Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 民数記34章1~15節

聖書研究 民数記34章1~15節(新共同訳 旧約pp.274-275)

【概要】
 主なる神は、イスラエルの人々がカナンの地に入る時、南側はツィンの荒れ野、西側は大海、北側はホル山、東側はハツァル・エナンまでが彼らの嗣業の土地となるとモーセに言われた。そして、くじを引いて、これらを9部族と半部族に与えるよう命じられた。

【歴史的背景】

【釈義】
1~2節 カナンの土地の境界
 民数記の終盤では土地に関すること以外の主題は登場しない。彼らが占領するカナンの地の境界線が描写され(1~15節)、嗣業の土地を分け与える各部族の指導者の名前が記され(16~29節)、レビ人の町(35章1~8節)、逃れの町(35章9~34節)、相続人が女性である場合の規定(36章1~12節)が扱われている。その中で定められた内容を見ると、主なる神がイスラエルにカナンの地を征服させることによって、この律法に従う必要が生じる環境が生じることを期待させられる。そのため、この律法は、カナンの地がイスラエルのものになることを保証する役割をしている。
 34章では、主なる神がモーセイスラエルがカナンの地に入って占領する地の境界線について語っている。まず約束の地の南の境界線(3~5節)、続いて時計回りに西の境界線(6節)、北の境界線(7~9節)、そして東の境界線(10~12節)について語られる。

【黙想】
 カナンの地は贈り物であり、召命の場所でもある。主なる神はカナンをイスラエルに贈り物として与えることで、アブラハムに約束された契約を成就された。そして、部族ごとにくじを引いて、割り当て地を決めていく。くじを引く前に、主なる神はまずイスラエルが居住する地の境界を定められた。全ての地は主なる神の被造物であり、主なる神が主権者であられるが、全地をイスラエルの民に与えられたのではなかった。イスラエルが住むべき地は「境で囲まれたカナンの土地」(2節)である。カナンの地に神の国を建てることがイスラエルの召命であった。

【適用】
 カナンの地を征服する唯一の方法は、主なる神の言葉に服従することである。イスラエルはカナンの地で神の民として生きるという召命を受けた。主なる神が定められた境界線を守り、主なる神の言葉に従うことが命を保つことである。主なる神が与えて下さった贈り物に感謝し、与えられた使命をきちんと果たすなら、主なる神はイスラエルを豊かにされる。主なる神は既にイスラエル勝利のために備えておられる。私達も、ただイエス・キリストだけを信じ、自分の十字架を負ってイエス・キリストに従い、神の国のために戦わなければならない。

【祈り】
 主よ、あなたは罪の故に死ぬしかなかった私に、永遠の命と神の国の希望を与えて下さいました。この世のものにこだわり、あなたが定められた境界線を越えようとしてしまう私を憐れんで下さい。あなたが私に与えて下さったものを信仰と感謝によって味わい楽しむことが出来ますように。

聖書研究 民数記33章38~56節

聖書研究 民数記33章38~56節(新共同訳 旧約pp.273-274)

【概要】
 祭司アロンがホル山で死んだ。主なる神は、イスラエルの人々がカナンの土地に入る時、その土地の住民を全て追い払い、偶像を全て粉砕し、異教の祭壇を悉く破壊し、氏族ごとにくじを引いて、その地を嗣業の土地とするように言われた。そして、もしその土地の住民を追い払わなければ、彼らはイスラエルの民を悩ますようになると警告された。

