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Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書20章27~40節

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書20章27~40節(新共同訳 新約p.150)

(1) 復活を否定するサドカイ派(27~36節)

 サドカイ派ユダヤ教の中で最も権力と富を有する勢力であった。また、合理主義的な考え方を持ち、「復活があることを否定」(27節)した。「次の世」(35節)や「天使」(36節)のような霊的存在も認めなかった。彼らは地上における生涯が全てであると考えていた。その彼らが復活を主題にしてイエス・キリストを試みた。
 サドカイ派の人々は、復活を信じることを嘲笑うために、一つのたとえを持ち出した。7人の兄弟が「子供を残さないで」(31節)順番に死んだ。律法では、子供を残さずに兄が死んだ場合、弟が兄の妻を娶って、兄のために子供をもうけなければならなかった(28節、申命記25章5節)。サドカイ派の人々は、7人の兄弟全員と結婚した女性は、復活の時、誰の妻となるのかとイエス・キリストに論争を仕掛けた(33節)。彼らはこのように問うことによって復活信仰の馬鹿馬鹿しさを示すことが出来ると考えた。
 イエス・キリストは、サドカイ派の人々に対し、彼らの問いの根本的な間違いを指摘された。彼らは「次の世」をこの世の延長として捉えていた。しかし、次の世では夫婦が一つとされる以上に、主なる神と一つとされる。それ故、「めとることも嫁ぐことも」(35節)なく、また「もはや死ぬこと」(36節)もない。サドカイ派の人々が馬鹿にした復活は、それほど大きな主なる神の祝福であり、栄光に満ちたことであった。イエス・キリストを主と信じ、「復活するのにふさわしいとされた人々」(35節)は、この「復活にあずかる」(36節)ことが出来る。

(2) 生きている者の神(37~40節)

 イエス・キリストモーセ五書をもって復活を証明された。主なる神は、モーセに現れ、ご自分のことを「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」(37節、出エジプト記3章6節、15節)であると名乗られた。主なる神は永遠であられるが故に、彼らも「死んだ者」ではなく、「生きている者」として主なる神に覚えられている(38節)。「すべての人は、神によって生きている」(38節)とイエス・キリストは言われた。サドカイ派モーセ五書を根拠に復活を否定していただけに、イエス・キリストの言葉に驚いたことだろう。イエス・キリストがこのことを語られた後、彼らはそれ以上何か尋ねることはなかった(40節)。
 主なる神は「生きている者の神」であられる。旧約の時代に主なる神に仕えた人々は、今主なる神の御前にいる。同様に、イエス・キリストを主と信じる者も、イエス・キリストによって主なる神の子供とされた。聖霊の臨在の中でイエス・キリストと死と復活を共にし(ローマの信徒への手紙6章8節)、今は「神に対して生きている」(11節)。イエス・キリストの命が自分の内にある時、私達は死に勝利することが出来る。

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書20章19~26節

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書20章19~26節(新共同訳 新約pp.149-150)

(1) 宗教指導者の陰謀(19~22節)

 律法学者や祭司長は、イエス・キリストに「手を下そうとした」けれども、「民衆を恐れ」てイエス・キリストを捕えることが出来なかった(19節)。そこでイエス・キリストの「言葉じりをとらえ」、異邦人の「総督の支配と権力」に引き渡して、処刑させるという陰謀を立てた。そして、そのために「正しい人を装う回し者を遣わし」(20節)た。
 回し者は、イエス・キリストを「先生」と呼び、「あなたがおっしゃることも、教えてくださることも正しく、また、えこひいきなしに、真理に基づいて神の道を教えておられる」とほめた(21節)。しかし、彼らの言葉は本心ではなかった。回し者は、信仰深いふりをしていたが、その実彼らの心の中は真理に対する無知と反感に満ちていた。そして、イエス・キリストを陥れるために警戒心を解こうとした。私達も、甘いお世辞に騙されないよう、いつも目を覚まし、主なる神からの知恵を慕い求めなければならない。

