Five Solas

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書黙想 詩編113編5~9節

聖書黙想 詩編113編5~9節(新共同訳 旧約p.954)
「顧みて下さる神」

「わたしたちの神、主に並ぶものがあろうか」。神はこの世の主人であり、王として天の高い「御座」におられる。しかし、そこから「低く下って天と地を御覧にな」っている。そして、「弱い者を塵の中から起こし」、「子のない女」には「子を持つ母の喜びを与えてくださる」。この詩はマリアの賛歌(ルカによる福音書1章46~55節)を思い起こさせる。神が下さった最高の贈り物は、天の「御座」から自ら身を低くして、卑しい私達の所に来られた神の子イエス・キリストである。神は、独り子イエス・キリストの死と復活を通して、私達に永遠の命を与えて下さった。私達を顧みて下さる神をほめたたえよう。

聖書黙想 詩編113編1~4節

聖書黙想 詩編113編1~4節(新共同訳 旧約p.954)
「主の御名を賛美せよ」

 この詩編は始まりと終わりが「ハレルヤ」(神をほめたたえよ)である。一人でも神を賛美することは出来るが、詩人は神に仕える他の人々(「主の僕ら」)を賛美に招いている。聖徒は「主の御名」をほめたたえなければならない。「主の御名」には、神がどのような方か、どのようなことをされたか、どのようなことを行われるか、全て含まれている。では、「主の御名」をいつ、どこで賛美すればよいのだろうか。時間と場所にかかわらず、いつも「主の御名を賛美」しなければならない。「主の御名」と「主の栄光」は「すべての国を超えて」、更には「天を超えて」高いからである。「主の御名」がいつも「日の昇るところから日の沈むところまで」崇められるように、心を尽くして神を賛美しよう。

祈り 創世記40章1~23節

祈り 創世記40章1~23節(新共同訳 旧約pp.69-70)

 夢を与え、解き明かし、成し遂げられる、夢の主人であられる神をほめたたえます。どうしてこんなことが起こるのかと苦しむ人に、人生の解き明かしをして下さる神を紹介出来ますように。

聖書黙想 創世記40章9~23節

聖書黙想 創世記40章9~23節(新共同訳 旧約pp.69-70)
「忘れられたヨセフ」

 ヨセフは、「給仕役の長」の夢の話を聞き、その夢は彼が「三日たてば」「元の職務に復帰」出来るという意味であると「解き明かし」た。ヨセフは、給仕役の長が再び「ファラオに杯をささげる役目をするようにな」ると確信し、その時には自分が監獄から「出られるように取り計らって」欲しいと頼み、これまで受けてきた不当な扱いと無念な思いを打ち明けた。一方、「料理役の長」の夢は、彼が三日のうちに絞首刑に処されるという意味であると、ヨセフは解き明かした。三日後、「ファラオの誕生日」の「祝宴」に二人は呼び出された。そして、「ヨセフが解き明かしたとおり」、給仕役の長は復職し、料理役の長は処刑された。しかし、ヨセフは監獄から出られなかった。「給仕役の長」が「ヨセフのことを思い出さず、忘れてしまった」からである。希望が消え、全ての人が私達のことを忘れても、神は決して私達をお忘れにならない。

聖書黙想 創世記40章1~8節

聖書黙想 創世記40章1~8節(新共同訳 旧約p.69)
「夢を解き明かす者」

 人間の未来は神の御手にかかっている。エジプト王国の未来も、ファラオではなく神の御手の内にある。「これらのことの後で」という言葉は、ヨセフが監獄で相当の歳月を過ごしたことを意味している。或る日、「ヨセフがつながれている監獄」に「二人の宮廷の役人」が共に入れられた。彼らは「給仕役の長と料理役の長」で、絶大な権力を行使していた王の側近であった。二人の世話をしていたヨセフは、彼らが「同じ夜にそれぞれ夢を見た」ために「ふさぎ込んでいた」ことを知り、どのような夢を見たのか二人に尋ねた。未来を理解する手段となる夢の「解き明かし」は、人間の能力外のことである。ただ神だけが未来をご存知で、夢を解き明かすことが出来る。神はご自分の御心を告げる役割をヨセフに任せられた。

祈り 詩編111編1~10節

祈り 詩編111編1~10節(新共同訳 旧約p.953)

 今日も私の必要を満たして下さる神に感謝を献げます。目に見えるものによって揺るがされず、目に見えない神の約束を固く握る者となれますように。

聖書黙想 詩編111編7~10節

聖書黙想 詩編111編7~10節(新共同訳 旧約p.953)
「贖われる神」

 神の大きな恵みを賛美するには、私達の一生でも足りない。神の御業には尊厳と威光があり、「御手の業はまことの裁き」であり、「主の命令はすべて真実」である。恵み深く義なる神は、「御自分の民」に肉の必要を満たす食べ物を与えて下さるばかりか、霊の必要に従って「贖いを送」って下さる。「贖いを送」るとは、罪の奴隷だった民に自由を与えるために代価を払って民を買い取ったという意味である。この「贖い」のために神が支払った代価は、神の独り子イエス・キリストの血潮である。神は私達を贖い、「契約をとこしえのものと定められ」、神の民とされた。このことを深く悟って「主を畏れる」人は、人生の最も大切な「知恵」を手に入れた人である。だから、聖徒は「主を畏れ」て仕えることがどれほど幸いなことか、悟らなければならない。