Five Solas

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書黙想 詩編90編1~10節

聖書黙想 詩編90編1~10節(新共同訳 旧約p.929)
「移ろう草のような人」

 89編がダビデ王朝の滅亡を扱っているのに対し、90編は神ご自身が「代々にわたしたちの宿るところ」であると歌っている。目に見える世の国には終わりがあるが、神は「大地が、人の世が、生み出される前から/世々とこしえに」存在される方である。神には「千年といえども」、「昨日が今日へと移る夜の一時にすぎ」ない。一方、全ての人は、「朝が来れば花を咲かせ」、「夕べにはしおれ、枯れて行」くる草のように短命な存在である。私達の「人生の年月は七十年程のもの」で、「健やかな人」であっても「八十年」ほどである。しかも、その人生において「得るところは労苦と災いにすぎ」ない。全ての人は「罪」と死という深刻な問題を抱えて生きている。そして、人生はむなしく過ぎ去ってしまう。人生が短く、限りのあることを想い起こす時、聖徒は、永遠なる神の御前に謙遜な者へと変えられていく。「瞬く間に」過ぎ去ってしまう人生を、主のために惜しみなく用いよう。

聖書黙想 詩編119編169~176節

聖書黙想 詩編119編169~176節(新共同訳 旧約p.968)
「私の唇の賛美」

 詩人の苦しみは変わらず、神の答えはまだ与えられていないようであった。しかし、詩人は落胆したり諦めたりしなかった。苦しい現実に目を瞑ったり、現実から逃避したりもしなかった。彼は神の「御救い」を望み、迷った「小羊」のような自分を、良い牧者である神が顧み、「探してくださ」ることを願った。更に、以前と変わりなく神の「御言葉」に親しみ、神の義なる御心を知ろうとした。詩人は、御言葉の中に神の救いを見出し、神の「律法」を自分の「楽しみ」とした。また、「御言葉をあるがままに理解させてくださ」る神を「賛美」した。御言葉を通して苦しみから救われ、傷ついた「魂」と「霊」が「命を得」ることを知っているからである。それ故、詩人は答えが与えられる前にも後にも、常に神の「戒め」を「決して忘れ」ないと決心した。これが神を真に愛する人の姿である。

聖書黙想 詩編119編161~168節

聖書黙想 詩編119編161~168節(新共同訳 旧約pp.967-968)
「御言葉と私」

 神を愛し、恐れる者は、神の御言葉に完全に献身する。即ち、神が願われることに、心と行いを一致させて歩もうとする。詩人は「偽りを忌むべきこととして憎み」、神の「律法を愛し」、親しみ、いつも御言葉に従おうとした。私達もそうすれば、詩人の告白のように、神の「御言葉だけを恐れ」、「多くの戦利品を得たかのように」御言葉を「喜び」、神の「正しい裁きのゆえに」「日に七たび」神を「賛美」するようになる。そして、これほど神の「律法を愛する人」に、神は「豊かな平和」と「御救い」を約束して下さる。詩人の人生は、苦しみと「迫害」の中でも神の「定めを守り」、「戒めを実行し」た、真実の人生の例である。詩人のように、心を尽くし、力を尽くして、神が願われる人生を歩んでいこう。

祈り 詩編119編145~160節

祈り 詩編119編145~160節(新共同訳 旧約pp.966-967)

