Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書15章11~32節

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書15章11~32節(新共同訳 新約pp.139-140)

(1) 罪人が立ち返るのを待つ主なる神(11~24節)

 イエス・キリストは、「見失った羊」や「無くした銀貨」のたとえにおいて、「ファリサイ派の人々や律法学者」(2節)に、主なる神は見失ったものを必死で捜す人間のような方であると語られた。「放蕩息子」のたとえにおいても、イエス・キリストは、主なる神を、放蕩息子を待ち続ける父親のような方、即ち罪人が立ち返ることを切に願っておられる方として示された。
 下の息子は父親から「財産の分け前」を貰うと(12節)、それを全部金に換えて、「遠い国」に旅立った(13節)。しかし、「放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いし」(13節)、「何もかも使い果たし」(14節)てしまった。「食べるにも困」(14節)った彼は、ユダヤ人が汚れた動物と見なしていた「豚の世話」をしなければならなくなった(15節)。彼は「豚の食べるいなご豆」さえ食べることが出来ず(16節)、父親の「大勢の雇い人」よりも悲惨な状況に落ちた(17節)。これは天の父から離れた人間の悲惨な状況を示している。
 息子は父親から離れ、「飢え死にしそう」になって初めて、自分の罪を自覚した(17節)。そして、父親のもとに戻ることにした(20節)。父親は息子が帰って来るのを切に待っていた。それ故、息子を見つけると「走り寄って首を抱き、接吻した」(20節)。これは当時の慣習ではあり得ない行動であった。また、息子は、自分は父親に対して罪を犯し、息子と呼ばれる資格はないので、「雇い人の一人」に加えて欲しいと願っていた(18~19節、21節)。しかし、父親は彼を再び息子として受け入れた(22節)。父親は息子が「死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」(24節)と心から喜んだ。

(2) 喜ぶのは当たり前ではないか(25~32節)

 父親が帰ってきた息子を迎え入れ、「祝宴を始めた」(24節)ことを知ると(25節)、兄は非常に腹を立てた(28節)。兄は自分の弟のことを「あなたのあの息子」と呼び、「娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来」たと批判した(30節)。そして、自分は「何年もお父さんに仕え」、「言いつけに背いたことは一度も」ないのに、自分が「友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかった」と不平を述べた(29節)。それに対し、父親は兄に「お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ」(31節)と告げた。
 私達もこの兄のように他の人と自分を比べ、自分の優劣を考えてしまうことがある。自分の方が優れていると判断したら、他の人を見下し、傲慢に陥る。また、信仰者であれば、自分はこれだけやっているのだから、主なる神からもっと評価され、良い待遇を受けて然るべきであると考えることもあるかも知れない。しかし、それは誤った自己認識である。
 全ての人間は主なる神の裁きを受けなければならない罪人である。私達は主なる神の恵みによってのみ救われる。イエス・キリストの十字架の贖いによってのみ罪の赦しを受けることが出来る。救いは私達の行いに対する報いとして与えられるものではない。主なる神の御前で自分の行いを誇ることは出来る者は誰もいない。それ故、傲慢になって他の人を蔑むようなことがあるとしたら、私達は悔い改める必要がある。

聖書研究 マタイによる福音書26章17~30節

聖書研究 マタイによる福音書26章17~30節(新共同訳 新約pp.52-53)

(1) 過越の食事をする(17~25節)