【歴史的背景】

【釈義】
50~56節 カナン征服のための命令
 未征服の土地はまだ多く残っていたが、ガド族、ルベン族、マナセの半部族が嗣業の土地を割り当てられたことによって、土地に対する主なる神の約束は部分的に成就した。約束の地カナンが目の前にあることを示すために、33章ではイスラエルがエジプトを出発してから、「エリコに近いヨルダン川の対岸にあるモアブの平野」(48節)に到るまでの旅程が回顧されている。
 それに続いて、イスラエルの人々が「ヨルダン川を渡って、カナンの土地に入るとき」、どのようにカナン人に接し、どのように地を割り当てるのかについての命令が与えられ(51節)、もう一度土地の分配に関する原則が提示されている(54節)。人数の多い部族には嗣業の土地を多くし、人数の少ない部族には嗣業の土地を少なくすること、またくじを引いて土地を分けることは26章54~55節の命令を思い起こさせる。「くじ」(גּוֹרָל [goral])は、神の御心を尋ね求める道具で、小石などを投げることによって御心を探った。くじを土地の分配の手段にしたのは、主なる神が主権をもって導かれる最も公平な道具だったからである。
 民数記の最後の5つの章は、土地以外の契約には触れていない。民数記の最後に登場する土地に関する律法(33章50節~36章13節)は、主なる神が彼らにカナンを征服させ、この律法に服従出来る環境を与えられることを意味している。即ち、この律法は、カナンの地が彼らのものになるという約束の成就を保証している。
 主なる神は、土地に関する律法において、カナン人を追い出し、その地からカナン人の宗教を痕跡も残さないほどに根こそぎ引き抜くことをまずお命じになっている(52節)。この命令を成就することによって、イスラエルはカナンを所有し続けることが出来るのである。主の命令に従うなら、イスラエルはカナンで祝福を受ける。しかし、彼らが主の命令を守らないなら呪われる。単に残っているカナン人に敗北するだけでなく、主によって滅ぼされる。
 カナン人を完全に追い払えない場合に起こることが55~56節で説明される。これは呪いの警告であり、旧約に登場する他の契約条項にも登場する(出エジプト記23章33節、34章11~13節、申命記7章1~5節、28章15~68節、ヨシュア記23章12~13節)。もしイスラエルカナン人を追い払わず、また彼らの宗教と偶像を粉砕しない場合には、その地に残っているカナン人が「目に突き刺さるとげ、脇腹に刺さる茨」、即ち悩みとなる。棘と茨は小さいけれども鋭くて痛い。のみならず、目に炎症を起こし、視力を失わせることも出来る。それと同じように、カナン人を少しでも残しておけば、それがイスラエルの未来に大きな問題を起こすことになる。それ故、カナン人を残しておくことは、愚かさを越えて罪なのである。主なる神はご自身に対する民の不従順に対する代価を返される。主なる神は、イスラエルが聞き従わないなら、カナン人に与えられる筈だった刑罰、即ちその地から追放されるという刑罰をイスラエルに対して行うと告げられた(56節)。

【黙想】
 主なる神がイスラエルの民に与えたカナンの地には、カナン人が堅固な町を作って住んでいた。イスラエルの民がその地を占領するためには、町を征服しなければならず、先住民を一人も残らず追い出さなければならなかった。そして、彼らの仕えていた偶像も一つ残らず粉砕しなければならなかった。彼らを追い出さずに残しておくなら、その者がイスラエルの民の「目に突き刺さるとげ、脇腹に刺さる茨」(55節)となって、遂には彼らに征服されてしまうと主なる神は警告された。
 霊の戦いにおいては、どれほど小さな罪と悪の根も残しておいてはならない。敵と妥協して共存することは、彼らに征服される発端となる。その根は、小さくとも知らないうちに広く張り、遂には生い茂る茨と棘を作り出す。だから、自分を誘惑するようなものがあれば、それを取り除かなければならない。自分はそれに打ち勝てると思うこと自体が、根を残すことである。主なる神はイスラエルの民に、一人残らず、皆追い払うよう命じられた。しかし、イスラエルの民は根を残したため、それが育ち、彼らを突き刺す巨大な棘となった。苦しくともしっかりと根を取り除こう。ヨセフのように、ポティファルの妻の手に着物を残してでも逃げよう。それが信仰を守ることになる。

【適用】
 主なる神は、イスラエルの民がカナンの地を征服した時、カナンの土地の住民を一人残らず追い払うように言われた。しかし、イスラエルの民の考えは違っていた。彼らには主の命令は行き過ぎたもののように思われた。それよりも、先住民を奴隷とし、統制して用いた方が賢明であると彼らは考えた。その地の民族を働かせたら、イスラエルの民は、楽で、豊かな生活をすることが出来る。それは合理的で、経験的にも正しいことのように見えた。また自分達にはそれが出来ると彼らは考えた。しかし、実際には思った通りにいかなかった。
 この世の知恵が主なる神の言葉よりも合理的であると感じられる時がある。しかし、主なる神の言葉の正しさが明らかになるのに、それほど時間はかからない。主なる神の命令には皆理由がある。主なる神はご自分の民のことを考えて、命令を下されている。だから、主なる神の言葉に従うべきであり、他のことを優先させてはならない。どんなに小さく見えても、罪と悪が与える影響は、私達が考える以上に大きく深い。主なる神の言葉を軽んじ、罪と悪に妥協すると、それが大きな危険をもたらすことになる。