 主が答えて下さると信じ、心を尽くして祈ることが出来ますように。主を知らない人々が主を知り、主に立ち返り、主の救いと永遠の命を得ることが出来ますように。

聖書黙想 詩編119編153~160節

聖書黙想 詩編119編153~160節(新共同訳 旧約p.967)
「命を求める祈り」

 神は、約束された通り、「苦しみ」の中にいる聖徒を「顧みて助け出し」、「命を得させてくださ」る。苦しみの時、聖徒は、神の義なる御言葉、真実で永遠の御言葉に依り頼み、神に助けを求めることが出来る。それ故、聖徒は、神の「命令を愛し」、忘れず、神の「定めから離れ」ない。一方、「神に逆らう者」は、御言葉を求めることも、神の「仰せを守」ることもない。そして、彼らは聖徒を「迫害する者、苦しめる者」、「欺く者」である。神は、そのような聖徒を憐れに思い、助け、困難から救い、恵みによって生かして下さる。「苦しみ」の中で聖徒は、「憐れみ」が「豊か」で、「慈しみ深」い神に祈り求め、約束された救いと命を得なければならない。

聖書黙想 詩編119編145~152節

聖書黙想 詩編119編145~152節(新共同訳 旧約pp.966-967)
「呼び求める祈り」

 いつでも神の「助けを求めて叫」ぶことが出来るのは、聖徒に与えられた恵みであり、特権である。私達はいつも聞いておられる神の前に祈ることが出来る。祈る時には、「慈しみ深」い神が自分の「声を聞き」、「答えてくださ」ることを信じて期待し、「心を尽くして呼び求め」なければならない。このような切実さは御言葉に対する態度にも現れる。「夜明け」であれ、夕方であれ、目を覚まして神の「御言葉を待ち望み」、黙想し、神の御心と助けを求めよう。神の「律法」を無視して「悪だくみをもって迫害する者が近づ」いてくることもある。しかし、そのような状況でも神が私達に「近くいてくださ」り、神の「戒めはすべて真実」であることを覚えなければならない。聖徒は、いつも神に近づき、御言葉に従い、神の助けを求めよう。

祈り 詩編119編129~144節

祈り 詩編119編129~144節(新共同訳 旧約pp.965-966)

 御言葉を読む時、それを悟らせて下さる主に感謝します。主が与えて下さった慈しみをいつも忘れず、更に御言葉を愛することが出来ますように。

聖書黙想 詩編119編137~144節

聖書黙想 詩編119編137~144節(新共同訳 旧約p.966)
「義の御言葉」

 神は「正し」い方なので、神の御言葉も「まことに正しく確かな定め」であり、過去も現在も未来も「とこしえに正しい」。このことをよく知っていた詩人は、今自分に「ふりかかってい」る「苦難と苦悩」を、神が公正に裁いて下さることを切に待ち望んだ。詩人の「敵」は、義なる神の「御言葉を忘れ去った」ため、相応しい裁きを受けることだろう。しかし、詩人は「侮られてい」る時も、「とこしえに正し」い神の「律法」を愛した。神の「戒め」を「楽しみ」とし、御言葉をいつも覚えていたため、彼は神から「命を得」ることが出来た。それ故、詩人は神の御言葉に現れた義をより一層「理解」出来るよう、神に願い求めた。聖徒は義なる神の御言葉を愛し、その御心を悟る時、この詩人のように、生活の中で神の義と公正を表す者へと変えられていく。

聖書黙想 詩編119編129~136節

聖書黙想 詩編119編129~136節(新共同訳 旧約pp.965-966)
「悟らせる御言葉」

 神の「御言葉」を聞く時、私達は神の御心を悟ることが出来る。「御言葉が開かれると光が射し出で/無知な者にも理解を与え」ると詩人は言う。それ故、詩人は「御顔の光をあなたの僕の上に輝かせてください。あなたの掟を教えてください」と願った。神の「戒め」を「慕い求め」、「渇望し」た。また、詩人は、神が「御顔」を自分に「向け、憐れんでくださ」ること、「どのような悪も」自分を「支配し」ないよう、自分の「足どりを確かなものにしてくださ」ること、「虐げる者から」自分を「解き放ってくださ」ることを願い求めた。その上で、神がこれらの恵みを与えて下さるなら、神の「命令を守」り続けると誓約している。御言葉を悟った聖徒は、その恵みに感謝しつつ、悟った通りに行う者へと変えられていく。