 イエス・キリストは弟子達に過越の食事の準備をするよう指示された(18節)。過越祭は、主なる神がエジプトの全ての初子を撃たれた時、小羊の血を家の入口に塗ったイスラエルの民の家だけは過ぎ越したという出来事に由来し(出エジプト記12章21~27節)、イスラエルの民が主なる神の裁きから守られたこと、エジプトから解放されたことを記念する祭りである。「除酵祭」(17節)は、過越祭に続いて1週間守られるユダヤ教の祭りで、パン種を入れないパンを食べたことからこの名が付いた。イエス・キリストは「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネによる福音書1章29節)として来られた。そして、犠牲の生贄として殺される時が迫っていた。
「夕方になると」、イエス・キリストは12人の弟子達と一緒に食事の席に着かれた(20節)。過越の食事は一般的に夜に行われた(出エジプト記12章8節)。
 食事の席でイエス・キリストは自分が弟子達のうちの一人によって裏切られると語られた(21節)。この言葉を聞いた弟子達は「非常に心を痛め」、「主よ、まさかわたしのことでは」(22節)と代わる代わる尋ねた。「まさかわたしのことでは」と訳されているギリシア語(Μήτι ἐγώ εἰμι [Mēti egō eimi])は、否定を期待する質問で、彼らがイエス・キリストの言葉を聞いて少なからず狼狽したことを示唆している。また、「心を痛めて」と訳されているギリシア語(λυπούμενοι [lypoumenoi])は、「非常に悲しむ」「悲嘆にくれる」「分解する」という意味の動詞(λυπέω [lupeó])の分詞である。イエス・キリストと3年間寝食を共にし、これからも仕えていこうと考えていた弟子達にとって、イエス・キリストが売り渡されること、しかもそれが弟子の中の誰かによってなされることは、非常に衝撃的なことであり、耐え難い悲しみであった。そして、自分がその裏切り者になるのではないかと心配した。
 しかし、イエス・キリストはここで「人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く」(24節)と言われている。即ち、主導権は、陰謀を企んだユダヤ教の指導者や彼らに同調して裏切った弟子ではなく、イエス・キリストにある。私達を救う新しい契約を成就するために、十字架の死は必ず進まなければならない道であった。
 とはいえ、定められた道であるからと言って、イエス・キリストを売り渡すイスカリオテのユダに責任がないわけではない。そのことは「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」(24節)というイエス・キリストの言葉によって明言されている。「生まれなかった方がよかった」というのは悲劇的な人生を表す際に用いられた表現である(ヨブ記3章2節、10~11節)。ユダはそれほどの重い罪を犯そうとしていた。それに対し、ユダは「先生、まさかわたしのことでは」と言った。このユダの言葉はマタイによる福音書にだけ記されている。イエス・キリストはユダに「それはあなたの言ったことだ」と答えられた(25節)。
 ユダの裏切りは、仕方がなかったことでも、すべくして行ったことでもない。ユダは自らの意志でイエス・キリストを売り渡したのである。しかし、イエス・キリストは、ご自分を裏切ろうとしていたユダに胸を痛め、心から憐れまれた。このイエス・キリストの言葉には、主なる神のご主権と人間の責任が共に表されている。

(2) 主の晩餐(26~30節)

 イエス・キリストは、パンを取って、賛美の祈りを唱え、弟子達に「取って食べなさい。これはわたしの体である」と言われた(26節)。また、ぶどう酒が入った杯を取り、感謝の祈りを唱え、弟子達に「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」(27~28節)と言われた。
 旧約の時代、イスラエルの祖アブラハムは動物を屠って、その血を注ぎかけることによって、主なる神との契約を締結した(創世記15章1~11節)。イスラエルが律法を守り、主なる神との契約に忠実である時、イスラエルを大いなる民とし、諸民族の祝福の源とするという主なる神がイスラエルを召された目的は成就される。しかし、イスラエルは絶えず不従順であった。そのため、紀元前587年にバビロンによってエルサレム神殿は破壊され、民は捕囚として連行され、約束の地は荒廃した。
 この絶望の中でイザヤ、エレミヤ、エゼキエルといった預言者は契約の回復の希望を叫んだ。彼らは、この契約を土台とした新しい時代の到来、神殿の回復、自分達の地の回復、律法の回復などを告げた(エレミヤ書31章31~40節)。これこそイスラエルが期待した神の国の到来であった。
 イエス・キリストは、ご自分の死について、旧約の預言者が告げた新しい契約が成就するための生贄の死であることを示された。動物の血によって結ばれた古い契約は、イエス・キリストの死によって結ばれる新しい契約を予め示したものであった。十字架上でイエス・キリストが流された血潮は、滅ぶべき者であった私達に救いの道を開き、「わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するように」(ヘブライ人への手紙9章14節)して下さる。

祈り ルカによる福音書14章25~35節

祈り ルカによる福音書14章25~35節(新共同訳 新約pp.137-138)