【祈り】
 始められた方は主なので、私の全ての救いの旅程を終わらせる方も主であると信じます。私の信仰の更なる成長のために、主の約束を掴むことが出来ますように。追い払い、断ち切り、滅ぼすべきものの前で、妥協することなく主の命令に従うことが出来ますように。

聖書研究 民数記33章1~37節

聖書研究 民数記33章1~37節(新共同訳 旧約pp.272-273)

【概要】
 主なる神の命令により、モーセイスラエルの人々の旅程を書き留めた。過越の翌日、ラメセスを出発してスコト、荒れ野の端にあるエタムなどに宿営した。その後、マラ、エリム、葦の海のほとり、シンの荒れ野を通り、レフィディム、シナイの荒れ野、キブロト・ハタアワ、ホル山などに宿営した。

【歴史的背景】

【釈義】

【黙想】

【適用】
 主なる神への信仰を保つためには、思い出すことも必要である。エジプト人の初子の死、葦の海を渡ったこと、荒れ野の旅、これら全てが主なる神の恵みと導きであることをイスラエルが覚えたように、主なる神の救いとあらゆる恵みを事ある毎に思い出すことは、私達にとって信仰の糧となる。救い、導いて下さった主なる神の恵みを思い出し、信仰によって荒れ野のような世を力強く歩んで行こう。


【祈り】
 イスラエルの旅程に私の信仰の旅程を照らしてみます。過越の小羊であられるイエス・キリストの死によって私に永遠の命を下さった恵みから、人生の荒れ野を共に歩んで下さった恵みまで、全てが主の恵みでした。その恵みを覚え、不平が入る隙が感謝で満たされますように。

聖書研究 民数記32章28~42節

聖書研究 民数記32章28~42節(新共同訳 旧約pp.270-271)

【概要】
 モーセは、エルアザルとヨシュアと諸部族の家長に、ガド族とルベン族が共にヨルダン川を渡り、主の御前に戦い、その地が征服されたなら、ギレアドを彼らの所有地として与えるよう命じた。ガド族とルベン族が命令通りにすると答えると、モーセは彼らにヨルダン川の東側の土地を与えた。

【歴史的背景】

【釈義】

【黙想】
 主なる神はイスラエルの民にカナンを与えると約束されたが、ルベン族、ガド族、マナセの半部族は、ヨルダン川の東側を嗣業の土地として願った。そこは肥沃な地であり、相対的に敵が少なかったからである。そのために、ルベン族、ガド族、マナセの半部族は、先頭に立ってカナンの先住民族と戦うことを約束した。後に彼らはその通りに勇敢に戦い、イスラエルはカナンを征服した。そして彼らは、約束通りヨルダン川東側の地を得た。
 彼らが得た土地の中には、神の民に相応しくない地名があった。その代表的なものが、39節に出てくる「ネボ」と「バアル・メオン」であった。その地名は、カナンの地の代表的な偶像であるネボとバアルに因んで付けられた。そこでそれらの町は、新しい地名に変えられることになった。或る町は、征服した人の名に因んで呼ばれることになった。「ハボト・ヤイル」と「ノバ」である(41~42節)。ヤイルとノバは村を占領し、その村の名に自分達の名前を含めた。それは町の主人が変わったことを世に告げることでもあった。新しい名は新しい時代が始まったことも示した。

【適用】

【祈り】

聖書研究 民数記32章16~27節

聖書研究 民数記32章16~27節(新共同訳 旧約pp.270-271)

【概要】
 ルベン族とガド族は、ヨルダン川の東側に町を作った後、イスラエルの人々がヨルダン川を渡って嗣業の土地を受け継ぐまで共に戦うこと、ヨルダン川の向こうでは土地を持たないことをモーセに申し出た。それに対し、モーセは、彼らに、主なる神に対して罪を犯すことのないよう警告した後、彼らが語った通りに実行するように告げた。

【歴史的背景】

【釈義】

【黙想】
 神の民は主なる神の御心を成し遂げる召命を受けた者である。自分の利益だけを追求することは、主なる神の救いを意味のないものにしてしまう。ルベン族とガド族の提案が受け入れられたのは、自分達の召命を忘れなかったからである。彼らは「僕どもはわが主の命じられたとおりにします」(25節)と約束した。危機を通して再び召命を思い出すことがある。現状に安住しようとしていた部族によって、イスラエルはカナンの戦いの意味を改めて知るようになった。

