Five Solas Ministry

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書黙想 マルコによる福音書7章20~23節

聖書黙想 マルコによる福音書7章20~23節(新共同訳 新約p.75)
「心から出て来る悪い思い」

 イエスは心の清さを強調し、「人から出て来るものこそ、人を汚す」と二度も繰り返して言われた(20、23節)。イエスは心から出る12の「悪い思い」について述べられた。その内の多くがパウロの手紙にも出てくる(コリントの信徒への手紙一5章10~11節、ガラテヤの信徒への手紙5章19~21節など)。ここで言及された悪いものは、十戒とも緊密に繋がっている。「殺意」(第六戒)、「みだらな行い」と「姦淫」(第七戒)、「盗み」(第八戒)、「詐欺」と「悪口」(第九戒)、「貪欲」(第十戒)である。マタイによる福音書の中でも、イエスは、十戒の真の精神は心のあり方にあるということを教えられている。即ち、兄弟に腹を立て、悪口を言うことも殺人であり、情欲を抱いて女を見ることも姦淫であるというのである(マタイによる福音書5章21~32節)。世と区別されたクリスチャンの生き方は、心の清さから始まる。

聖書黙想 マルコによる福音書7章14~19節

聖書黙想 マルコによる福音書7章14~19節(新共同訳 新約pp.74-75)
「全ての食べ物は清い」

 人を汚すものは、心から出る悪い考えである。これについてイエスが喩えをもって語られたが、宗教指導者も弟子達も理解出来なかった。イエスは、弟子達に、「外から人の体に入る」食べ物は、心には入らず、「腹の中に入」って排泄されると説明した。洗わない手で食べたとしても、食べ物は人を汚さない。人を清めるか、汚すかは、〈食べ物〉ではなく〈心〉にかかっている。イエスの言葉は、食べ物の清めの定めを廃止するもので、当時革命的な宣言であった。今、クリスチャンは食べ物を通して清い生き方を追求する必要はない。神の国は飲み食いによるのではないからである(ローマの信徒への手紙14章17節)。

聖書黙想 マルコによる福音書7章9~13節

聖書黙想 マルコによる福音書7章9~13節(新共同訳 新約p.74)
コルバンに現れた偽善」

 信仰的理由を装って、悪を図ってはならない。イエスは、神の戒めに背く例として「コルバン」を挙げた。コルバンは、「神への供え物」、或いは〈供えるという誓い〉を意味した。宗教指導者は、コルバン(神に献げた物)について、たとえ親のために用いたいとしても取り消すことは出来ないという決まりを作った。しかし、このコルバンは、神に献げたという名目で年老いた親の扶養に対する責任を回避するために悪用されることがあった。これは、人間の「言い伝え」によって「あなたの父母を敬え」という「神の言葉」を軽んじ、捨て去ることである(出エジプト記20章12節、テモテへの手紙一5章8節)。「神の掟をないがしろに」することは全て、神の目には悪である。神の戒めは、全ての決まり事の基礎であり、目的である。

聖書黙想 マルコによる福音書7章1~8節

聖書黙想 マルコによる福音書7章1~8節(新共同訳 新約p.74)
「人間の言い伝えと神の掟」

 信仰上のしきたりは、神の御言葉を守るのを助ける手段であるべきである。「ファリサイ派の人々と律法学者たち」は、人が作った言い伝えに固執し、弟子達が手を洗わないで食事をしたことを非難した。弟子達の弱点を突いてイエスを責めたのである。それに対し、イエスは、イザヤ書29章13節の預言を引用して、彼らを「偽善者」だと指摘した。彼らは、「昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗っ」たが、心のきよさのためには努力しなかった。神は、上辺ではなく、心の動機を見られる。見せかけのきよさではなく、心のきよさこそが大切である。人として守るべきことが、神の目に「むなしく」ならないために、人が作ったしきたりを神の戒めよりも優先してはいけない。

聖書黙想 マルコによる福音書6章53~56節

聖書黙想 マルコによる福音書6章53~56節(新共同訳 新約pp.73-74)
「ゲネサレトでの癒しの御業」

 完全な癒しと救いの力は、主だけにある。イエスと弟子達が「湖を渡り、ゲネサレトという土地に着」くと、イエスだと気付いた多くの人々が「病人を床に乗せて」連れて来た。そして、彼らは信仰によってイエスの「服のすそ」に「触れ」ただけで「皆いやされた」。イエスは、聖霊によって油を注がれ、行く先々で人々に癒しの奇蹟を行われた(ルカによる福音書4章18~19節、使徒言行録10章38節)。イエスに出会うことは最高の祝福である。イエスは私達の霊の救い主であるだけでなく、肉体の苦しみを知って癒して下さる愛の主である。