 天の父よ、あなたの聖なる御名を心からほめたたえます。昨日あなたが私達を守り、支えて下さったことを感謝致します。悲しいこと、苦しいこと、悔しいこと、不安なこともありましたが、あなたが私達の内に平和を与えて下さったことを心から感謝致します。今日もあなたが私達一人一人と共にいて下さり、どのような時にも、何が起ころうとも、あなたにある希望と平和の中で歩み続けることが出来ますよう助けて下さい。今日あなたが私達に与えようとしておられる恵みの一つ一つを、体で、心で、霊で受けることが出来ますように。
 主よ、あなたの御言葉を与えて下さり、有り難うございます。御子イエス・キリストは「塩も塩気が無くなれば、その塩は何によって味が付けられようか」と言われました。私達は、自分では自分を満たすことも、人を生かすことも出来ません。しかし、そのような私達を、あなたは憐れんで下さり、傍に引き寄せて下さいました。イエス・キリストが私達を招いて下さったから、私達はあなたのもとに行くことが出来ます。イエス・キリストが私達のために十字架にかかって下さったから、あなたの御前に立つことが出来ます。このような者を招き、このような者のために十字架で命を捨てて下さったことに心から感謝致します。あなたが与えて下さった恵みを私達が大切にすることが出来ますよう導いて下さい。
 主よ、イエス・キリストは「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」と言われました。私達は自分の力や意志ではあなたに従うことの出来ない者です。しかし、そのような私達のためにイエス・キリストは執り成し、働きかけて下さいます。どうか私達を聖霊で満たして下さい。これからの日々をあなたと共に歩むことが出来ますように。あなたは私達の全てです。あなたが私達を導いて下さい。
 主よ、あなたは御自身の御心を教えることによって、私達をイエス・キリストに似た者へとつくりかえて下さいます。どうか私達に毎日御声をかけて下さい。私達が日々あなたのもとに帰ることが出来ますように。あなたが私達の手を握り、私達を背負い、私達をお導き下さい。地の塩、世の光とされている自分の尊さを私達がもっと知り、自覚することが出来ますように、そして全ての栄光をあなたにお返しすることが出来ますよう、私達を助けて下さい。
 主よ、あなたが私達を招いて下さる時、私達は自分の父、母、妻、子供、兄弟、姉妹の尊さを知ることが出来ます。あなたが与えて下さる愛と命によって、私達が自分の家族を尊び、生かす者となることが出来ますように。また、私達が隣人を愛する者となることが出来ますよう導いて下さい。
 主よ、東日本大震災から6年が経ちました。被災地とそこに住む方々のことを祈りに覚えます。直接被害に遭わなかった者の中からショックと記憶が薄れていく一方で、あの震災によって愛する人と生活を失った方の痛みと悲しみは消えることはないと思います。今も痛みと悲しみの中にある方と共にあり、共に歩んで下さい。そのお一人お一人のところにやって来て、光を照らして下さい。あなたに出会う時、人の慰めや励ましを超えた光がお一人お一人に点ることを信じます。また、私達も自分に出来ることをもってあなたの愛を表す者となることが出来ますよう、私達をお用い下さい。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

聖書研究 マタイによる福音書25章1~13節

聖書研究 マタイによる福音書25章1~13節(新共同訳 新約p.49)

(1) 花婿を迎える準備をする10人のおとめ(1~5節)

 イエス・キリストは当時の婚宴を背景に天の国について語られた。当時パレスティナでは、結婚式は短くても数日、長い時には1週間にわたって行われた。そして、結婚式は、花婿が花嫁の家に行き、花嫁を自分の家に連れて来ることでクライマックスを迎えた。その際、花嫁の付添人は、夜道でともし火を灯し、婚宴が行われる花婿の家へと花嫁を導く役割を与えられていた。「十人のおとめ」もそのために花婿が来るのを待っていた(1節)。
 ところが、「花婿の来るのが遅れた」(5節)。花婿は花嫁を迎えに行く前に、花嫁の親族に贈り物――多くの場合、結婚持参金――をしたが、そのことで花婿と花嫁の家族の間にいざこざが起こることがあったようである。花嫁の付添人は、そのような事態に備えて、ともし火のための油を十分に用意しておかなければならなかった。この時、賢い5人のおとめは「ともし火と一緒に、壺に油を入れて待っていた」(4節)。ところが、愚かな5人のおとめは「ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった」(3節)。
 このたとえ話が語ろうとしていることは、花婿が来るまでの間、眠っていたか、目を覚ましていたかではない。「皆眠気がさして眠り込んでしまった」(5節)とあるように、愚かなおとめだけでなく全員が眠っていた。ここで問われているのは、いつ花婿が来てもいいように、彼女達が油を十分に準備していたかどうかであった。それ故、賢いおとめも眠っていたことは、「目を覚ましていなさい」(13節)というイエス・キリストの言葉と矛盾しているわけではない。

(2) 花婿の到着(6~13節)