【適用】
 カナンの戦いは、単なる民族同士の戦いではない。罪を滅ぼす主なる神の聖なる戦いである。主なる神はイスラエルの民を通して彼らを追い払われる(21節)。カナンの戦いに参加しないことは、神の民であることを放棄するようなものである。この世の罪と戦い、神の国を建て上げていかなければならない。

【祈り】
 私の人生の計画と目標よりも、主なる神のご命令に従うことを最も高い価値とすることが出来ますよう、私の心を新しくして下さい。いつも偏り易い私を、主なる神の言葉や信仰の友、環境などを通して正して下さい。

聖書研究 民数記32章1~15節

聖書研究 民数記32章1~15節(新共同訳 旧約p.270)

【概要】
 ルベン族とガド族は、ヤゼルとギレアドの地方を求め、ヨルダン川を渡らせないで欲しいと願った。それに対し、モーセは、カデシュ・バルネアで彼らの先祖がイスラエルの人々の心を挫き、主の与えられた地に行かせまいとしたことを思い起こさせた。そして、主なる神に従わなければ、民全体が滅びると警告した。

【歴史的背景】

【釈義】

【黙想】
 ルベン族とガド族は、主なる神の約束が成就されることより、富による安逸を考えた。それに対し、モーセは「主が悪と見なされることを行った世代の者はことごとく死に絶えた」(13節)ことを思い出させた。主なる神への不従順は必然的に滅亡を招く。主なる神は「生ける水の源」(エレミヤ書2章13節)であり、その言葉には命がある。それ故、不従順は命から離れることであり、自滅への道である。

【適用】
 自分に委ねられたことを疎かにすると、そのことによって問題が生じるだけでなく、周囲の人達の心が傷つく。他の人の心に落胆が訪れ、それが共同体全体に広がっていく。主にある兄弟姉妹を愛し、自分に委ねられたことを信仰をもって果たしていこう。

【祈り】

聖書研究 民数記31章25~54節

聖書研究 民数記31章25~54節(新共同訳 旧約pp.268-270)

【概要】
 主なる神がモーセに言われた通り、戦利品の半分は兵士達に、残りの半分はそれ以外の民に分けられた。兵士達は取り分の500分の1を主なる神に献げ、民は50分の1をレビ人に与えた。また、部隊の指揮官であった千人隊長、百人隊長は、主なる神に金の献納物をささげた。それは臨在の幕屋に運ばれ、イスラエルの人々のための記念とされた。

【歴史的背景】
戦争と戦利品
 古代の戦争は非常に過酷であった。戦いの勝利者は、征服した町を焼く前に徹底的に略奪した。家畜、戦って倒れた兵士の所持品など、価値あるものは全て奪った。
 戦利品を得る喜びが、兵士達に命を懸けて戦わせる原動力であった。当時の兵士達には月給がなく、戦利品を報酬と考えたからである。聖書には、主なる神がバビロンの王ネブカドレツァルに「エジプトの土地を与える。彼はその富を運び去り、戦利品を分捕り、略奪をほしいままにする」と約束されたことが記されている(エゼキエル書29章19節)。

【釈義】
25~47節 戦利品の分配
 主なる神はモーセに「祭司エルアザルや共同体の家長たちと共に、捕虜として分捕った人間と家畜の数を調べ」(26節)るように命じられた。それに続いて、戦利品の分配方法について語られた。戦利品の半分は戦いに行った兵士達に、残りの半分はそれ以外のイスラエル人に分配された(27節、サムエル記上30章24~25節)。戦いに行った兵士達は部族ごとに千人ずつ、全部で1万2千人で(5節)、20歳以上の男子の総数の50分の1程度であった。従って、戦いに出た兵士は、残りのイスラエル人よりも遥かに多くの戦利品を分配された。
 兵士達は、分配された戦利品のうちの一定部分を主なる神にささげる献納物として祭司に渡し、イスラエルの他の人々も、分配された戦利品の一定部分をレビ人に与えた(28~31節)。祭司は兵士達の受ける分の500分の1を、レビ人は民の受ける分の50分の1を受け取った。祭司とレビ人が受ける戦利品の比率は1対10である。祭司とレビ人に分配された戦利品の比率は、主なる神がレビ人に命じられたこととも合致する(25~30節、18章26節)。18章は祭司とレビ人に与えられる分け前を定めている。レビ人は民がささげた10分の1の10分の1を献納物として主にささげた。そして、レビ人が主にささげた献納物は祭司に与えられた(18章28節)。ここでも同様に、主なる神は戦利品を祭司とレビ人に分け与えることを命じている。それは祭司とレビ人の生活を支えるものとなった。また、兵士達は、主なる神に特別な献げ物をすることで、戦いに出ることと血を流したことによる罪責を主の御前に贖った(50節)。
 イスラエルは膨大な量の戦利品を略奪した。彼らは羊67万6千匹、牛7万2千頭、ろば6万1千頭、男と寝ず、男を知らない女3万2千人を奪い取った(32~35節)。また、千人隊長と百人隊長が16750シェケルの金を主なる神にささげている(52節)。これほどの戦利品を、戦いに出た兵士達と民、そして祭司とレビ人が分かち合った。このように戦利品を分けることは、後にイスラエルが征服する地とその産物を分かち合うことを予表し、32~36章においても重要なポイントになっている。

