Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 ナホム書3章8~19節

聖書の黙想と適用 ナホム書3章8~19節(新共同訳 旧約pp.1462-1463)

(1) ニネベの無力(8~13節)

 アッシリアは、一時期、近東を支配した強大国である。また、その都ニネベは、外敵の侵略を防ぐために要塞化されていた。ニネベの民も、他の国々の民も、エネベが滅びるというメッセージを信じられなかった筈である。しかし、アッシリアがどれほど堅固な要塞と強力な軍隊を持っていたとしても、主なる神が怒られる時、生き残ることは出来ない。
 主なる神はアッシリアをエジプトの都市国家テーベと比較する。テーベは「ナイルのほとりに座し、水に囲まれ/海を砦とし、水を城壁としていた」(8節)。また、クシュ、エジプト、プト人、リビア人の助けを受けていた(9節)。テーベは決して弱い国ではなかった。にもかかわらず、テーベは滅亡し、民は「捕囚として連れ去られた」(10節)。「お前はテーベにまさっているか」(8節)と主なる神はニネベに問いかける。
 主なる神は、「初なりの実をつけたいちじくの木」が「揺さぶれば、実が食べる者の口に落ちる」ように(12節)、ニネベの都も簡単に陥落すると宣告される。その時、アッシリアの兵士は「敵にとって女のよう」であり、敵の前に「国の門は広く開かれ/かんぬきは火で焼き尽くされる」(13節)。彼らは「敵を避けて逃げ場を求める」(11節)しか術がなくなる。
 主なる神はアッシリアの王と民の慢心を見ておられた。ヨナの警告の後、100年余りを待たれたが、アッシリアは立ち返らなかった。彼らは堅固な要塞、頑丈な門、屈強な兵士をもっていかなる侵略者の攻撃も退けられると確信していた。しかし、主なる神は少数の軍隊でも強大国を滅ぼすことがお出来になる方である。主は国々の罪を裁かれる。また、個人の罪を裁かれる。主なる神の警告を拒否し、罪に固執するのは恐ろしいことである。

(2) ニネベを打たれる主なる神(14~19節)

 ニネベに対し、主なる神は「籠城に備えて水をくみ、要塞を堅固にせよ。泥の中に入って、粘土を踏み/れんがの型を固く取れ」(14節)と言われた。要塞に依り頼むニネベの人々に対し、要塞をより強固にして、ニネベが滅びるのを防いでみよと挑まれた。
 しかし、彼らがどれほど準備しても無駄である。主なる神はニネベに「火はお前を焼き尽くし/剣はお前を断つ」(15節)と宣告される。かつて主なる神がエジプトを打たれた時、いなごの大群がエジプト全土を襲い、「木であれ、野の草であれ、エジプト全土のどこにも緑のものは何一つ残らなかった」ほど食い尽くした(出エジプト記10章14~15節)。同様に「火はいなごが食い尽くすように」(15節)、ニネベを焼き尽くす。
 また、主なる神は散らされていくニネベの人々を「移住するいなご」に喩えている。ニネベを豊かにした多くの商人も(16節)、ニネベを強くした部隊や将軍も、皆いなごのように飛び去り、「どこに行くのかだれも知らない」(17節)。人間はどれほど強く見えても、主なる神の御前では非常に弱い存在である。
 主なる神が下された裁きはニネベの再興が不可能なほどに厳しいものだった。アッシリアの「打たれた傷は重」く、その「傷を和らげるもの」もなかった(19節)。アッシリアは完全に滅び、王は、地方を治める領主(「牧者たち」)も貴族も、「山々の上に散らされ」た兵士達も2度と集めることが出来ない(18節)。それは彼らの行ってきた悪に対する報いであった。
 一方、アッシリアの悪に「常に悩まされてきた」人々は、ニネベ滅亡の知らせを聞くと、「手をたた」(19節)いて歓声を上げる。主なる神の裁きは虐げられてきた人々を悪から救う恵みでもある。
 悪を行う者が栄えていると思えてならない時がある。不義の者が富と権威を得て安住し、平安に生きているように見える時がある。しかし、目に見えることだけで、早まって判断してはいけない。主なる神は義なる方である。正しい裁きを行って、私達の涙を拭って下さり、私達に勝利の喜びを与えて下さる。

聖書の黙想と適用 ナホム書3章1~7節

聖書の黙想と適用 ナホム書3章1~7節(新共同訳 旧約pp.1461-1462)

聖書研究 イザヤ書46章1~4節

聖書研究 イザヤ書46章1~4節(新共同訳 旧約pp.1137-1138)

【概要】
 イザヤはバビロンの滅亡とイスラエルの解放について預言した。特に、バビロンの偶像の無力さとの対比において、歴史を導き、そしてイスラエルの民を救われる主なる神の御業が生き生きと語られている。

