Five Solas Ministry

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 詩編86章1~17節

聖書研究 詩編86編1~17節(新共同訳 旧約pp.923-924)

(1) あなたは私の神、私はあなたに依り頼む者(1~10節)

 主なる神が祈りに答えて下さるという確信は、契約関係においてのみ可能である。ダビデは、主を「わたしの神」(2節)として認め、自分は主なる神に「依り頼む」「僕」(2節、3節)であると告白している。これは契約を前提とした関係を表している。
 主なる神は、悔い改めて契約の中に留まる者の罪を赦して下さり、主の御名を「呼ぶ者に豊かな慈しみをお与えにな」る「恵み深」い御方である(5節)。恵みは契約の中に留まる者に与えられる主なる神の愛である。この愛の故にダビデは「わたしの魂をお守りください」(2節)と叫び求めることが出来た。そして、ダビデは「苦難の襲うときわたしが叫び求めれば/あなたは必ず答えてくださる」(7節)と確信していた。

(2) 主よ、あなたは情け深い神(11~17節)

 契約をしっかりと握っている人は、力強く祈ることが出来る。ダビデは、主なる神の「慈しみ」が自分を「超えて大きく」、「深い陰府から」自分の「魂を救い出して」下さることを確信していた(13節)。それ故、主なる神に「あなたの道をお教えください」(11節)と祈り求めた。
 その上で、ダビデは、主なる神の「まことの中を歩」むことを決意し、そのために主の「御名を畏れ敬うことができるように/一筋の心をお与えください」と主なる神に願っている(11節)。主なる神の恵みによって契約に更に献身する決意をしたのである。
 この時ダビデの「命を求め」ていた敵は、「傲慢な者」、「暴虐な者の一党」で、主なる神を「自分たちの前に置いてい」ない人々であった(14節)。ダビデは、主なる神が「憐れみに富み、忍耐強く/慈しみとまことに満ちておられる」(15節)方であり、必ず自分を「助け/力づけてくださ」(17節)ると信じていた。だから、彼は「わたしに御顔を向け、憐れんでください。御力をあなたの僕に分け与え/あなたのはしための子をお救いください。良いしるしをわたしに現してください」(16~17節)と大胆に祈ることが出来た。

聖書研究 詩編85章1~14節

聖書研究 詩編85編1~14節(新共同訳 旧約pp.922-923)

(1) 主よ、慈しみを私達に示して下さい(1~8節)

 詩人はイスラエルの歴史の中で具体的に御業を行われた主なる神にすがって切に祈った。詩人は過去になされた主なる神の奇しい御業を覚えて告白している。その内容は、主なる神がイスラエルをバビロンの捕囚から救い出し、エルサレムに帰還させて下さったこと(2節)、イスラエルの民の罪を赦して下さったことである(3節)。主なる神はイスラエルに対する「激しい憤りを静められ」(4節)たのである。
 罪は主なる神と私達の間を遮る。しかし、全ての罪を覆って赦して下さる主なる神の恵みは罪に打ち勝つ。主なる神が恵みを施して下さりさえすれば、回復不可能な状況はない。それ故、詩人は主なる神に「慈しみをわたしたちに示し/わたしたちをお救いください」(8節)と切に祈った。それだけが、イスラエルの民が再び生きることの出来る道であり、救いと回復の道だからである。

(2) 主を畏れる人は救いに近い(9~14節)

 詩人は、主なる神が間もなく怒りを押しとどめ、「御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に」「平和を宣言され」(9節)ると確信していた。これは回復を意味する。
 主なる神の答えを確信した詩人は、神の民に二度と「愚かなふるまいに戻らないように」(9節)と命じている。主なる神が語られる言葉を前もって民に語っているのである。回復を願うならば、具体的に罪を清算しなければならない。そのようにする人が「主を畏れる人」であり、主なる神の救いはそのような人の「近く」にある(10節)。
 主なる神の救いが臨む時、主なる神の「慈しみとまこと」が「出会い」、「正義と平和」が「口づけ」する(11節)。そこには主なる神の「まこと」と「正義」、即ち秩序が回復される(12節)。そして、その地は「実りをもたら」(13節)す。これが回復された共同体に臨む主なる神の「栄光」である(10節)。

聖書研究 詩編84編1~13節

聖書研究 詩編84編1~13節(新共同訳 旧約pp.921-922)

(1) 主の庭を慕う(1~8節)

 詩人の口から心の奥深い所にあった「主の庭」に対する渇望が溢れ出した。その渇望はとても深く、「魂が絶え入りそう」になるほどであった(3節)。
 詩人は、富や名誉や権力よりも主の「祭壇」に「巣をかけて、雛を置いてい」る「つばめ」を羨ましく思った(4節)。主の「家に住」み、いつも主なる神を「賛美する」人が幸いな人であることを知っていたからである(5節)。
 詩人が神殿を慕い求めたのは、体が神殿から遠く離れ、主なる神との親しい交わりから遠のいていたためである。それ故、主なる神から「勇気」を与えられ、「心」に主なる神の御前に出ていく「広い道」のある人は「幸い」であると詩人は告白する(6節)。そのような人は「嘆きの谷を通るときも、そこを泉とする」(7節)ことの出来る恵みを受けている。その結果、「いよいよ力を増して進み」、最終的には主なる神の御前に立つようになる(8節)。

(2) 主なる神に依り頼む人の幸い(9~13節)