【黙想】
 ミディアン人との戦いにおいて得た戦利品は膨大であった。この戦いでイスラエルは、羊67万6千匹、牛7万2千頭、ろば6万1千頭、また大量の貴重品を得た。それについて、主なる神は、半分を戦いに行った兵士達の、残りの半分を行かなかった人々のものとされた。戦いに行った者の数は一部族当たり千人なので、命を懸けて戦った者により多く配当されるのは公平であるように思われる。しかし、戦いを勝利に導かれたのは、他でもなく主なる神である。戦いは主なる神に属するものなので、兵士達は戦利品として得たものの中から500分の1を主なる神にささげなければならなかった。それを守ることを通して、更に主なる神に頼らせるという教育的な効果もあっただろう。

【適用】
 イスラエルに戦いを命じられた主なる神は、イスラエルの民に勝利を与えられた。勝利は戦利品をもたらした。主なる神は任務だけを与えるのではない。主のために労苦する者に戦利品をも与えられる。主なる神は私達に救いを無償で与えて下さるが、使命の遂行を通して私達にこの地での祝福も与えて下さる。
 一方、神の民には今も守るべきことがある。主日礼拝、十分の一献金、奉仕などである。主なる神がそれらを定められたのは、それらを通してより一層主なる神に頼り、信仰が成長させられ、聖書の言葉に従って正しい行いが出来るように導かれるためである。

【祈り】
〈私の勝利〉から〈主なる神の勝利〉へと視点が変わる時、戦利品を喜んで献げ、分け与えることが出来ると教えられました。主が私に与えて下さったものを、他の人々に喜んで分け与え、全ての人が豊かになる恵みを味わわせて下さい。

聖書研究 ローマの信徒への手紙15章1~13節

聖書研究 ローマの信徒への手紙15章1~13節(新共同訳 新約p.295)

【概要】
 強い者は強くない者の弱さを担い、イエス・キリストがなさったように、おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきである。イエス・キリストが私達を受け入れて下さったように、私達も互いに受け入れなければならない。パウロは、主なる神がローマの教会の兄弟姉妹を喜びと平和と希望で満たして下さるよう祈った。

【歴史的背景】
 主なる神の恵みによって救われた共同体、民同士であっても、問題がないわけではない。ローマの教会は様々な背景を持つ人々によって構成されていた。夫々が育ってきた環境、価値観、考え方が全く違うため、意見が合わないことは日常茶飯事であった。また、ローマの教会には「強い者」もいれば、「強くない者」もいた(1節)。その大きな要因となったのは食べ物のことだったようである。「信仰の弱い人」(14章1節)は、肉を食べずに野菜だけを食べ、ぶどう酒も飲まず、特定の日を他の日よりも特別であると考えた。それに対し、信仰の強い人は、何でも自由に食べ、全ての日を同じように考えた。そのことを伝え聞いたパウロは、彼らをその問題よりも大きな主なる神に目を向けさせた。食べる人は食べない人を軽蔑してはならず、食べない人は食べる人を裁いてはならない(14章3節)。神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びである(14章17節)。だから、イエス・キリストが私達を受け入れて下さったように、互いに受け入れ合わなければならない。互いに裁くことを止め、共に主なる神をほめたたえ、栄光を献げなければならない。

【釈義】
5~7節 あなたがたも互いに相手を受け入れなさい
 本節でパウロが告げていることは、12章からこれまでパウロが勧めてきたことを核心的に要約している。パウロは互いを受け入れ合うように命じている。重要なことは、一つの体である夫々のキリスト者が兄弟姉妹として、家族として互いを受け入れ合うことである。心を一つにすることが出来なければ、キリストの体として証しすることは出来ない。それ故、信仰の実践の中で最も優先されるべきことは、互いを受け入れ合い、一致することである。パウロはそのことを、「キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱」(5節)き、「心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえ」(6節)ることであると語っている。