【歴史的背景】
 紀元前586年のエルサレム陥落によって、イスラエルは王も神殿も国土も全て失い、国の主だった人々は遠く離れた異国の地バビロンに連行される。捕囚としての数十年間はイスラエルにとって暗黒の時代であった。また、古代の近東において戦争は夫々の国の神々の戦いであると考えられていたので、国の滅亡は信仰の根幹に関わる危機でもあった。
 そうした中でイザヤは、ペルシアの王キュロスを「主が油を注がれた人」(45章1節)と呼び、主なる神が彼を用いてバビロンを滅ぼし、イスラエルを解放することを告げた。そして、主なる神への不信と疑いが渦巻いていたイスラエルに対し、主なる神への信頼を取り戻すよう呼びかけた。

【釈義】
(1) 人間によって造られ、背負われ、倒れ伏す偶像(1~2節)

[1節]
 イスラエルを捕囚の民としていたバビロンに滅亡の時が訪れる。バビロンの人々が信じ、頼っていた神々は、バビロンの敗北と破滅を防ぐことが出来なかった。バビロンの滅亡は、それらが真の神ではなく、偶像に過ぎなかったことを示すものであった。
「ベル」と「ネボ」はバビロンの代表的な偶像である。「ベル」は「主」という意味で、ヘブライ語の「バアル」に相当する。それはバビロンの主神マルドゥクに対するヘブライ語の名前であった(エレミヤ書50章2節、51章44節)。「ネボ」は「告知者」という意味で、ベルの息子であった。それは、文学と科学の神、灌漑を司る農業神として信仰されていた(鍋谷堯爾『イザヤ書注解』下 24-66章, 東京: いのちのことば社, 2014年, p.175)。バビロンには、ネブカドネツァル、ベルシャツァルなど、これらの偶像の名が付いた王がいる。ダニエルもバビロンでベルテシャツァルという名を与えられていた(ダニエル書2章26節)。
「かがみ込み……倒れ伏す」は、偶像が神としての威厳を失い、滅び行く状態を表している。「かがみ込み」と訳されているヘブライ語קֹרֵ֣ס [qō-rês]は、旧約聖書の中でここだけに出て来るので、その意味は明らかではない。「倒れ伏す」(כָּרַ֥ע [kā-ra‘])は、倒れて死ぬことを表す時によく使われている(士師記5章27節、列王記下9章24節、詩編20編9節)。
 かつてバビロンが周りの国々を打ち破った時、これらの偶像は人々の信仰を一層集めたことだろう。しかし、今それらの偶像は「獣や家畜」の荷物となって逃げ出さなければならない。無力な偶像は、それらを崇拝してきた人々にとって救いとなるどころか、厄介な「重荷」となってしまった。そのことが大変皮肉な口調で述べられている。

[2節]
 バビロンの人々が戦争に負けて捕囚として連れて行かれる時、これらの偶像は彼らを救うことが出来ない。また、自分自身を救うことも出来ない。人間が神と見なしていた偶像はその崇拝者と共に滅んでしまう。

(2) イスラエルを造り、背負い、救い出す主なる神(3~4節)

[3節]
 主なる神は、「ヤコブの家」、即ちイスラエルが「生まれた時から」ずっと顧み、守ってこられた(40章11節、63章9節、出エジプト記19章4節、申命記1章31節、32章12節、詩編22編10節、71編6節、ホセア書11章3節)(鍋谷『イザヤ書注解』下, p.175)。
「負われ」(הַֽעֲמֻסִים [ha-‘ă-mu-sîm])はעָמַס [amas](運ぶ)の分詞、「担われてきた」(הַנְּשֻׂאִ֖ים [han-nə-śu-’îm])はנָשָׂא [nasa]の分詞で、親が子供を抱いて運ぶことを表すヘブライ語である(出エジプト記19章4節、民数記11章12節、申命記1章31節、イザヤ書63章9節)。
 主なる神はイスラエルの民が作った偶像ではない。逆に、主なる神が彼らを造り、選ばれた。主なる神はイスラエルの民に神の像を作ることを禁じられた(出エジプト記20章4節)。御自分を金の子牛などの像として表現し、それを拝むことも許されなかった(出エジプト記32章35節)。主なる神はバビロンの偶像とは比べることの出来ない真の神である。

[4節]
 ヘブライ語の原文には「あなたたち」という言葉はないが、これはイスラエルのことを言っている。主なる神は、御自分の民を「生まれた時から」(3節)「老いる日まで/白髪になるまで」変わることなく、徹底的に面倒を見て下さる。
 ヘブライ語の原文ではここで「わたし」(אֲנִ֣י [’ă-nî])という1人称主格強意の代名詞が5回も繰り返されている(新改訳では「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう」と原文通りに訳されている)。御自分の民が年老いても、「担い」(אֶסְבֹּ֑ל [’es-bōl;]: סָבַל [sabal] (重い荷を運ぶ)の未完了形)、「背負い」(אֶשָּׂ֔א [’eś-śā,]: נָשָׂא [nasa] (親が子供を抱いて運ぶ)の未完了形)、そして「救い出す」のは、他ならぬ主なる神であるということが強調されている。