 待ちに待った花婿が真夜中に遂に到着した(6節)。眠っていた10人のおとめに「花婿だ。迎えに出なさい」という声が聞こえてきた。この時、賢いおとめは油を十分用意していたので、ともし火を灯し続けることが出来た。しかし、愚かなおとめはそうすることが出来なかった(8節)。愚かなおとめは、賢いおとめに「油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです」(8節)と頼んだ。しかし、賢いおとめは「分けてあげるほどはありません」と答え、自分達で店に買いに行くよう勧めた(9節)。暗い夜道を通って婚宴が行われる花婿の家まで安全に導くためには、ともし火が必要不可欠であった。そして、途中で油が尽きてしまうことは身の危険に関わることであった。
 しかし、愚かなおとめが油を買いに行っている間に、婚宴が行われている家の戸が閉められた(10節)。遅れて到着した愚かなおとめは「御主人様、御主人様、開けてください」(11節)と頼んだ。それに対し、花婿は「わたしはお前たちを知らない」(12節)ときっぱりと断った。彼の態度は一見とても冷淡に思われる。しかし、彼女達は自分に与えられた役割を果たさなかったため、この婚宴とは何の関係もない者になってしまったのである。
 興味深いことに、このたとえで愚かなおとめが「御主人様、御主人様(κύριε [kyrie])」と花婿を呼んでいることは、7章22節で「不法を働く者ども」が「主よ、主よ(κύριε [kyrie])」と言っていることに似ている。それに対し、イエス・キリストが「あなたたちのことは全然知らない」(同23節)と答えられることも、このたとえと似ている。また、「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」(13節)というイエス・キリストの勧めは、「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである」(24章42節)というイエス・キリストの言葉に対応している。
「十人のおとめ」のたとえは、イエス・キリストの来臨が遅れている状況を描いている。イエス・キリストの来臨が遅れているとしたら、それは「一人も滅びないで皆が悔い改めるよう」「忍耐しておられる」ためである(ペトロの手紙二3章9節)。そして、このたとえの核心は、イエス・キリストが再び来られる日を待ち望みつつ、それに備えて生きていくことにある。
 イエス・キリストがいつ来られるのか、私達は誰も知らない。だからこそ、イエス・キリストがいつ来られても、問題なく迎えられるよう、私達はイエス・キリストの教えを忘れず、心と人生を尽くしてイエス・キリストに従うことを求められている。そして、イエス・キリストが再び来られた時、イエス・キリストがお命じになったことに私達がどれだけ従順であったかを問われる。14節以降の「タラントン」のたとえではそのことが取り上げられている。

祈り マタイによる福音書26章17~30節

祈り マタイによる福音書26章17~30節(新共同訳 新約pp.52-53)

 天の父よ、あなたの御名を心からほめたたえます。あなたの御言葉を与えて下さり、有り難うございます。
 主よ、私達は自分の罪に引きずられてしまう愚かな者です。あなたが私達を招いて下さり、あなたの御許に戻っても、またすぐに外に迷い出てしまいます。或いは、試練や誘惑に直面し、イエス・キリストが分からなくなってしまうことがあります。しかし、どのような惑わしがあり、揺さぶりがあり、脅しがあったとしても、私達はあなたのものです。私達はイエス・キリストの御手の中にあります。イエス・キリストとの関係の中へと入れられています。そして、イエス・キリストは、私達をもう一度御前に引き寄せ、私達に「取って食べなさい」「この杯から飲みなさい」と声をかけて下さいます。あなたが私達を御手の中に握って下さっていることを心から感謝致します。
 主よ、あなたこそ私達の全てです。イエス・キリストの体を食べ、イエス・キリストの血を飲む時、私達はイエス・キリストの命を受け、イエス・キリストと一つとされます。イエス・キリストが私達の中に入って来て下さり、イエス・キリストの御心を私達の心とし、イエス・キリストの御業を私達の業として下さいますようお願い致します。日々あなたの御許に立ち帰り、あなたの御顔を仰ぎ、地上の生涯を全うすることが出来ますよう導いて下さい。
 主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。

祈り ルカによる福音書13章22~35節

祈り ルカによる福音書13章22~35節(新共同訳 新約pp.135-136)

