。罪のないイエス・キリストが刑罰を代わりに受けられたことによって、罪人を裁かれる主なる神の義が満たされた。全ては主なる神の恵みである。
 百人隊長は、十字架におけるイエス・キリストを見て、「本当に、この人は正しい人だった」(47節)と告白した。見物に来ていた群衆も、これらの出来事を見て、胸を打ちながら悔い改め、帰って行った(48節)。イエス・キリストの十字架の恵みを知る時、私達はそうせざるを得なくなる。
 イエス・キリストを主と信じる者は、信仰によって義とされ、主なる神との間に平和を得ている(ローマの信徒への手紙5章1節)。それ故、心配と恐れから解放され、平安の中で生きることが出来る。罪と戦い、勝利することが出来る。主なる神との豊かな交わりの中で祈ることが出来る。そして、イエス・キリストを証しし、主なる神にご栄光を献げずにはいられなくなる。

(2) イエス・キリストの葬り(50~56節)

 イエス・キリストが十字架で死なれた後、遺体を引き取る人がいなかった。その時、「ユダヤ人の町アリマタヤの出身」(51節)の「ヨセフという議員」(50節)が登場する。彼は、「善良な正しい人」(50節)で、「同僚の決議や行動には同意しなかった」(51節)。イエス・キリストの無罪については、ピラトとヘロデによって(4節、14節、15節)、一緒に十字架につけられた犯罪人によって(41節)、百人隊長によって証しされてきた(47節)。「善良な正しい人」であったヨセフが同意しなかったことも、イエス・キリストの無罪を示していると言える。その一方で、彼は「ユダヤ人を恐れて」イエス・キリストの弟子であることをそれまで隠していた(ヨハネによる福音書19章38節)。
 しかし、ヨセフは、自分が不利益を蒙ることを覚悟の上で、「勇気を出して」(マルコによる福音書15章43節)ピラトのところに行き、イエス・キリストの遺体を引き取ることを申し出た(52節)。その後、イエス・キリストの遺体は「まだだれも葬られたことのない」(53節)新しい墓に安置された。「イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たち」も、墓を確認して(55節)、家に帰り、香料と香油を準備した(56節)。このことは、急いでイエス・キリストを葬ったため、遺体に香料と香油を塗る時間もなかったことを伝えると共に、彼女達が安息日を守る敬虔な信仰者であったことを示している。婦人達は、イエス・キリストの十字架と葬り、そして空の墓という決定的に重要な出来事の目撃者となった。
 ヨセフも婦人達も「神の国を待ち望んでいた」(51節)が、イエス・キリストの十字架の死は神の国をこの世にもたらした。そして、神の国を願う者をそこに導き入れる。イエス・キリストが十字架につけられたことは、失敗や挫折ではなく、罪人を救うための主なる神のご計画の成就である(エフェソの信徒への手紙1章4節、9節)。私達もイエス・キリストを主と信じることによって神の国に入ることが出来る。私達に臨む神の国は最初からし種やパン種のように小さい(13章18~20節)。しかし、神の国は私達の内にあって大きく成長していく。そして、この世にあって主なる神の御心に従って生きる者へと私達を変えていく。

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書23章33~43節

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書23章33~43節(新共同訳 新約pp.158-159)

(1) 罪人のために執り成すイエス・キリスト(33~38節)