【黙想】
 主なる神は「忍耐と慰めの源」(5節)であり、また「希望の源」(13節)である。だから、主なる神から目を離さずにいれば絶望することはない。落胆した者は聖書を読み、傷ついた者はイエス・キリストに出会わなければならない。ローマの教会に対するパウロの祈りは実に愛に満ちている。それは、主なる神が望まれるように、信仰者がイエス・キリストに倣い、心を合わせて互いを受け入れ、主なる神に栄光を献げるための祈りである。主なる神の愛に応えて、自分とは考えの異なる人も受け入れることの出来る信仰者となれるように祈り求めよう。

【適用】
 私達は皆主なる神の特別な目的によって造られ、特定の時代、特定の場所に遣わされている。だから、私達を遣わされた方の御心、創造された方の考えが最も重要である。主なる神を礼拝するとは、自己中心的な考えや態度を捨てることである。代わりに、主なる神の喜びと栄光のために生きることである。
 互いを受け入れ、顧みることは難しいことである。他の人を受け入れたら、自分自身がなくなってしまうのではないかと恐れるからである。人間には包容力や犠牲の心はない。しかし、心の中心に主なる神とその御心を迎えるならば、主なる神が栄光を受けられ、世が与えることの出来ない喜びと平和と希望が心に満ち溢れるだろう。

【祈り】
 信仰の弱い人のために個人の自由や権利を自制する成熟した共同体を建て上げ、全ての者が声を合わせて主なる神を高らかにほめたたえることが出来ますように。

聖書研究 民数記31章1~12節

聖書研究 民数記31章1~12節(新共同訳 旧約pp.267-268)

【概要】
 主なる神は、ミディアン人から受けた仕打ちに報復するよう、モーセに命じられた。モーセは、イスラエルの各部族から千人ずつ選び出し、総計1万2千人を戦いのために武装させた。この時、祭司エルアザルの子ピネハスに聖なる祭具と出陣に吹くラッパを持たせて送り出した。彼らは主がモーセに命じられた通り、ミディアン人に報復し、王達やベオルの子バラムなど、男子を皆殺しにした。

【歴史的背景】
戦争と戦利品
 古代の戦争は非常に過酷であった。戦いの勝利者は、征服した町を焼く前に徹底的に略奪した。家畜、戦って倒れた兵士の所持品など、価値あるものは全て奪った。
 戦利品を得る喜びが、兵士達に命を懸けて戦わせる原動力であった。当時の兵士達には月給がなく、戦利品を報酬と考えたからである。聖書には、主なる神がバビロンの王ネブカドレツァルに「エジプトの土地を与える。彼はその富を運び去り、戦利品を分捕り、略奪をほしいままにする」と約束されたことが記されている(エゼキエル書29章19節)。

【釈義】
1~3節 ミディアン人から受けた仕打ちに報復しなさい
 26~30章によって中断されていた25章の話が、31章から年代に沿って再開する。その後、最後の章まで族長達に約束された地に入るために備えるイスラエルが描かれている。
 31章の内容はこれまでにも扱われている。ミディアン人に対する報復(2~3節)は25章16~18節、死が近づいたモーセ(2節)は27章13節、戦いでのラッパの使用(6節)は10章2~10節、殺されたミディアン人の王ツルは25章15節、ベオルの子バラム(8節、16節)は22~24章、ペオルの事件(16章)は25章1~9節、死体に触れた後の清め(19~24節)は19章11~19節、祭司やレビ人に対する主なる神への献納物の分配(28~47節)は18章8~32節、主なる神への献げ物(48~54節)は7章と28~29章で扱われた。それだけでなく、3~5節と26節、32~47節に出てくる兵士の数と戦利品の調査は、1~4章と26章の人口調査を思い起こさせる。即ち、31章は、これまでの内容を要約し、結論付ける役割をしている。
 本章は、25章で完結されなかったミディアンとの戦いを描いている。25章でイスラエルは、モアブとミディアン人に誘惑されて、ペオルのバアルという偶像を拝み、またモアブとミディアン人の女に誘惑されて性的関係を持った(25章1~15節)。主は、陰謀によってイスラエルを偶像礼拝と不道徳な淫行に陥らせたミディアン人を撃つように命じられた(25章16~18節)。ミディアン人が犯した罪の深さは、「イスラエルの人々がミディアン人から受けた仕打ちに報復しなさい」という主の命令によく表れている(2節)。
 しかし、本文は戦いそのものよりも祭儀に注目している。聖なる戦いの観点から、本章は次のように区分出来る。第一にミディアンとの戦い(1~12章)、第二に敵を聖絶する戦い(13~18節)、第三に戦いから帰還した兵士の清めに関する定め(19~24節)、第四に戦利品の分配(25~47節)、第五に主なる神への指揮官の献げ物である(48~54節)。結果的に本章は、カナンの地での戦いの後に生じる諸事の見本を提供している。
 ミディアンとの戦いは、主なる神がモーセにミディアン人に報復するよう命じることによって始まる(1~2節)。主なる神は、ミディアン人がペオルでイスラエル人を誘惑した代価として、彼らの聖絶を命じられた。主なる神は、モーセが死を迎える前に、この戦いを必ず行うよう命じられた(2節、27章12~13節)。「ペオルの事件」は、ミディアン人の女が「バラムに唆され、イスラエルの人々を主に背かせて引き起こしたもの」であった(16節)。この戦いはイスラエルに対して夫のような主なる神が、イスラエルを誘惑したミディアン人を罰することによって「主のために報復する」戦いであった(3節)。即ち、人間的な感情や復讐のためではなく、主なる神の主導の下でミディアン人を裁き、「受けた仕打ちに報復する」〈聖なる戦い〉であった。

