Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 詩編51編12~21節

聖書の黙想と適用 詩編51編12~21節(新共同訳 旧約p.885)

(1) 新しく確かな霊を授けて下さい(12~19節)

 ダビデはここで「神よ、わたしの救いの神よ/流血の災いからわたしを救い出してください」(16節)と嘆願している。彼は、バト・シェバと姦淫を姦淫を犯し、その罪を隠蔽するためにウリヤを殺す罪を犯してしまった。そして、自分の罪が主なる神の御前でいかに大きなものであるかを痛感していた。ダビデは、この罪から自分を救うことが出来るのは、主なる神しかおられないと信じていた。「恵みの御業」(16節)とは、主なる神が自分を罪から救って下さることを指している。
 そして、そのためにダビデは自分の「内に清い心を創造し」て下さる「新しく確かな霊」を主なる神に求めた(12節)。また、主なる神の「聖なる霊を取り上げない」(13節)ように願った。罪の赦しだけでなく、罪に打ち勝つため力を主に祈り求めたのである。私達は、罪が与える楽しみを放棄することが出来ず、それを繰り返してしまう。罪の誘惑に打ち勝つためには、聖霊によって満たされる必要がある。
 この時、ダビデは「焼き尽くす献げ物」を形式的に献げるだけでは、主なる神は喜ばれないと悟り(18節)、「打ち砕かれ悔いる心」(19節)で主なる神の御前に出ている。打ち砕かれ悔いる心なしに祈ることは偽善である。
 そして、主なる神が「御救いの喜びを再び」(14節)自分に「味わわせ」て下さるなら(14節)、「罪人が御もとに立ち帰るように」、主の道を主なる神に背いている者に教えるとダビデは表明している。罪の赦しと救いの恵みを体験した人は、主なる神に対して感謝と讃美を献げる。そして、主の恵みを熱心に伝える者に変えられていく。こうして救いの恵みは更に多くの人々に宣べ伝えられていく。

(2) エルサレムのための祈り(20~21節)

 ダビデは、自らの救いと共に、主なる神がエルサレム(シオン)を「御旨のままに」恵んで下さることを切に願った(20節)。また、「エルサレムの城壁を築いてください」(20節)という祈りは、象徴的な意味を持っていると考えられる。即ち、ここでダビデは、主なる神がイスラエルの道徳的、霊的、経済的、社会的基盤を立て直して下さることを切に願っている。
 主なる神は個人の変化を通して共同体の変化を導かれる。ダビデのように謙って悔い改め、罪を赦され、聖霊によって「清い心」(12節)と「御救いの喜び」(14節)を与えられる時、私達はその変化に与ることが出来る。主なる神は、私達が痛みをもって悔い改め、心から献げる「正しいいけにえ」、「焼き尽くす完全な献げ物」を喜んで受け取って下さる(21節)。

聖書の黙想と適用 詩編51編1~11節

聖書の黙想と適用 詩編51編1~11節(新共同訳 旧約pp.884-885)

(1) 背きの罪を拭って下さい(1~8節)

 ダビデは「あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し/御目に悪事を見られることをしました」(6節)と述べ、主なる神の律法に従わなかった自分の罪を認めた(5~6節)。彼は自分の罪を正当化したり、過小評価したり、そこから背を向けたりしなかった。そして、その罪が自分をどれほど苦しめているかを主なる神に訴えた。
 ダビデは、母が「身ごもったとき」から自分は「罪のうちに」あり、「咎のうちに産み落とされ」たと告白した(7節)。彼は自分が罪に対してどれほど弱いか、罪の誘惑の前でいかに無力であるかを痛感していた。
 その上で、ダビデは「わたしの咎をことごとく洗い/罪から清めてください」(3節)と祈り求めた。その際、彼が主なる神に赦しを求めた根拠は、主なる神の「御慈しみ」と「御憐れみ」であった(3節)。
 私達も罪を持って生まれ、自分でそれを退けることは出来ない。また、どれほど良い行いをしても、自分の罪を相殺することは出来ない。私達は罪を犯した時、ただ主なる神の恵みと憐れみに依り頼んで、赦しを求めなければならない。

(2) 私を洗って下さい(9~11節)