(2) 皇帝のものは皇帝に、神のものは神に(23~26節)

「皇帝に税金を納める」(22節)ことは、経済的、政治的な制度に留まらず、皇帝礼拝という宗教的な意味を持つ重大な問題であった。それを勧めることは、ユダヤ人の反感を買いかねなかった。かといって、納めてはならないと言えば、ローマ帝国への抵抗を扇動する者として逮捕される。回し者はイエス・キリストを罠にはめるために巧妙な質問をした。
 イエス・キリストは「彼らのたくらみを見抜」(23節)かれた上で、彼らの言葉をも用いて、世のあらゆる知恵を辱める主なる神の真理を示された。イエス・キリストは「デナリオン銀貨を見せなさい」と言われた。そこには当時のローマ皇帝の肖像と銘が刻まれていた(24節)。イエス・キリストは「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(25節)とお答えになった。このことによって税金を徴収する権限が皇帝にあることを認められた。その上で、私達の愛と信仰と忠誠を主なる神に献げるよう教えられた。イエス・キリストは「民衆の前でイエスの言葉じりをとらえる」という回し者の陰謀を無にし、黙らせた(26節)。
 イエス・キリストは、皇帝にも優る主なる神の権力を示すことにより、この世の権力の限界を定められた。私達はこの世に対する義務を果たす必要がある。国民としての責任を負い、国のために祈らなければならない。その一方で、主なる神に対する義務は他の何よりも優先される。国家の政策が主なる神に逆らうものであるならば、主なる神に従わなければならない。イエス・キリストを主とする信仰や人間の尊厳を害するような不当な国家権力に対しては屈服してはならない。イエス・キリストを主と信じる者は神の国の民だからである。主なる神に献げるべきものを献げ、同時にこの世に対する義務を疎かにしないことが神の国の民には求められている。

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書20章9~18節

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書20章9~18節(新共同訳 新約p.149)

(1) 主人が遣わした僕や息子を拒む農夫(9~15節)

 このたとえにおいて、「ある人」は主なる神、「ぶどう園」は神の国、そこで働く「農夫たち」は、主なる神に敵対するイスラエルである(9節)。その中でも、宗教的な行為によって主なる神を欺こうとした宗教指導者(「律法学者たちや祭司長たち」)の罪は重かった(19節)。イエス・キリストは、このたとえ話を通してご自分の死を予告すると共に、イエス・キリストの殺害を企み、その口実を探していた宗教指導者の欺瞞を指摘された。
 ぶどう園の主人は、収穫を納めさせるために、僕を遣わした(10節)。しかし、農夫達は僕を袋叩きにして追い返した(10~12節)。そこで主人は自分の「愛する息子」(13節)を遣わした。しかし、彼らはその息子を殺し(15節)、ぶどう園を自分のものにしようとした(14節)。主なる神は、敵対するイスラエルに対し、預言者を何度も送り、機会を与え、長い間忍耐された。そして、遂にはご自身の御子イエス・キリストまでも遣わされた。にもかかわらず、彼らは主なる神に背き続けた。そして、主なる神のものであるぶどう園、即ち神の国を自分のものにしようとした。

(2) 神の国の礎となられたイエス・キリスト(16~18節)

 イエス・キリストのたとえを聞いた後、民衆は「そんなことがあってはなりません」(16節)と反論した。「この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与える」(16節)という主人の処置が、とても過酷に聞こえたからだろう。彼らはそのようなことが自分達に起こらないよう願った。しかし、イエス・キリストは、このたとえを通して、主なる神に反逆し、ご自身を拒む人々に警告された。
 ここでイエス・キリストは「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」(17節)という詩編118編22節の言葉を引用されている。人々はイエス・キリストを十字架で殺した。しかし、イエス・キリストは、復活し、昇天し、神の国の礎となられた。その一方で、イエス・キリストに敵対した者には、主なる神の裁きと怒りが臨む(18節)。主なる神は、私達にイエス・キリストを主として受け入れ、従い、仕えるよう絶えず語りかけておられる。罪人である私達を長い間忍耐して下さった主なる神の憐れみに縋りつつ、主に従う道を歩んでいこう。

