Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 詩編78編12~22節

聖書研究 詩編78編12~22節(新共同訳 旧約pp.913-914)

聖書研究 詩編78編1~11節

聖書研究 詩編78編1~11節(新共同訳 旧約p.913)

聖書研究 詩編77編11~21節

聖書研究 詩編77編11~21節(新共同訳 旧約pp.912-913)

(1) 主なる神の御業を想起する(11~16節)

 アサフは苦難が続くことと主なる神が沈黙されることによる苦悩と不安を克服する方法を示している。その方法とは、過去に主なる神が救って下さった御業を思い浮かべることである。「主の御業を思い続け」、主なる神が「なさった奇跡を思い続け」(12節)、主なる神の「働きをひとつひとつ口ずさみながら」、主なる神の「御業を思いめぐら」すことは(13節)、望みを新たにし、心を強くする良い方法である。
 アサフは主なる神が「御腕をもって御自分の民を」「贖われ」たこと(16節)、「諸国の民の中に御力を示され」(15節)たことを思い起こし、「あなたのようにすぐれた神はあるでしょうか」(14節)と主なる神を讃美する。主なる神は人々が全く予想出来ない方法で、そして想像出来ない驚くべき御力をもって御自分の民をエジプトから救い出された。エジプトをはじめ、いかなる勢力も主なる神の力を制止することは出来なかった。寧ろ主なる神の大いなる御力が諸国の民の中にはっきりと証明された。
 主なる神の御業を思い起こすことは、暗澹たる現実から神の民を奮い起こす。

(2) 主なる神の驚くべき御力(17~21節)

 アサフは、奇蹟的な救いの出来事において示された主なる神の驚くべき御力に注目する。そして、主なる神が葦の海を分け、神の民イスラエルを救い出された出来事を史的表現と詩的表現を織り混ぜて描写した。
 主なる神が御力を発揮されると、地軸は震え、海の「深淵」から水が湧き上がった(17節)。空では雨雲から水が降り注ぎ(18節)、「車のとどろきのよう」な雷鳴と共に、稲妻が「世界を照らし出し」た(19節)。そして、遂には海が分かれて道を作り、神の民が安全に渡った後、再び合わさってエジプトの軍隊を葬ってしまった(20節)。
 このように、この世のいかなるものも主なる神の救いの御業を阻止することは出来ない。主なる神の救いに対する記憶は、苦難によって心身が疲れきっていた神の民を奮い起こし、主なる神を讃美することへと導く。

聖書研究 詩編77編1~10節

聖書研究 詩編77編1~10節(新共同訳 旧約pp.911-912)

(1) 苦難の襲う時(1~4節)

 苦難の時には私達の生活のリズムが崩れてしまう。現実への対処をめぐって頭が混乱し、他の人の慰めの言葉も心に届くことはない。心理的な緊張が高まって眠れなくなることもある。
 しかし、神の民は「苦難の襲うとき」に「主を求め」る(3節)。アサフは苦難の中で「神を思い続けて呻き」(4節)、「神に向かって」「助けを求めて」「声をあげ」(2節)、夜通し祈り続けた。
 苦難の程度が甚だしく、期間が長くなれば、霊も心も体も深い病に陥る。アサフの霊も「悩んでなえ果て」(4節)ていた。それにもかかわらず、神の民は主なる神に祈り続ける。救いを訴える時、主なる神は自分の祈りに「耳を傾けてくださ」(2節)るという確信を持っているからである。

(2) 主なる神の長い沈黙の前で(5~10節)

 アサフが苦しい夜を明かしていたのは(7節)、かつて主なる神から恵み、愛、慈しみ、約束(9節)、憐れみを与えられ(10節)、幸せな生活を送っていた日々と(6節)、現在の苦難の日々が余りにも対照的だったからである。
 今直面している苦難の故にアサフの「心は騒ぎ」(5節)、彼の「霊は悩んで」いた。しかし、それと共に、主なる神の恵みを味わっていた時がどれほど幸せであったかを痛感した。それ故、彼は主なる神に救いと回復を渇望した。
 にもかかわらず、主なる神の長い沈黙を前にして、アサフは「主はとこしえに突き放し/再び喜び迎えてはくださらないのか」(8節)と不安になった。そして、このまま全てが終わってしまうのではないかという不安を、そのまま主なる神の御前に注ぎ出した。このように心の中に不安と疑いが襲う時にも、率直に主なる神に訴えるのが真の祈りである。