ダビデがバト・シェバと通じ」(2節)、その罪を隠蔽するために彼女の夫ウリヤを死に到らせたことは(サムエル記下12章9節)、人間の堕落を赤裸々に表している。ダビデは自分の罪を隠そうと策を巡らし、それは成功したかのように見えた。
 しかし、主なる神の目を避けることは出来なかった。ダビデは主なる神が遣わされた預言者ナタンの叱責を受けた。また、「あなたによって砕かれたこの骨」(10節)という表現は、ダビデが主の懲らしめを受けたことを象徴的に示している。事実、主なる神は、バト・シェバの産んだダビデの子を打ち、生後7日目に死ぬという罰を彼にお与えになった(サムエル記下12章15~18節)。
 このことを通して、ダビデは主なる神の御前では罪を隠せないことを悟った。彼は「ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください/わたしが清くなるように。わたしを洗ってください/雪よりも白くなるように」(9節)と主なる神に求めた。
 キリスト者は罪を遠ざけ、罪を犯さないように苦闘する。それでも、私達の中にある罪の習性は、私達を恐ろしい罪へと追いやることがある。罪は欲という隙を突いてくる。私達は自分で罪を解決出来ない。その事実を悟る時、私達は、ダビデのように主なる神の御前にひれ伏し、罪の赦しと憐れみを求める者へと変えられていく。

聖書の黙想と適用 詩編50編16~23節

聖書の黙想と適用 詩編50編16~23節(新共同訳 旧約p.884)

(1) 主なる神に背く者(16~20節)

 主なる神は「背く者」に対し、「わたしの掟を片端から唱え/わたしの契約を口に」しながら、その実「わたしの諭しを憎み/わたしの言葉を捨てて顧みない」と叱責された(16節)。主なる神の「諭しを憎み」、主なる神の「言葉を捨てて顧みない」というのは、人生において主なる神の言葉を無視して、自分の欲のままに行い、主なる神との契約に不誠実であることを意味した。彼らは主なる神を全く知らない人々ではなかった。寧ろ主なる神を知っていながら、その御心を無視する者であった。
 主なる神に背く者は、自らの既得権のためなら、「盗人」や「姦淫を行う者」とも仲間になった(18節)。また、悪事を企み、人を欺き(19節)、「兄弟をそしり」(20節)、悪い行いを常とした。これらは主なる神の言葉を捨てた結果である。主なる神の言葉から離れることと、罪を犯すことは不可分の関係にある。

(2) 神を忘れる者よ、弁えよ(21~23節)

 主なる神は、ご自分の民が罪を犯した時、すぐに罰することはされず、長く忍耐される。そのようにして私達に悔い改める機会を与えて下さる。
 しかし、主なる神は、私達が行うこと、思うことを全てご存知であられる。そして、私達の罪に対していつまでも「黙している」(21節)わけではない。私達の「罪状を」私達の「目の前に並べて」、私達を「責め」られる時が必ずやって来る(21節)。このような御方を私達が忘れたり、その掟を口先だけで唱えたり、形式的に仕えることは、実に愚かな行いである。
 主なる神は「神を忘れる者よ、わきまえよ。さもなくば、わたしはお前を裂く。お前を救える者はいない」(22節)と言って、御自分に背く者に悔い改めを求められた。悔い改めなければ、主なる神は、ご自分の民であっても、必ず罰を与えられる。しかし、主なる神の言葉に照らして自らの歩む「道を正す人」には、主なる神はご自分を現され、「救いを示」される(23節)。

聖書の黙想と適用 詩編50編1~15節

聖書の黙想と適用 詩編50章1~15節(新共同訳 旧約pp.883-884)

(1) 裁きを行われる主なる神(1~6節)