聖書黙想 マルコによる福音書6章45~52節

聖書黙想 マルコによる福音書6章45~52節(新共同訳 新約p.73)
「水の上を歩かれたイエス

 奇蹟そのものよりも大切なのは、奇蹟の意味である。5つのパンと2匹の魚の奇蹟の後、イエスが「弟子たちを強いて」、「向こう岸のベトサイダへ先に行かせ」たのは、人々がイエスを政治的なメシアと誤解することを案じたからである。イエスご自身も「群衆と別れ」、一人「祈るために山へ行かれた」。歓呼の声をあげる群衆が大勢いる場所ではなく、御父と交われる場所をイエスは選ばれた。弟子達を乗せた舟が湖の真中で立ち往生していると、イエスは「湖の上を歩いて弟子たちのところに行」かれた。「幽霊だと思い、大声で叫んだ」弟子達に、イエスは「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と、ご自分のことを明かされた。「わたしだ」に該当するギリシア語「エゴ・エイミ」は、神がモーセにご自身の名を明かされた表現と同じで、イエスが主なる神と同等の方であることを示している。水の上を歩かれたイエスは全能の神であり、政治的な目的ではなく、神の国のために奇蹟を行われる。

聖書黙想 マルコによる福音書6章35~44節

聖書黙想 マルコによる福音書6章35~44節(新共同訳 新約p.73)
「5つのパンと2匹の魚の奇蹟」

 イエスは神の御子であり、無から有を生み出す創造主であり、全能者である。イエスと弟子達が休もうとした場所に、男だけでも5千人を超える群衆が集まった。日が暮れてきた時、彼らには「五つのパンと二匹の魚」しかなかった。しかし、それがイエスの手によって驚くべき奇蹟の道具となった。イエスが「パンを裂いて」分け与える姿は主の晩餐を、パンは究極的にイエスの御体、即ち命のパン(ヨハネによる福音書6章48節)を象徴している。神が荒れ野でイスラエルの民をマナとうずらによって養われたように、イエスは野原で多くの人々に食事を与えられた。イエスが弟子達に「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言われたことから、今日クリスチャンも群衆を養う牧者の使命を担わなければならないことを教えられる。私達が分け与えるべき糧は、〈主の言葉〉と〈パン〉の両方である。

聖書黙想 マルコによる福音書6章30~34節

聖書黙想 マルコによる福音書6章30~34節(新共同訳 新約pp.72-73)
「人の必要をご存知のイエス

 イエスは、私達の必要をご存知で、満たして下さる方である。イエスは、伝道旅行から帰って来て疲れている弟子達を憐れみ、「しばらく休むがよい」と言われた。そして、弟子達と共に「人里離れた所へ行」かれたが、そこにも多くの群衆が付いて来た。当時、政治や宗教の指導者は、私利私欲を満たすだけで、羊の群れを顧みる真の牧者ではなかった。しかし、仕える牧者として来られたイエスは、彼らの「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ」、休んでいる場所でも御言葉を教えられた。イエスは、ご自分の必要や休息よりも、人々を顧みることをいつも優先される。

聖書黙想 マルコによる福音書6章21~29節

聖書黙想 マルコによる福音書6章21~29節(新共同訳 新約p.72)
「悪を行う母娘」

 情欲や権力を追い求めると、その結果は暴虐と残忍さである。ヘロディアは、自分とヘロデの結婚を批判したヨハネを「恨み、彼を殺そうと思っていた」。彼女はヘロデの誕生日に娘のサロメを送り込み、「宴会」の場で踊らせた。気分を良くしたヘロデがサロメに褒美を与えると誓った時、サロメが母親の所に行き、「何を願いましょうか」と尋ねたことは、そこにヘロディアの計略があったことを暗示している。サロメは母ヘロディアの言葉を聞くと「早速」「大急ぎで王のところに行き」、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて」持って来て欲しいと願った。こうしてバプテスマのヨハネは悪人によって悲惨な死を遂げた。しかし、イエスよりも先に来て「主の道を整え」(1章3節)た彼は、使命を果たして殉教者の列に加わった。

聖書黙想 マルコによる福音書6章14~20節

聖書黙想 マルコによる福音書6章14~20節(新共同訳 新約pp.71-72)
「罪責感に苦しむヘロデ」

 罪人の心には安らぎがない。当時イスラエルでは数人の王が分割統治をしていた。その中の一人がヘロデ・アンティパスであった。彼は情欲の人であった。肉的な欲により自分の妻を追い出し、「自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚し」た。また、彼は優柔不断な人であった。バプテスマのヨハネが「正しい聖なる人であることを知って」、彼の教えに「喜んで耳を傾けて」おきながら、人々の前で虚栄心に満ちた約束を守るために彼の首を刎ねた。ヘロデがイエスに対する噂を聞いて「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言ったことは、彼が心の中で罪責感に苦しんでいたことを反映している。罪責感に苦しみながら悔い改めないなら、主の裁きを逃れられない。