聖書研究 詩編76編1~13節

聖書研究 詩編76編1~13節(新共同訳 旧約p.911)

(1) 御名の大いなることを示される主なる神(1~7節)

 神の民は、主なる神がどのような方であるか、よく知っている。主なる神はご自分の民が住む場所の中心に臨在され(3節)、彼らに安全と平和を下さる方である。敵が起こした全ての戦争において、主なる神は光のように輝かしく(5節)、何にも比較出来ないほど偉大なことを行われる方である。
 この方は、飛んでくる火の矢を砕き、敵の盾と剣の力を奪う(4節)。主なる神の御前では「勇敢な者も狂気のうちに眠り/戦士も手の力を振るいえなくなる」(6節)。戦車と馬は「深い眠りに陥」(7節)り、動くことが出来なくなる。
 このように主なる神が「叱咤されると」(7節)、敵は無力になってしまう。無敵不敗の神がシオンにおられるから、神の民は安全で平和に暮らせる。

(2) 恐るべき方である主なる神(8~13節)

「神の宮」が地理的にシオン(エルサレム)にあっても(3節)、主なる神の御座は高い天にある(9節)。それ故、主なる神は周辺の強大国の王や支配者と比較出来ない方である。それにもかかわらず、アサフは主なる神をこの世の王と比較することで主なる神の権威がどれほど威厳のあるものかを示している。
 主なる神が「怒りを発せられるとき」、誰もその御前にまともに立つことは出来ない(8節)。主なる神が「天から裁きを告知」されると、誰も異議を唱えることは出来ない(9節)。主なる神の宣告と執行は徹底しているからである。この世の王と支配者も主なる神の御前では羽を伸ばすことが出来ず、奴隷のように恐れるだけである(13節)。
 そのように権威を持った主なる神が神の民を救うために敵を裁かれる。そのことが神の民にとっては讃美と感謝の理由になる。

聖書研究 詩編75編1~11節

聖書研究 詩編75編1~11節(新共同訳 旧約pp.910-911)

[3~6節] 主なる神の言葉

 ヘブライ語原文を見ると、この箇所が主なる神の言葉であることは明らかにされていない。しかし、動詞が1人称単数に変わっているので、話者が前節と違うことは確かである。それと共に文脈から、主なる神の言葉であることが分かる。
 3節で主なる神は、定められた「時」(מוֹעֵד [moed]、70人訳ではκαιρός [kairos])に必ず「公平な裁きを行う(אֶשְׁפֹּֽט [’eš-pōṭ.])」と告げられる。ハバクク書2章3節を思わせる本節が、どれほど終末論的な意味を内包しているかを究明するのは困難であるが、主なる神の裁きが公正であることを伝えているのは明らかである。
 4節では、主なる神が創造主であられることが審判者であられることの根拠として語られている。「地はそこに住むすべてのものと共に溶け去」る(נְֽמֹגִ֗ים [nə-mō-ḡîm,])が、主なる神は「自ら地の柱を固める」。
 5~6節は次のような交差対句構造になっている。
  A: 「驕るな」(5節前半)
   B: 「逆らう者」と角(5節後半)
   B’: 「お前たちの角」(6節前半)
  A’: 「胸を張って断言するな」(6節後半)
 これによって、主なる神の公正な裁きの対象が74編で神殿を破壊した悪者達の行為であること、主なる神が自ら裁きをなさることが明示されている。

聖書研究 詩編74編12~23節

聖書研究 詩編74編12~23節(新共同訳 旧約pp.909-910)

(1) 救いの御業を果たされる王(12~17節)