 イエス・キリストは罪人として十字架上で死なれた。ユダヤ人が長い間待望していたメシア(キリスト)であるにもかかわらず、ユダヤ人によって拒絶された。罪のない方であるにもかかわらず、2人の極悪な犯罪人と共に十字架につけられ、犯罪人のように扱われた(33節)。
 イエス・キリストは十字架につけられてから死ぬ直前まで、人々の嘲りを受け続けた。最高法院の議員は「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」(35節)と嘲笑った。兵士達も「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」(37節)と侮辱した。彼らの目に、イエス・キリストは、十字架にかけられ、「自分を救う」ことの出来ない敗北者、偽預言者、偽メシア、人生の失敗者、ローマ帝国への反逆者として映った。彼らが思い描いていた力に満ちたメシアの姿、王の姿とは大きく異なっていたからである。
 しかし、イエス・キリストは「神からのメシア」であるからこそ十字架につけられた。ご自分が十字架で主なる神の呪いと裁きを一身に受けることだけが罪人を救う唯一の道だったからである。もしイエス・キリストがご自分を救われたなら、罪人に救いが与えられることもない。だからこそ、耐え難い苦痛の中にあって、自分を十字架につけ、死に追いやろうとしている人々のために「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(34節)と祈られた。この言葉を通してイエス・キリストはご自分が何故十字架で死なれるのかを示された。
 また、イエス・キリストユダヤ人の王であり、神の国の王であられる。そして、地上にその国を成すために十字架で死なれた。その意味で「ユダヤ人の王」(38節)と書かれた罪状書きは正しかった。そして、イエス・キリストは十字架で罪に勝利された。それ故、イエス・キリストを主と信じる者は神の国の民とされる。
 イエス・キリストがお語りになられたように、イエス・キリストが十字架にかかられた理由と結果について正しく知らなければ、私達はイエス・キリストを正しく信じることが出来ない。兵士達はイエス・キリストユダヤ人の王として十字架につけられたことを知らなかったが故に嘲った。祭司長や律法学者は、主なる神に仕えていると言いながら、イエス・キリストがメシア、ユダヤ人の王である筈がないと信じて疑わなかった。真の信仰は、イエス・キリストを正しく理解し、イエス・キリストに自分を委ねることである。

(2) 罪人に救いを告げるイエス・キリスト(39~43節)

 イエス・キリストの横で十字架にかけられていた犯罪人の一人は、死にゆく中で「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」(39節)とイエス・キリストを罵った。しかし、もう一人の犯罪人は、「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」(41節)と述べた。その上で、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(42節)と願った。他の福音書を見ると、2人ともイエス・キリストを罵ったと記されている(マタイによる福音書27章44節、マルコによる福音書15章32節)。罵った犯罪人の一人は、十字架上のイエス・キリストの言葉を聞いて、心に変化が生じたと考えることが出来る。誰もがイエス・キリストを排斥し、嘲る中にあってイエス・キリストを信じたことは、聖霊の働きの結果である(コリントの信徒への手紙12章3節)。
 イエス・キリストの隣で十字架につけられた2人の犯罪人は、刑罰を受けて当然の極悪な犯罪人であったが、それは私達も同じである。私達も数えきれないほど多くの罪を犯し、主なる神から赦される望みの全くない者、自分が犯した罪に相応しい罰を受けて死ぬべき存在であった。しかし、イエス・キリストは「何も悪いことをしていない」方であるのに十字架につけられた。罪人を赦して神の国に入らせるために、人間の罪を代わりに負い、十字架でその刑罰を受けられた。
 それ故、イエス・キリストは十字架で流された血潮によってあらゆる罪に対する赦しを与えることがお出来になる。私達がイエス・キリストを救い主として、主として受け入れ、悔い改めるならば、その十字架の贖いによって救われる。イエス・キリストに依り頼んで生きるなら、私達もイエス・キリストから「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(43節)という希望をいただくことが出来る。これは有り得ない恵みである。

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書23章26~32節

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書23章26~32節(新共同訳 新約p.158)

(1) 十字架を負われるイエス・キリスト(26節)