【祈り】
 天の父よ、あなたの聖なる御名を心から讃美致します。今日もあなたの御言葉に耳を傾ける時を与えて下さり、有り難うございます。主よ、私を造り、愛し、救って下さるあなただけに頼り、あなただけを主と仰ぎ、あなたが下さる平安と喜びによって、今日も勝利することが出来ますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

聖書の黙想と適用 ナホム書2章9~14節

聖書の黙想と適用 ナホム書2章9~14節(新共同訳 旧約pp.1460-1461)

聖書の黙想と適用 ナホム書2章2~8節

聖書の黙想と適用 ナホム書2章2~8節(新共同訳 旧約p.1460)

聖書の黙想と適用 ナホム書1章9節~2章1節

聖書の黙想と適用 ナホム書1章9節~2章1節(新共同訳 旧約pp.1459-1460)

聖書の黙想と適用 ナホム書1章1~8節

聖書の黙想と適用 ナホム書1章1~8節(新共同訳 旧約p.1459)

聖書の黙想と適用 フィレモンへの手紙15~25節

聖書の黙想と適用 フィレモンへの手紙15~25節(新共同訳 新約pp.399-400)

聖書の黙想と適用 フィレモンへの手紙1~14節

聖書の黙想と適用 フィレモンへの手紙1~14節(新共同訳 新約p.399)

(1) イエス・キリストにある交わり(1~7節)

 使徒パウロとテモテは、同労者であるフィレモン、アフィア、アルキポ、そしてフィレモンの「家にある教会」に宛てて手紙を書いた(1~2節)。フィレモンは、地域の教会の指導者で、尊敬と信頼を受けている人物だった。古代社会において手紙は、遠く離れた人々が消息を伝え、意志の疎通をする唯一の手段だった。
 パウロは自らを「キリスト・イエスの囚人」(1節)と表現している。この時パウロは投獄されていた。しかし、イエス・キリストにとらえられた彼は福音のために生きることを諦めなかった。パウロはフィレモン達の上に「父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和」(3節)があるように祈っている。
 また、パウロは「祈りの度に」フィレモンのことを思い起こし、主なる神に感謝を献げている(4節)。「主イエスに対する」フィレモンの信仰と、「聖なる者たち一同に対する」フィレモンの愛について聞いたからである(5節)。フィレモンの奉仕は、パウロに「大きな喜びと慰め」を与え、また「聖なる者たちの心」を「元気づけ」た(7節)。一方、パウロは、フィレモンに「わたしたちの間でキリストのためになされているすべての善いことを、あなたが知り、あなたの信仰の交わりが活発になるように」(6節)と祈っている。彼らは異なる場所と境遇の中で暮らしていたが、イエス・キリストにあって親しい交わりを持ち続けることが出来た。

(2) オネシモのための執り成し(8~14節)

 パウロイエス・キリストの福音の故に牢に入れられていた(9節)。しかし、劣悪な状況にあっても、彼は一人の魂のために努力することを諦めなかった。そして、主なる神はそのようなパウロを用いて一人の人間を救われた。
 パウロはオネシモという奴隷のことで「愛に訴えて」(9節)フィレモンにお願いをしている。オネシモの主人はフィレモンで、彼はフィレモンのもとを逃げ出してきたからである。パウロとオネシモがどのようにして出会ったのかは記されていない。しかし、オネシモは牢の中でパウロと出会い、パウロを通して福音を受け入れるに到った。そしてパウロの傍で仕えるようになった。そのようなオネシモをパウロは自分が「監禁中にもうけた」(10節)子と呼んでいる。パウロとオネシモは主にあって堅い信頼関係で結ばれていた。
 イエス・キリストの福音を受け入れた者は、新しく造り変えられる。かつてオネシモは、フィレモンに対して罪を犯し、「役に立たない者」であった。しかし、福音によって新しく生まれ、主なる神の働きのために「役立つ者」となった(11節)。福音のために生きてきたパウロにとって、オネシモは「わたしの心」(12節)そのものであった。
 パウロは「キリスト・イエスの囚人となっている」(9節)者として、オネシモのために執り成しをした。彼は、オネシモを自分のもとに「引き止め」、自分が「福音のゆえに監禁されている間」、彼に「仕えてもら」うことを望んだ(13節)。「年老い」(9節)たパウロにとって、福音のために助けを得ることは切実な祈りの課題であった。しかし、パウロはフィレモンに「キリストの名によって遠慮なく命じ」(8節)ることをせず、フィレモンのもとにオネシモを送り帰した(12節)。フィレモンが「善い行い」を命令ではなく「承諾」によって、即ち「強いられたかたちでなく、自発的に」行ってくれることを願ったからである(14節)。

聖書の黙想と適用 アモス書9章7~15節

聖書の黙想と適用 アモス書9章7~15節(新共同訳 旧約pp.1441-1442)