【黙想】
 主なる神がモーセに与えられた最後の任務は、イスラエルを罪に陥れたミディアンを撃つことであった。主なる神は、イスラエルの男子が、ミディアン人の女に誘惑されてバアルの祭儀に加わり、淫行をしたことに対して(25章1~9節)、報復するよう命令を下された。これは恨みを晴らすなどということではなく、悪に対する主なる神の裁きである。主なる神は既にミディアン人を撃って滅ぼすように命じられている(同17節)。その命令を実行するよう、モーセに求められたのである。ミディアン人の女との淫行、バウルの偶像への礼拝の結果として、イスラエルに2万4千人の犠牲者が出た(同9節)。その時、ピネハスの熱情がなかったら、更に多くの人々が死んでいただろう。主なる神は悪を決して放置されない。主なる神は、ミディアン人を滅ぼすことにし、ミディアン人の陰謀の中心に立っていたバラムという偽預言者も許さない。
 各部族から千人ずつ選び出された1万2千人のイスラエルの兵士達は、ミディアン人の男子を皆殺しにし(7節)、ミディアン人の5人の王と偽預言者バラムを滅ぼした(8節)。主なる神は、イスラエルの民がミディアンを滅ぼし尽くすことで、過去に犯した罪を確実に断ち、約束の地に罪を引きずることなく入れるようにされた。罪の過去を整理しないなら、その過去が足を引っ張るからである。

【適用】
 過去に縛られる必要はないが、罪を正しく省みず、うやむやにしてしまうのでは、未来に正しく向かえない。過去の罪を主なる神の言葉によって照らし出されて悔い改め、償うべきことは償うべきである。そうして罪から自分自身をきっぱりと切り離し、主なる神の言葉に従うなら勝利出来る。

【祈り】
 主よ、あなたの言葉に耳を傾けることで、私の中のミディアン人に立ち向かい、私の中のバラムを撃たせて下さい。あなたと敵対するような全ての罪を捨て、あなたの言葉と祈りという霊の武器によって勝利することが出来ますように。

聖書研究 民数記30章2~17節

聖書研究 民数記30章2~17節(新共同訳 旧約pp.266-267)

【概要】
 人は、主なる神に誓願をし、或いは物断ちを誓うなら、破ってはならない。女性の場合、父、或いは夫が、彼女の誓願を有効にも無効にもすることが出来た。父や夫が誓願を聞いて何も言わなければ、彼女の誓願は有効となる。もし夫が誓願を破棄してしまうなら、夫が妻の罪を負うことになる。