 主なる神は、「御言葉を発し」て、「日の出るところから日の入るところまで」(1節)、即ち全世界から人々を「呼び集められ」(1節)、御自身を「顕現される」(2節)。私達が主なる神を探し求めるのではなく、主なる神の方から私達に臨まれる(3節)。
 主なる神が臨まれるのは「御自ら裁きを行われる」(6節)ためである。主が審判者として臨まれる時、「御前を火が焼き尽くして行き/御もとには嵐が吹き荒れている」(3節)。また、天が「神の正しいことを告げ知らせる」(6節)。主なる神の臨在は、主に従う者にとっては喜びとなるが、主に逆らう者にとっては恐れとなる。
 主なる神が裁きを行う時にまず呼ばれるのは「御自分の民」(4節)である。主なる神は御自分の民を「わたしの慈しみに生きる者」、「いけにえを供えてわたしと契約を結んだ者」(5節)と呼ばれている。イエス・キリストという完全な生贄によって贖われた新しい契約の民として、キリスト者はその恵みに相応しく生きなければならない。

(2) 御自分の民を救われる主なる神(7~15節)

「わたしの民」と「お前の神」という表現は(7節)、主なる神がイスラエルの神となられ、イスラエルが神の民となった契約の関係をよく表している。
 イスラエルの民は献げ物をすることで主なる神を礼拝した。主なる神は審判者としてイスラエルの罪について「告発する」(7節)。しかし、献げ物のことでは彼らを責められなかった。彼らが「焼き尽くす献げ物」を熱心にささげていたからである(8節)。
 とはいえ、献げ物に対する彼らの考えには問題があった。イスラエルの民は主なる神のために献げ物をしなければならないと考えていた。しかし、「森の生き物」も「山々に群がる獣」も全て主なる神のものである(10節)。主は人間から献げ物を受けなければ「飢える」ような方ではない(12~13節)。「世界とそこに満ちているものはすべて」主なる神のものである(12節)。
 献げ物に対するイスラエルの民の誤った考えを指摘した後、主なる神は「告白を神へのいけにえとしてささげ」、「満願の献げ物」をすること(14節)、そして「苦難の日」に主なる神を呼び求めることを命じられた(15節)。主なる神に依り頼むこと、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げ」(ローマの信徒への手紙12章1節)ることを、主なる神は何よりも求めておられる。
 真の礼拝は、主なる神からいただいた恵みに対する感謝の応答であり、契約を忠実に守ること、主なる神に依り頼むことである。そのような礼拝者を主なる神は救って下さる。そして、そのことを通して主なる神の栄光が現される(15節)。契約に従い、心と思いを尽くして主なる神と隣人を愛そう。

聖書の黙想と適用 イザヤ書39章1~8節

聖書の黙想と適用 イザヤ書39章1~8節(新共同訳 旧約p.1123)

(1) バビロンからの見舞客(1~2節)

 ヒゼキヤは主なる神の恵みによって15年間寿命を延ばされた(38章5節)。ところが、彼はその後主なる神の恵みを忘れて、高慢になり、大きな過ちを犯してしまった。
「バビロンの王、バルアダンの子メロダク・バルアダン」がヒゼキヤに手紙と贈り物を携えて、使者を送って来た時(1節)、彼は「銀、金、香料、上等の油など宝物庫と、武器庫、倉庫にある一切の物を彼らに見せた」(2節)。彼は自分の富と力を誇ったのである。
 ヒゼキヤは主なる神が生きて働かれた御業をこそ使者達に誇るべきであった。しかし、強大国バビロンの王が「手紙と贈り物を送って来た」(1節)ことに興奮し、舞い上がってしまった。そのため、国の機密に関わるものも含めて、「王宮にあるもの」を「何もかも」使者に公開してしまった(4節)。
 ヒゼキヤはそれまで主なる神だけに頼り、祈ってきた。しかし、人間的な欲の故に心に隙が生じ、信仰の中心を見失ってしまった。私達も成功した後にはいつも試みがやって来ることを覚える必要がある。

(2) ユダの滅亡に関する預言(3~8節)

 主なる神はヒゼキヤの慢心を怒られた。そこで預言者イザヤを遣わし(3節)、イザヤを通してやがて起こるユダの滅亡について語られた(5節)。
 ヒゼキヤが信仰の中心を見失い、バビロンからの使者に王宮にあるものを何もかも見せたことによって(4節)、ユダはバビロンに踏み躙られる機会を提供した。ユダは、自分達がこれまでずっと警戒してきたアッシリアではなく、バビロンによって捕虜とされ(7節)、全ての所有物を「ことごとくバビロンに運び去られ」(6節)る。権力と財産を誇る者は必ず滅びる。
 ところが、イザヤの預言に対し、ヒゼキヤは驚くことに「あなたの告げる主の言葉はありがたいものです」と答えている(8節)。ユダの滅亡が起こるのは将来で、「自分の在世中は平和と安定が続く」と考えたからである。ヒゼキヤは国の将来について利己的で無責任な態度を示した。より良い未来のためには、今日主なる神の御心に適った生活をすることが必須である。