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書20章1~8節

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書20章1~8節(新共同訳 新約p.148)

(1) イエス・キリストの権威に挑戦する宗教指導者(1~2節)

 イエス・キリストが神殿の境内で福音を告げ知らせておられると、ユダヤの最高法院の一員である「祭司長や律法学者たち」や「長老たち」が近づいて来て(1節)、「我々に言いなさい。何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか」(2節)と尋ねた。
 エルサレムにいたユダヤ教の指導者は、イエス・キリストが「商売をしていた人々」を神殿から追い出されるのを見て、自分達の権威と既得権益に挑戦する存在と考えた。彼らは「祈りの家」(19章46節)である神殿を私物化し、神殿の事柄に関しては自分達が権威を独占していると信じ、自分達の許可なしには誰も神殿で勝手なことは出来ないと考えていた。
 イエス・キリストは、主なる神の臨在の場である神殿で、福音を宣べ伝えられることによって主なる神を示された。イエス・キリストはそれを天の父から来た権威、主なる神の御子としての権威にもって行われた。しかし、彼らはそのことを認めず、イエス・キリストの御言葉と権威に挑んだ。

(2) 天から権威を与えられたイエス・キリスト(3~8節)

 祭司長や律法学者、長老の問いに対し、イエス・キリストバプテスマのヨハネについて逆に問い返された(3節)。その問いは「ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか」(4節)という内容であった。このように訊くことによって、イエス・キリストは彼らの悪と不従順を指摘されたのである。
 バプテスマのヨハネの権威は「天からのもの」であった。それ故、そのヨハネが「わたしよりも優れた方」(3章16節)と呼んだイエス・キリストの権威も天から来ていることは明白であった。しかし、彼らはヨハネの権威が「天からのもの」であるとは認めていなかった(5節)。そのことは彼らがヨハネを排斥したことによく表れている(7章30節、33節)。その一方で、彼らは民衆の怒りを買うことを恐れた(6節)。
 宗教指導者は、どちらの返答をしたとしても自分達に不利になることに気付き、「どこからか、分からない」(7節)と曖昧な返答をした。そこでイエス・キリストも彼らに「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい」(8節)と言われた。それでも彼らはイエス・キリストを信じようとはしなかった。私達は、イエス・キリストの福音を聴く時、それを主なる神の権威ある御言葉として認め、それに従うことを求められている。

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書19章41~48節

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書19章41~48節(新共同訳 新約p.148)

(1) エルサレムのために涙を流すイエス・キリスト(41~44節)

 イエス・キリストは、エルサレムを御覧になり、「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……」(42節)と言われ、イスラエルの愚かさに涙を流された(41節)。「神の訪れてくださる時」(44節)とは、イエス・キリストが王として、メシアとしてエルサレムに入城する時である。平和の王であられるイエス・キリストを受け入れることこそ「平和への道」であり、そのような者に主なる神は平和をもたらして下さる。
 にもかかわらず、エルサレムイエス・キリストを拒んだ。その結果は裁きであった。敵がエルサレムを包囲し(43節)、その住民は子供に到るまで虐殺される。そして、都は一つの石も残されることなく、完全に破壊される(44節)。これらはA.D. 70年にローマ帝国の将軍ティトゥス(後に皇帝となる)によって現実となった。エルサレムイエス・キリストを迎えなかったために裁きの日を迎えた。

(2) 神殿をきよめるイエス・キリスト(45~48節)