 詩人は主なる神に「あなたが油注がれた人を顧みてください」(10節)と叫び、積極的に祈り求めた(9節)。
 そして、主の「庭で過ごす一日」は他の所にいる「千日にまさる恵み」であると告白し(11節)、主なる神と共にいる時間を喜んだ。また、「主に逆らう者の天幕で」権力や富を味わうよりも「神の家の門口に立っている」方がよいと告白し(11節)、悪人の道に立たないことを願った。
 更に、詩人は、主なる神と共に歩む者にとって、主なる神は「太陽、盾」、「恵み、栄光」であり、「良いもの」を惜しみなく与えて下さる方であると歌っている(12節)。それ故、主なる神に「拠り頼む人」の人生には「幸い」が満ち溢れる(13節)。主なる神を信頼し、主なる神と共に歩む時、私達は他の所では味わえない大きな恵みを味わうことが出来る。

聖書研究 詩編83編1~19節

聖書研究 詩編83編1~19節(新共同訳 旧約pp.920-921)

聖書研究 詩編82編1~8節

聖書研究 詩編82編1~8節(新共同訳 旧約p.920)

聖書研究 詩編81編1~17節

聖書研究 詩編81編1~17節(新共同訳 旧約p.919)

聖霊降臨節第1主日(ペンテコステ)礼拝 2018年5月20日

聖霊降臨節第1主日(ペンテコステ)礼拝 2018年5月20日

聖書研究 イザヤ書66章18~24節

聖書研究 イザヤ書66章18~24節(新共同訳 旧約p.1171)

聖書研究 イザヤ書66章7~17節

聖書研究 イザヤ書66章7~17節(新共同訳 旧約pp.1170-1171)

(1) エルサレムと共に喜び祝え(7~14節)

 ご自分の民の救いに対する主なる神の情熱は驚くべきものである。主なる神は定められた時が来ると、約束されたイスラエルの回復を速やかに成し遂げられる。「陣痛の起こる前に男の子を産み落とした」(7節)女のように、瞬く間に捕囚地からの帰還とエルサレムの回復が成し遂げられ、民族が形成される(8節)。
 回復したエルサレムには喜びが溢れ(10節)、全ての民がまるで母親に抱かれて乳を飲む幼子のように慰めと喜びを与えられる(11節)。主なる神がエルサレムに対し、「平和を大河のように/国々の栄えを洪水の流れのように」(12節)与えて下さるからである。
 主なる神は、情熱をもってご自分の民を顧み、惜しみない愛と祝福を注いで下さる。苦難に終わりがないように見えても、鍛錬の時が終われば、主なる神は速やかに救い、豊かに報いて下さる。

(2) 火と剣で裁かれる主なる神(15~17節)

 主なる神は世を裁き、新しい天と新しい地を創造することを、イザヤを通して告げられた。「火をもって裁きに臨まれ/剣をもってすべて肉なる者を裁かれる」(16節)主なる神の姿は、主なる神の「怒り」と「憤り」の激しさを示している(15節)。その日、全ての人が主なる神の審判の前に立つことになる。
 その上で、「園に入」って偶像への祭儀を行うために「身を清め、自分を聖別」する者は、主なる神の裁きによって「ことごとく絶たれる」(17節)と告げられている。彼らは敬虔に見えても、実際には律法を破り、主なる神が禁止されている「豚や忌まわしい獣やねずみの肉を食らう者」(17節)であった(レビ記11章4節、7節、29節)。このことは主なる神の言葉を蔑ろにすることが主なる神の裁きを招くことを示している。
「滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い」(マタイによる福音書7章13節)とイエス・キリストは言われた。唯一の救い主であるイエス・キリストを信じ、罪を悔い改め、救いを得なければ、永遠の滅びを免れない。人の目を欺くことは出来ても、主なる神を欺くことは不可能である。

聖書研究 イザヤ書66章1~6節

聖書研究 イザヤ書66章1~6節(新共同訳 旧約pp.1169-1170)

(1) 主なる神の目に悪とされることを行う者(1~4節)

 天を「王座」とし、地を「足台」とし、その全てを創造された主なる神に足りないものなどない(1節)。主なる神が心から願っておられることは、私達が謙った心で主なる神の言葉を聞き、主なる神を畏れることである(2節)。
 主なる神の「言葉におののく」(2節)ことなく、自分の思いを実現するために献げる礼拝を、主なる神は決して喜ばれない(4節)。主なる神が「呼んでも答えず、語りかけても聞か」(4節)ないのに、主なる神に何かを献げる時(3節)、その献げ物は主なる神に汚れた忌むべきものと見なされる。
 主なる神の言葉を蔑ろにして献げる礼拝は、「忌むべき偶像を喜ぶように」「自分たちの道を選」んだに過ぎない(3節)。それは主なる神の「目に悪とされることを行」(4節)っているに他ならない。
 主なる神はそのような礼拝を献げる者に対し「気ままに扱うことを選び/彼らの危惧することを来させ」(4節)る。偽りの礼拝者は最終的に裁きを受ける(マタイによる福音書13章30節)。偽りの礼拝は極めて危険なものである。

(2) 敵に報いを返される主なる神(5~6節)

 主なる神の言葉を聞きもしないのに、形だけ礼拝を献げ続けるのは、主なる神が受け取って下さると確信しているからである。自分の兄弟を憎んでいる時にも(5節)、彼らの確信は少しも揺らぐことがない。
 また、彼らは、主なる神の御名のためであるという確信をもって、主なる神の「御言葉におののく人々」(5節)を追い払う(ヨハネによる福音書16章2節)。そして、そのような人々に向かって「主が栄光を現されるように/お前たちの喜ぶところを見せてもらおう」(5節)と嘲りさえする。彼らは、主なる神が自分達と共におられ、自分達は主なる神の御心を知っていると堅く信じて疑わない。
 しかし、このような彼らの確信は全くの錯覚である。「彼らは、恥を受ける」(5節)と主なる神は宣告される。そして、彼らの背信に対し、「報いを返される主の声」がエルサレム中に響き渡る(6節)。