聖書の黙想と適用 イザヤ書38章9~22節

聖書の黙想と適用 イザヤ書38章9~22節(新共同訳 旧約pp.1121-1123)

(1) 天を仰ぐヒゼキヤ(9~14節)

「病気であったが、その病気が治って命を得たユダの王ヒゼキヤの記した歌」(9節)には、死に対する人間の恐れがよく表現されている。「命ある者の地にいて主を見ることもなくなり/消えゆく者の国に住む者に加えられ/もう人を見ることもない」(11節)とヒゼキヤが歌っているように、永遠の命を信じるキリスト者にとっても、主なる神が「息の根を止めようとされる」(12節、13節)のは恐ろしいことである。
 この時、ヒゼキヤは「つばめや鶴のように」「すすり泣きの声をあげ」、「鳩のように」「呻」いた。そして、目が「弱り果てる」ほど「天を仰いで」、主なる神に自分を生かして下さるよう嘆願した(14節)。死を前にしても、ヒゼキヤは信仰を失わなかった。
 私達は危機や絶望に捕われると不信仰に陥ることがある。しかし、神の民は、絶望的な状況にあっても、ヒゼキヤのように信仰を守ることを求められている。

(2) 主なる神に感謝と讃美を献げるヒゼキヤ(15~22節)

 ヒゼキヤは「心に苦痛を抱」(15節)いていた時にも、「わたしの受けた苦痛は/平和のためにほかならない」(17節)と述べ、自分の苦しみが主なる神のご計画の内にあることを堅く信じていた。また、「主が近くにいてくだされば、人々は生き続けます。わたしの霊も絶えず生かしてください」(16節)と述べ、苦しみの中にあっても自分が一人ではないことを決して忘れなかった。
 だからこそ、ヒゼキヤは「わたしを健やかにし、わたしを生かしてください」(16節)と祈り、主なる神の「まことに期待」(18節)した。それは辛い試みや逆境の中で簡単に不平を言い、主なる神を信じられなくなってしまう私達の姿とは対照的である。主なる神は私達の全ての道を共に歩んで下さる方である。私達が倒れて失敗した時も、主なる神は私達から去ったり、私達を見捨てたりはされない。
 また、ヒゼキヤは病が癒されることによって主なる神の答えが臨んだ後も高慢になることがなかった。彼は自分が何か優れた者であるかのように癒されたことを誇らなかった。逆に彼は「あなたはわたしの魂に思いを寄せ/滅びの穴に陥らないようにしてくださった。あなたはわたしの罪をすべて/あなたの後ろに投げ捨ててくださった」(17節)と述べ、自分の全ての罪を赦して下さった主なる神に感謝を献げた。
 更に、ヒゼキヤは「わたしたちは命のあるかぎり主の神殿で/わたしの音楽を共に奏でるでしょう」(20節)と述べ、神殿で自分を救って下さった主なる神に生涯讃美を献げることを表明している。そして、病気が快復した後(21節)、彼は早速それを行おうとしている(22節)。このようなヒゼキヤを主なる神はどれほど喜ばれただろうか。
 主なる神の恵みを受け、罪の赦しを得た時、私達は主なる神に感謝と讃美を献げる者とされる。大切なのは私達が毎日、そしてあらゆることにおいて主なる神を第一とすることである。

聖書の黙想と適用 イザヤ書37章30節~38章8節

聖書の黙想と適用 イザヤ書37章30節~38章8節(新共同訳 旧約pp.1120-1121)

(1) 万軍の主の熱情(37章30~38節)