 イエス・キリストは、エルサレムに着くと、すぐに神殿に行かれ、そこで商売をしていた人々を追い出された(45節)。エルサレムの悲劇は人々の生活の中心である神殿が腐敗したことから始まった。神殿の指導者は主なる神を自分達が利益を得る道具とした。彼らの暗黙の了解によって神殿の境内には商売人が横行していた。
 イエス・キリストは「わたしの家は、祈りの家でなければならない」(46節)と語られた。神殿は「強盗の巣」(46節)ではなく、人間が主なる神に出会う「祈りの家」である(イザヤ書56章7節)。かつて預言者エレミヤは、人々が神殿に出入りしながら、悪事を行っていることを指摘し、「強盗の巣窟」という表現を用いた(エレミヤ書7章11節)。教会もまた、主なる神の御言葉が宣言され、イエス・キリストがおられ、聖霊が人々に働かれる場である。それ故、主なる神の御心が何よりも尊ばれなければならない。主なる神の御心を優先しないことは、主なる神の御名を盗むことに他ならない。

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書19章28~40節

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書19章28~40節(新共同訳 新約pp.147-148)

(1) 子ろばに乗られた柔和な王(28~35節)

 イエス・キリストはご自身の使命を完成されるために揺れ動くことなく進まれた。イエス・キリストは2人の弟子を使いに出し(29節)、「だれも乗ったことのない子ろば」(30節)を引いて来るように言われた。そして、イエス・キリストの指示通り(31節)、「主がお入り用なのです」(34節)、容易に子ろばを連れて来ることが出来た(35節)。イエス・キリストはその子ろばに乗ってエルサレムに入られた(36節)。
「ムナ」のたとえを通して、イエス・キリストはご自分のことを「王」であると宣言された(12節)。子ろばは王が乗るものとして相応しくないように一見思われる。しかし、イエス・キリストが子ろばに乗ってエルサレムに入城されたことは、「見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者。高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばにのって」というゼカリヤの預言の成就であった(ゼカリヤ書9章9節)。イエス・キリストは、ゼカリヤの預言通り、救いをもたらす柔和な王としてエルサレムに入られた。
 イエス・キリストに従おうとする者は、イエス・キリストの謙遜と平和を学ばなければならない。私達は自己顕示を好む。教会は歴史上、宣教や教会の利得のために金や権力などを恣意的に行使し、どれほど多くの罪を犯してきただろうか。そして、現在もその罪を断ち切れずにいる。イエス・キリストは、ご自分が王であることを、人々に権威と栄光を誇示することによってではなく、愛と義の統治を表す謙遜さをもって示された。個々のキリスト者も教会も団体も、子ろばに乗られたイエス・キリストに倣い、謙って自分を低くし、イエス・キリストから与えられた使命を果たさなければならない。

(2) 王なるイエス・キリストに対する讃美(36~40節)

 イエス・キリストが子ろばに乗ってエルサレムに入られた時、弟子達は子ろばの上に「自分の服をかけ」(35節)た。人々も「自分の服を道に敷」(36節)いて、イエス・キリストを歓迎した。これは王を迎える行為である(列王記下9章13節)。そして、弟子達は「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光」(38節)と声高らかに主なる神を讃美した。弟子達は「自分の見たあらゆる奇跡」(37節)の故にこれからエルサレムで大いなることが行われるのを期待していた。
 弟子達の歓声はイエス・キリストの使命に対する無知から出たものであった。イエス・キリストは、確かに旧約の預言に従って王として、メシアとしてエルサレムに入られた。しかし、エルサレムでご自分を待つのは苦難であることを知っておられた。それでも、彼らの叫びはこの後に控える十字架の受難が敗北ではなく勝利の道であることを暗示している。イエス・キリストは、十字架にかかって死なれることによって真の平和を成し遂げられる栄光の王である。苦難の中にある時、心が悲しく苦しい時、力の限界を感じる時、勝利の王であられるイエス・キリストを仰ぎ見るならば、イエス・キリストは私達を勝利の道へと導いて下さる。
 ファリサイ派の人々は、弟子達が叫ぶ様子を見て、イエス・キリストに「先生、お弟子たちを叱ってください」(39節)と求めた。しかし、イエス・キリストは「もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす」(40節)とお答えになった。イエス・キリストに向けられた喜びの叫びと讃美を妨げることが出来る者は誰もいない。