 神の民が裁きの中にあっても主なる神に救いを訴えることが出来るのは、主なる神が救い主であり、王だからである(12節)。
 主なる神の御力は、イスラエルをエジプトから導き出し、紅海を渡らせ、荒れ野を通ってカナンに定着するように導かれた歴史にもはっきりと現れている。この時、主なる神は敵を打ち倒し、海と川を分け(13節、15節)、岩を裂いて水を豊かに流れるようにして下さった。
 しかし、主なる神の力はその程度ではない。主なる神は天と地の創造主であり、夜と昼(16節)、地の境、季節の変化を決定された主権者であられる(17節)。
 それ故、神の民はいかなる状況にあっても、たとえ主なる神の懲らしめの中にいるとしても、主なる神だけを救い主、そして王と認め、恵みを求めなければならない。それが最善の方法であり、最高の方法だからである。

(2) 主なる神の御名と契約(18~23節)

 神の民が裁きの中でも主なる神に救いを訴えることの出来るもう一つの理由は、主なる神の御名、そして契約の故である。
 主なる神はきよい御方であるため、その御名が崇められるのは当然のことである。また、主なる神は「虐げられた人」、「貧しい人、乏しい人」を憐れまれる方である(21節)。そして契約に誠実な方である(20節)。
 それ故、主なる神は、「神を知らぬ民」が「御名を侮」(18節)り、弱く貧しい者を辱め、契約の民に暴虐な振る舞いをするのをなすがままにし、ご自分の民を永遠に忘れ去る方ではない。
 アサフは、このような理由を挙げて、敵を裁いて契約の民を救って下さるようにと主なる神に切に訴えた。まるでそのように要請する権利があるかのように主なる神に叫んだ。私達の祈りもこのように真理の上に根拠を置くべきである。

聖書研究 詩編74編1~11節

聖書研究 詩編74編1~11節(新共同訳 旧約p.909)

(1) 主なる神の御怒りの結果(1~8節)

 反逆したイスラエルに対する主なる神の裁きを見て、アサフは悲しみ、主なる神に憐れみを請うた(1~2節)。
 アサフは、怒った主なる神がイスラエルを裁かれる光景を生々しく描写している。バビロンの軍隊が、主なる神が離れたエルサレムの神殿を蹂躙し、破壊する光景は衝撃的である。彼らは神殿と器具を悉く壊して燃やし、主なる神と関わりのある全ての物を完全に取り除こうとした(6~8節)。神の民というアイデンティティイスラエルから完全に奪ってしまうことで、彼らを完全に屈服させようとした。エルサレムにはバビロンの支配を象徴する異邦の神のしるしが立てられた(4節)。
 主なる神は反逆したイスラエルからご自分の臨在と祝福を取り上げ、彼らを敵に渡された。主なる神が打たれる前に自分の愚かさを悟り、主なる神に立ち返るのが真に知恵深い姿勢である。

(2) 神よ、いつまで続くのですか(9~11節)

 たとえ主なる神の裁きによって破滅したとしても、神の民は自暴自棄にはならない。神の民は裁きの中でも主なる神に訴えることが出来るからである。その根拠は以前に主なる神が彼らと永遠の契約を結ばれたことにある。
 神の民は主なる神が「養っておられた羊の群れ」(1節)であり、主なる神が「御自分の嗣業の部族として贖われた会衆」(2節)である。だから、彼らは、主なる神がイスラエルを永遠に捨てられることはない、またイスラエルと異邦人を同じようには扱われないと信じていた。
 その契約関係の故に、神の民は、回復の可能性と兆候が全くないと思われるような状況でも、落胆することなく、「神よ、刃向かう者はいつまで嘲るのでしょうか。敵は永久にあなたの御名を侮るのでしょうか」(10節)と主なる神に訴えることが出来た。そして、主なる神の「右の御手」による御業を待ち望むことが出来た(11節)。

聖書研究 詩編73編15~28節

聖書研究 詩編73編15~28節(新共同訳 旧約pp.908-909)

(1) 夢のように虚しい人生(15~21節)

 アサフは、悪者の繁栄と敬虔な者の苦難という不条理な現実のために疑いに陥り、罷り間違えば悪者の道に従って彼らの人生哲学を追い求めるところであった。
 しかし、「神の聖所を訪れ」た時、アサフは霊的な彷徨に終止符を打つ悟りを得た。それは悪者の「行く末」についての悟りであった(17節)。アサフは、悪者が生きている間に栄えるだけでなく、平安に死を迎えたとしても、結局は悲惨な終末を迎えることに気付いた。
 アサフの悟りは、この世の人生がどれほど素晴らしくても、それは一時の夢のようなものに過ぎず(20節)、主なる神が彼らを滅ぼし、永遠の破滅に投げ込まれるという真理に基づいている。いくらこの世で注目される人生であったとしても、主なる神によって滅ぼされる人生であるならば、それほど不幸な人生はない。