 イザヤは主なる神が与えられたユダの救いの徴をヒゼキヤに告げた。アッシリアの軍隊の蹂躙によってユダの地は荒廃してしまった。しかし、この年もユダの人々は「落ち穂から生じた穀物を食べ」ることが出来る。また、翌年は「自然に生じたものを食べ」ることが出来る。そして、翌々年には「種を蒔いて刈り入れ、ぶどう畑を作り、その実りを食べる」ことが出来るようになる(30節)。また、「難を免れ、残った者たちは再び根を下ろし、上には実を結ぶ」(31節)ことが出来る。「万軍の主の熱情がこれを成就される」とイザヤは宣言した(32節)。
 続いてイザヤはアッシリアの敗北を宣言した(33~34節)。主なる神は「自らのために」、またダビデに約束されたことを為すためにエルサレムを「守り抜いて救」われる(35節)。イザヤの預言通り、主の御使いが「アッシリアの陣営で十八万五千人を撃」(36節)ち、アッシリアセンナケリブはニネベに撤退した(37節)。そして、「二人の息子アドラメレクとサルエツェル」によって剣で殺された(38節)。主なる神は万軍の主であり、歴史の主であられる。主なる神の熱情に信頼し、勝利の人生を生きよう。

(2) ヒゼキヤの病気(38章1~8節)

 ヒゼキヤは、死の病に罹り、イザヤを通して「あなたは死ぬことになっていて、命はないのだから、家族に遺言をしなさい」という宣告を受けた(1節)。この時、ヒゼキヤは39歳で(5節、列王記下18章2節)、王位を継ぐ子供もまだ生まれていなかった(列王記下21章1節)。死刑宣告に等しい預言を聞いた彼の衝撃はどれほどだっただろうか。
 しかし、ヒゼキヤは絶望したり、不平不満を吐いたりせず、すぐに主なる神の御前に出て行った。そして、「顔を壁に向け」(2節)、「涙を流して、大いに泣」きながら、「ああ、主よ、わたしがまことを尽くし、ひたむきな心をもって御前を歩み、御目にかなう善いことを行ってきたことを思い起こしてください」と主なる神に祈った(3節)。ヒゼキヤの「祈りを聞き、涙を見た」(5節)主なる神は「わたしはあなたの寿命を十五年延ば」(5節)すと告げられた。
 希望を打ち砕かれた時、神の民がとるべき態度をヒゼキヤはよく示している。主なる神は、ご自分の御前に謙ってひれ伏し、切に助けを求める人に必ず答えられる。主なる神に頼る者が流す涙は涙だけで終わることはない。

聖書の黙想と適用 ヨブ記32章1~14節

聖書の黙想と適用 ヨブ記32章1~14節(新共同訳 旧約p.817)

(1) エリフの怒り(1~5節)

「自分は正しいと確信していた」ヨブに対し、3人の友人達は反論することが出来なかった(1節)。ここでエリフが登場する。
 エリフはそれまでヨブと友人達の議論を黙って聞いていた。「彼らが皆、年長だったので」(4節)、エリフは論争に割って入ることをしなかった。このことは彼がとても思慮深く、礼儀正しい人であったことを示している。律法に「白髪の人の前では起立し、長老を尊び、あなたの神を畏れなさい。わたしは主である」(レビ記19章32節)とある。長年生きてきた人の豊かな経験に基づく知恵から学ぶべきことは多い。
 その一方で、彼らの話を聞いていて、エリフは次第に怒りが込み上げてきた。彼は、ヨブが「神よりも自分の方が正しいと主張」(2節)していると思い、腹が立った。ヨブに対し主なる神を冒瀆していると思ったのかも知れない。また、ヨブの友人達が、ヨブの苦しみを罪の故であると決めつけ、彼を罪に定めようとしながら、「ヨブに罪のあることを示す適切な反論を見いだせ」(3節)ず、沈黙してしまったのを見て、無責任であると思い、やはり怒りが込み上げてきた(5節)。
 エリフは、ヨブと友人達が、彼らの人生経験と知恵、洞察力によって、ヨブの苦しみに対する主なる神の御心を理解すると共に、互いを慰め、励まし、建て上げる言葉を語り合うのを期待していたのかも知れない。しかし、彼らは、一向に歩み寄りのない論争を延々と続け、互いを非難し合った。その様子を見て、主なる神の摂理に対する知恵と洞察力は、年齢や経験によるのではなく、主なる神から与えられるものであることをエリフは悟った。