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書19章11~27節

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書19章11~27節(新共同訳 新約pp.146-147)

(1) 良い僕(11~19節)

 イエス・キリストは、「ムナ」のたとえにおいて、ご自分を「王の位を受けて帰るために出発し、遠い国へ旅立」った「立派な家柄の人」に喩えられた(12節)。また、「十人の僕」(13節)は、イエス・キリストから使命を与えられた弟子達、この人を憎み、「我々はこの人を王にいただきたくない」と反対する「国民」は(14節)、イエス・キリストを拒む人々と理解することが出来る。
 このたとえは「タラントン」のたとえと類似している(マタイによる福音書25章14~30節)。しかし、「タラントン」のたとえでは、「一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントン」と「それぞれの力に応じて」主人の財産が預けられているのに対し、ここでは10人の僕に預けられたのは皆同じ1ムナである。1ムナは、「タラントン」(6000日分の賃金に相当)ほどではないものの、当時の労働者が100日働いて稼ぐ大金であった。私達にはつまらなく思われても、イエス・キリストは全ての人に大きなものを任せられている。
 とはいえ、同じことを任されても、皆が同じ結果を出すわけではない。最初の僕はその1ムナをもって10ムナを(16節)、二番目の僕は1ムナをもって5ムナを儲けた(18節)。しかし、「王の位を受けて帰って来」た主人は、「良い僕だ。よくやった」と彼らをほめ、「お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう」(17節)、「お前は五つの町を治めよ」(19節)と言った。
 主人が戻って来るまでの期間は、主人への「忠実」が問われた期間であった。同様に、イエス・キリストが十字架で死なれ、復活し、天に上げられてから再び来られるまでの期間は、私達が「僕」として与えられた使命を果たす期間である。その間、イエス・キリストは私達が「ごく小さな事」にも「忠実」であることを願われる。私達が与えられた時間、才能、富、環境、人間関係を神の国のために最大限活用し、その実をもって主に栄光を帰する時、最後の審判においてイエス・キリストからお褒めの言葉と賞をいただくことが出来る。このことはイエス・キリストに従う者にとって大きな励ましであり、慰めである。

(2) 悪い僕(20~27節)

 一人の僕は主人から預かった1ムナを布に包んでそのまま保管した(20節)。しかし、それは主人の意図ではなかった。主人は「悪い僕だ」(22節)と彼を叱責し、その1ムナも取り上げてしまった(24節)。また、主人は、彼が「王になるのを望まなかった」国民を「あの敵ども」と呼び、裁きを宣言した(27節)。
 彼が悪い僕と評価されたのは、自分に預けられた1ムナを全く活用しなかったからである。この僕は主人に「あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです」(21節)と弁明している。しかし、この主人が僕のもたらした利益以上の報いを与える恵み深い方であるということを知らなかった。また、主人が見ていたのは僕が最善を尽くす姿勢であった。彼は主人を完全に誤解していた。
 イエス・キリストが王であられることを信じ、喜んで忠実を尽くす者は、更に祝福を受ける。しかし、そうでない者は今持っているものまでも取り上げられる(26節)。また、イエス・キリストを拒む者には将来裁きが臨む。僕である私達は、イエス・キリストがいつ戻って来られるかではなく、自分が任された務めに忠実であるかに関心を持つべきである。イエス・キリストは私達がもたらす利益を欲しがる方ではない。地上の生涯において結果を見ることが出来る場合もあるが、私達の努力が何の実も結んでいないように見えることもある。しかし、イエス・キリストのご栄光のためにしたことは空しく消えることはない。