【歴史的背景】
旧約時代の女性の地位
①夫の財産: 旧約時代の女性は夫をバアル(主人の意味)やアドン(主の意味)と呼んだが、それは奴隷が主人を呼ぶ時や、家臣が王を呼ぶ時の呼称でもある。十戒には妻が財産と並べられている。
②財産と相続: 女性には私有財産がなく、夫の財産を相続する権利もなかった。しかし、夫が子孫を残さなかった場合には例外とされた。エジプトやバビロンでは女性が家長になることもあり、財産を所有し、契約を結ぶことも出来た。
③誓願: 女性の誓願は保護者、即ち父や夫の許可がある場合にのみ効力を持った。未婚者は父に、結婚後には夫に全面的に依存して生活したためである。
④宗教的義務: 律法は男性にも女性にも適用された。
⑤教育: 古代近東では女子に字を教えなかった。男子とは異なり、女子にはトーラーを学ぶ義務がなかったからである。
⑥結婚と離婚: 女性は夫に純潔を証明する義務があった。夫には妻と離婚出来る権利があった。純潔が疑われたり、家庭の義務を疎かにする女性は離婚された。離婚状は離婚された女性が再婚出来るようにした。
⑦母の位置: 女性が母になると、もう少し良い待遇を受けた。母は子供の名前を付けることが出来たが、これは身分が上がったことを意味した。子供を産むことによって夫との関係が密になり、子供達に尊敬された。

【釈義】
1~2節 誓願に関する一般的な原則
 30章は誓願に関する問題を扱っている。危機の中で人は「もし神が私を~から救って下さるなら、~することを約束します」といった誓願をしたりする。聖書には、ベテルにおけるヤコブの誓願(創世記28章20~22節)、カナン人を渡して下さるなら町々を聖絶するというイスラエルの誓願(21章2節)、戦いで勝利を与えて下さるなら、自分を最初に迎えに出てくる者を焼き尽くす献げ物としてささげるというエフタの誓願(士師記11章30~31節)、男の子を授けて下さるなら、主にささげるというハンナの誓願(サムエル記上1章11節)などの記事が見られる(ヨナ書1章16節、2章10節、使徒言行録18章18節、21章23節、23章12~21節)。しかし、その危機が過ぎると、その誓願を果たさないようになる危険と誘惑にしばしば陥ってしまう。それに対し、聖書は、誓願を果たすよう、「神に願をかけたら/誓いを果たすのを遅らせてはならない。愚か者は神に喜ばれない。願をかけたら、誓いを果たせ」(コヘレトの言葉5章3節、申命記23章22~24節)と厳しく警告している。
 本文では、まず誓願に関する一般的な原則を述べ(2~3節)、その後に女性の誓願に関する諸問題を扱っている(4~16節)。そして、その原則に沿って、女性が誓願を実行或いは取り消しても罰を受けない状況を4つ設定している。第一に結婚していない女性の誓願(4~6節)、第二に結婚することになった女性の誓願(7~9節)、第三に夫と死別したり離婚した女性の誓願(10節)、第四に結婚した女性の誓願である(11~16節)。そして最後に、この誓願についての掟が、「夫と妻の間、父と父の家にいる若い娘の間に関」するものであることを告げて終えている(17節)。
 3節の「人」は〈男〉を指す(אּיש [ish])。男性の誓願は守られなければならない(申命記23章22~24節、コヘレトの言葉5章3~5節)。本節では「誓願」(נֵ֫דֶר [neder])と「物断ちの誓い」(אּסָּר [issar])が区別されている。נֵ֫דֶר [neder]は誓願を指す一般的な用語で、ここでは生贄を献げるなど、肯定的に何かをすると誓うことを意味する。一方、אּסָּר [issar]は本章だけに見られる語で、自分自身に断食をさせるといったような節制の誓願である(サムエル記上14章24節、詩編132編2~5節)。本章を除いた殆どの場合、נֵ֫דֶר [neder]は肯定的な誓願と否定的な誓願の両方を指すのに使用されている。ナジル人の誓願にはנֵ֫דֶר [neder]が使われて(6章)、節制の誓約を指している。

【黙想】
 誓願は進んで主なる神にささげる献身であり、感謝である。進んで献げるものであっても、一度誓願したものは取り消すことが出来ない。誓願した人は「すべて、口にしたとおり、実行しなければならない」(2節)。これはむやみに口に出してはいけないことを意味する。誓願は主なる神に対してするものである。誓願は即興的なものではなく、深く考え、心の中から溢れ出る感謝から生まれなければならない。

【適用】
 誓願は、あらゆる場合に守られなくてはならないので、衝動的だったり軽率にしてはならない。男性も女性も、責任を持ってその誓願を守らなければならない。だが、社会的な秩序を無視していいということではないことも、主なる神の定めから分かる。主なる神の御心に従い、主なる神の御前に真実に行おう。

【祈り】
 家庭の中の秩序が崩れ、夫婦の一致が更に難しくなっている時代に、私達の家庭が神の国の秩序を示す手本となれますように。互いの考えや信仰を尊重し、主なる神の御前に約束したことを責任をもって守る誠実な家族となれますように。