(2) 主なる神に近くある幸いな人生(22~28節)

 アサフは神の聖所でもう一つの真理を悟った。それは、苦難しかないように見えた主なる神に従う人生が、実は主なる神がいつも共におられる、真に幸いな人生であるということである。
 アサフは、主なる神がご自分に従う者の「右の手を取」(23節)り、その御手によって支え、「御計らいに従って」導き、そして最後には「栄光のうちに」連れて行かれるという真理を悟った(24節)。たとえ苦難に遭ったとしても、主なる神が「避けどころ」(28節)となって下さる。主に従う者に肉も心も「朽ちる」時が訪れても、主なる神が「とこしえに」その人の「心の岩」、「与えられた分」となって下さる(26節)。
 この真理を知った時、アサフは主なる神だけを慕い求め、「神に近くあること」が真の幸いであることを悟り、そしてその主なる神の「御業をことごとく語り伝えよう」という情熱にとらえられた(28節)。

聖書研究 詩編73編1~14節

聖書研究 詩編73編1~14節(新共同訳 旧約pp.907-908)

[3~12節] 主なる神に逆らう者の安泰

 3節からはアサフが何故信仰の危機に瀕したかが説明されている。「神に逆らう者の安泰を見て」、「驕る者をうらやんだ」とあることから、彼らとの直接的な関係によって訪れた危機ではないことが分かる。
「安泰」(שָׁלוֹם [shalom])は誰もが願うことである。しかし、アサフは自分と悪者を比べて、彼らが栄えていることに対して、相対的な喪失感を抱いている。
 4~5節ではアサフの目線で、驕り高ぶる者や悪者の栄える様子が描写されている。「死ぬまで彼らは苦しみを知らず/からだも肥えている。だれにもある労苦すら彼らにはない。だれもがかかる病も彼らには触れない」という言葉からは、アサフの深い喪失感が伝わってくる。
 6~9節ではアサフを苦しめる彼らの悪い行動や言葉が絵画的に描かれている。特に9節の「口を天に置き/舌は地を行く」は、彼らの悪が絶頂に達したことを窺わせる。
 ここでこれらの言葉が全てアサフの主観であることを見落としてはならない。悪者はアサフに何か害を加えたわけではない。にもかかわらず、彼らの姿を見るだけでアサフは苦しんだ。
 アサフを更に悲しませたことが10~12節に記されている。主なる神に逆らう者の周りには、その栄えに便乗しようとする人々が集まっていた。彼らは悪者の傍にいて、悪者から滴る水で潤されようとした。そして、彼らは「神が何を知っていようか。いと高き神にどのような知識があろうか」(11節)と一つになって主なる神を否定した。そのような場面は旧約聖書で何度も見られる(10編11節、イザヤ書29章15節、エゼキエル書8章12節)。12節では、相対的な喪失感に陥ったアサフが、悪者が「安穏で、財をなしていく」ことについて再び主なる神に訴えている。

[13~14節] 自分の苦しみに目を向けるアサフ

 アサフは主なる神に逆らう者の安泰と比較される自分の姿に目を向ける。
 1節でアサフは、主なる神は「心の清い人に対して、恵み深い(טֹ֭וב אַ֤ךְ [’aḵ ṭō-wḇ])」と告白した。アサフはこの信仰の原則に縋って、富や権力への欲望を抑え、心清く歩もうと努力してきたことだろう。
 ところが、アサフが敬虔な歩みを通して追い求めていた「安泰」を、主なる神に逆らう者が手に入れているのを目にした。それに対し、アサフは「わたしは心を清く保ち/手を洗って潔白を示したが、むなしかった(אַךְ־רִ֭יק [’aḵ- rîq])」(13節)と嘆いた。そして、アサフの相対的な喪失感は、「日ごと、わたしは病に打たれ/朝ごとに懲らしめを受ける」(14節)と絶えることのない苦しみだけに目を向けさせた。