(2) 聖霊が与える知恵(6~9節)

 全ての人間は「神にかたどって創造され」(創世記1章27節)、主なる神から「命の息を吹き入れられた」(同2章7節)霊的な存在である。それ故、主なる神は人間に知恵を与えることが出来る。人間の中にある「霊」を通して「全能者」が息を吹き入れることで、人間は「悟りを与え」られるとエリフは言う(8節)。
 エリフは、真の知恵は人からではなく、主なる神から来ることを確信していた。多くのことを学び、様々な経験をすることによって、私達は知恵を得ることが出来る。しかし、年齢や経験を重ねたとしても、私達は主なる神の摂理を悟ることにおいて必ずしも「賢くな」り、「ふさわしい分別ができる」ようになるわけではない(7節、9節)。人間が持っている知恵には限界がある。
 それ故、私達は主なる神の言葉の前で常に謙遜にならなければならない。「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」(コリントの信徒への手紙一1章25節)からである。また、身分、地位、名誉、性別、年齢などの如何に関わらず、他の人の意見や問題提起が聖書的に妥当である時には、いつでも耳を傾けられるようにしたい。聖霊は誰を通して教えられるか分からないからである。

(3) よく聞いて、意見を述べる(10~14節)

 エリフは、自分の意見を述べる前に(10節)、ヨブと友人達の「言葉を待ち/その考えに耳を傾け/言葉を尽くして論じるのを聞」(11節)いた。その上で、友人達が、ヨブにまっとうな反論をすることが出来ずに(12節)、「彼を負かすのは神であって人ではない」(13節)と言って、ヨブとの論争を終えたのは無責任であると批判する。そこで、エリフは、友人達のような論法では答えず、彼らとは異なる観点から意見を述べようとした(14節)。
 原因の分からない突然の災いにヨブは心身ともに傷つき、疲れ果て、慰めや愛を求めていた。にもかかわらず、ヨブに対し、友人達は主なる神の裁きが下ったと一方的に批判した。そして、議論を重ねる中で、相手を論破したいという思いに駆られ、関係が却って悪化してしまった。
 私達は、まず相手の意見に関心を持ち、詳しく聞いてから話すべきであり、それなしに安易に他の人を責めてはならない。相手の状況と考えと感情を考えずに、自分の立場だけを押し付ける言葉は、どれほど真剣であっても相手の拒絶を招き易い。苦しみの中にある人にとっては、些細な一言が大きな傷となり、温かい慰めの一言が大きな力と励ましを与える。「いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。そうすれば、一人一人にどう答えるべきかが分かるでしょう」(コロサイの信徒への手紙4章6節)。

聖書の黙想と適用 イザヤ書37章14~29節

聖書の黙想と適用 イザヤ書37章14~29節(新共同訳 旧約pp.1119-1120)

(1) ヒゼキヤの祈り(14~20節)

 ヒゼキヤは「主の神殿に上って行」(14節)き、センナケリブが送った「手紙を主の前に広げ、主の前で祈った」(14~15節)。その手紙には「生ける神をののしる」(17節)言葉が綴られていた。これを根拠にヒゼキヤは主なる神に「わたしたちを彼の手から救い、地上のすべての王国が、あなただけが主であることを知るに至らせてください」(20節)と祈り求めた。
 また、ヒゼキヤは、センナケリブが証拠として挙げた「諸国の神々」(12節)は「神ではなく、木や石であって、人間が手で造ったものにすぎ」(19節)ないこと、主なる神だけが「地上のすべての王国の神」であり、「天と地をお造りになった方」であることを告白した(16節)。
 ヒゼキヤの祈りは単に戦勝を祈願するものではなかった。彼は、主なる神がユダを救われることによって、「地上のすべての王国」に主なる神の義が示されることを願った(20節)。ヒゼキヤは主なる神に対する正しい知識の故に主なる神の裁きを求めた。
 祈りは主なる神を信頼することの表現である。祈りの基礎は信仰であり、祈りの結果は応答であり、祈りの目的は主なる神の栄光である。私達は危機に直面するとすぐに絶望し、諦めてしまう。或いは、人間に頼り、目に見える状況に右往左往してしまう。問題の解決のために努力すること自体は悪いことではない。しかし、主なる神に依り頼まないことは問題である。危機に直面した時には必死になって主に祈りを献げよう。その時、私達は驚くべき主の御業を体験する。