 イエス・キリストは、死刑宣告を受けた後、鞭で打たれたり、葦の棒で頭を叩かれたりして(マルコによる福音書15章15節、18節)、体力が限界に達していた。そのため、十字架を背負って前に進むことが出来なくなってしまった。そこで、ローマ帝国の兵士達は、「シモンというキレネ人を捕まえて」(26節)、イエス・キリストの十字架を代わりに運ばせた(26節)。シモンは過越祭のために「田舎から出て来た」(26節)だけであった。にもかかわらず、イエス・キリストの十字架を無理矢理負わされた。ローマ帝国の兵士には植民地の民に労役を課す権限があった。
 その一方で、主なる神がイエス・キリストと共に十字架への道を進む者としてシモンを用いられたことは、イエス・キリストの弟子、即ちクリスチャンの人生を予示している。イエス・キリストは主なる神の刑罰を受けて死ぬべき私達の罪を贖うために十字架への道を歩まれた。その上で、イエス・キリストはそのことによって救われた者がご自分の歩まれた道に付いて来ることを願われた。クリスチャンとは自分の十字架を負ってイエス・キリストに従う者である(9章23節)。
 勿論、十字架への道は楽に付いて行くことの出来る道ではない。この世にあってイエス・キリストに従おうとする時、耐え難い苦しみが伴うこともある。だから、そのような道を歩くことを求められると、私達は応じることに躊躇してしまう。そのような時、イエス・キリストの十字架の贖いの死によって受けた恵みの数々を思い起こしてみよう。また、自分の十字架を負うことの先にある栄光があることを思い起こしてみよう。イエス・キリストが歩いて行かれた道を共に歩む思いが与えられる筈である。

(2) エルサレムに対する裁きを予告されるイエス・キリスト(27~32節)

 キレネ人シモンだけでなく、婦人達も「嘆き悲し」(27節)みながら、イエス・キリストに従った。イエス・キリストは、彼女達の方を振り向いて、「わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け」(28節)と語られた。これはエルサレムにやがて臨む裁きに対する警告である。「エルサレムの娘たち」はイエス・キリストのために泣いたが、イエス・キリストエルサレムのために嘆き悲しまれた。
 十字架につけられたイエス・キリストは、主なる神から復活の栄光を受ける。それに対し、イエス・キリストを拒んで十字架につけたエルサレムは、主なる神の裁きと呪いを受ける。その時エルサレムの人々が受ける裁きは、「子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ」(29節)と言われるほど悲惨なものであった。その裁きの中で彼らは絶望し、自ら死を望むほどであった(30節)。イエス・キリストの予告通り、エルサレムはA.D.70年に滅亡した。
 私達は主なる神の裁きを軽んじ、侮ってはいないだろうか。私達現代人は何の根拠もなく自分は天国に行けると考えてしまう。クリスチャンの中にも、教会にさえ属していれば救われると考える人がいる。しかし、そのようなことは聖書のどこにも書かれていない。全ての人は罪人であり(ローマの信徒への手紙3章23節)、自分が犯した罪に対する裁きを受けなければならない。その裁きは誰も逃れられない。イエス・キリストを主と信じず、自分の十字架を負って、イエス・キリストの言葉に聴き従うこともせず、救いを確信することは、「土台なしで地面に家を建て」(6章49節)るようなものである。
 イエス・キリストの贖いの死によって私達は罪の赦しを受け、義とされる。イエス・キリストは「二人の犯罪人」と共に「死刑にされるために、引かれて行った」(32節)。当時十字架刑は極悪な犯罪者だけが受ける刑罰であった。2人の犯罪人は自分が犯した罪の故に裁きを受けて十字架刑に処せられたが(41節)、イエス・キリストは何の罪もない方であられるにもかかわらず、極悪人としての扱いを受けた(イザヤ書53章9節)。それは、私達の全ての罪を代わりに負い、私達が受けるべき刑罰を代わりに受けるためであった。
 イエス・キリストに従う者には命と幸いがもたらされるが、イエス・キリストを拒む者は呪いから抜け出すことが出来ず、死と災いがもたらされる。私達の罪を贖って下さったイエス・キリストの十字架の恵みを心に深く刻もう。そして、罪を憎み、罪と戦うために、主なる神から新しい心をいただこう。