(2) センナケリブに対する主なる神の宣告(21~29節)

 主なる神を「ののしり、侮った」(23節)センナケリブの高慢な姿とは対照的に、ヒゼキヤは危機の中で主なる神だけに頼る謙遜な姿勢を示した。彼は「主よ、耳を傾けて聞いてください。主よ、目を開いて御覧ください」(17節)と切に求めた。主なる神はイザヤを通してヒゼキヤの祈りに答えられた(21節)。
 センナケリブは自分が神の民を懲らしめるための道具であることを全く知らなかった。これまでの彼の勝利も、主なる神が「いにしえの日に心に描いたこと」を「実現させ」るためのものであった(26節)。何も知らないセンナケリブに対し、主なる神は遂に裁きを宣言された(29節)。
 主なる神だけに頼り、ひれ伏したヒゼキヤとユダの民は救いを得たが、高慢の極みに達し、主なる神を嘲ったセンナケリブアッシリアは滅ぼされた。高慢は滅びへと、謙遜は恵みへと私達を導く。

聖書の黙想と適用 マタイによる福音書28章1~10節

聖書の黙想と適用 マタイによる福音書28章1~10節(新共同訳 新約pp.59-60)

(1) 墓を見に来た女性達と空の墓(1~4節)

 イエス・キリストの復活の知らせを最初に聞いたのは女性達であった。「週の初めの日の明け方」、「マグダラのマリアともう一人のマリア」がイエス・キリストの墓にやって来た(1節)。彼女達は、安息日を守り、それが終わってから、用意しておいた香料を持って行って、イエス・キリストの埋葬を完了しようとした。
 ところが、彼女達が墓に来ると、全く予想外の出来事に直面した。墓の入口にあった大きな石は、入口の脇にあった。そして、そこに天使がいた(2節)。番兵達は、大きな地震が起こり(2節)、恐ろしさの余り、死人のようになった(4節)。
 番兵が墓を守っていたのは、弟子達がイエス・キリストの遺体を盗み出せようとするためであった(27章64節)。しかし、彼らはイエス・キリストの復活を防ぐことは出来なかった。人間には主なる神がなさろうとする御業を妨げることは出来ない。

(2) 復活されたイエス・キリストとの出会い(5~10節)

 主の天使は女性達に「あの方はここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ」(6節)と告げた。「復活なさった」と訳されているギリシア語(ἠγέρθη [ēgerthē])は神的受動態で、イエス・キリストが自ら「甦った」のではなく、天の父が「甦らせた」ことを表している。
 その上で、天使はイエス・キリストが復活されたことを確認させようと、女性達に「さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい」(6節)と言った。更に、弟子達の所に行って、「あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」(7節)と伝えるよう命じられた。
 復活はイエス・キリストが十字架につけられる前に弟子達に告げられた通りに起こったが、その最初の証人となる使命は女性達に与えられた。当時のユダヤ社会においては女性は法的証人になれなかった点を考慮すると、この事実は破格のものである。このことは、神の国ではユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もなく、皆がイエス・キリストにおいて一つであると使徒パウロが記していることとも一致している(ガラテヤの信徒への手紙3章28節)。
 天使の命令を受けて、女性達は、恐れながらも喜び、弟子達にこの喜びの知らせを伝えるために走って行った(8節)。その途中で彼女達は復活のイエス・キリストに実際に出会った。イエス・キリストが「おはよう」と言うと、彼女達は「イエスの足を抱」いた(9節)。このことは、復活のイエス・キリストが幻や錯覚ではなく、体を持っておられたということを示している。また、「おはよう」と訳されているギリシア語(Χαίρετε [Chairete])は、「楽しむ」「喜ぶ」「歓呼する」「歓迎する」という意味の動詞(χαίρω [chairó])の2人称複数形である。復活されたイエス・キリストは、弟子達のもとに向かう女性達に、自分は復活したのだから、「喜びなさい」と言われた。そして、天使が語ったことと同じことを女性達に命じた(10節)。