 天の父よ、あなたの尊い御名を心からほめたたえます。あなたの御言葉をお与え下さり、有り難うございます。
 主よ、御子イエス・キリストは「狭い戸口から入るように努めなさい」と言われました。イエス・キリストだけが救いへと到る門であられます。私達はあなたに反抗し、あなたに石を投げるような者でした。にもかかわらず、あなたは私達をあなたのもとに招いて下さいました。イエス・キリストは「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか」と言われました。あなたがそのように憐れみ深い方であられるからこそ、私達は安心してあなたのもとに帰ることが出来ました。そのことを心から感謝致します。
 主よ、私達はイエス・キリストの十字架を仰ぎたいと願っています。どうかあなたの聖霊を私達一人一人に送って下さい。イエス・キリストの十字架を見上げることが出来ますよう私達の心を開いて下さい。イエス・キリストが私達の心を治めて下さり、イエス・キリストに「主の名によって来られる方に、祝福があるように」と告白することが出来ますように。イエス・キリストの御名をほめたたえつつ、あなたの御前に頭を下げる者であらせて下さい。
 主よ、あなたの御思いを私達の内にお示し下さい。私達が自分の思いをあなたに献げ、あなたを求め、あなたの子供として生きていくことが出来ますように。私達はあなたのために色々なことをやりたいと願います。しかし、出来ないこともあります。何も出来ない時、あなたが支えて下さい。また、何か出来る時、あなたが共にそれを行って下さい。ただあなたの恵みによって私達を生かして下さい。あらゆることにおいてあなたが私達を満たして下さり、あなたが私達の全てとなって下さいますようお願い致します。
 主よ、まだイエス・キリストと出会っておられない方のことを祈りに覚えます。どうかあなたご自身がその方の心に触れ、あなたご自身を現して下さい。安心して全てをあなたに委ねることが出来るようその方を導いて下さい。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

祈り ルカによる福音書13章10~21節

祈り ルカによる福音書13章10~21節(新共同訳 新約pp.134-135)

 天の父よ、あなたの聖なる御名を心からほめたたえます。あなたの御言葉を与えて下さり、有り難うございます。
 主よ、御子イエス・キリストは、私達一人一人の内にやって来て下さり、私達にあなたを礼拝する心を与えて下さいました。それまで私達はあなたを知りませんでした。しかし、イエス・キリストが私達を呼び寄せ、私達に御言葉を語って下さった時、私達はあなたと出会うことが出来ました。そして、あなたが私達を愛して下さっていること、私達といつも共にいて下さることを知りました。イエス・キリストを通して私達は真の安息を与えられ、あなたを讃美する者へと変えられました。あなたの愛と恵みに心から感謝致します。
 主よ、あなたは聖書の言葉を通して私達に絶えず語りかけて下さいます。私達が今置かれている状況は一人一人違います。しかし、私達にあなたの御声を聞かせて下さい。試練や困難の中にある人、病で苦しんでいる人をあなたが支え、立ち上がらせて下さい。私達があなたの御名をほめたたえる日々を送ることが出来ますよう導いて下さい。
 主よ、イエス・キリストが私達一人一人の内に蒔いて下さった御言葉の種は、私達がイエス・キリストの内に留まる時、からし種が大きな木になるように、パン種が膨れるように成長していきます。私達のもとに到来した神の国が私達の生活の中で広がっていきますように。また、私達があなたを信頼し、神の国と神の義が実現するために進み出すことが出来ますように。木の枝に鳥が巣を作るように、神の国が私達を通して隣人や社会に広がっていきますように。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

祈り マタイによる福音書25章1~13節

祈り マタイによる福音書25章1~13節(新共同訳 新約p.49)

 天の父よ、あなたの聖なる御名を心からほめたたえます。あなたの御言葉をお与え下さり、有り難うございます。
 主よ、あなたは暗闇の中を歩いていた私達に光を与え、光を照らし、私達の内にあなたのともし火を灯して下さいました。あなたが与えて下さった聖霊の火は、私達が眠っている時にも何も出来ない時にも決して消えることがありません。このともし火にあなたの油を注ぎ続けて下さい。
 主よ、ご高齢のため、ご病気のため、その他様々な事情のため、今礼拝に集うことの出来ない兄弟姉妹のことを祈りに覚えます。あなたはそのお一人お一人の中にあなたのともし火を確かに灯されました。あなたが灯して下さった光の中をその方々が歩み続けることが出来ますようお助け下さい。そして、御子イエス・キリストが再び来られる時、私達があなたからいただいたともし火を持って、イエス・キリストを迎えることが出来ますよう、私達を力づけ、励まし、導いて下さい。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

祈り ルカによる福音書12章49~59節

祈り ルカによる福音書12章49~59節(新共同訳 新約pp.133-134)

 天の父よ、あなたの聖なる御名を心から讃美致します。あなたの御言葉をお与え下さり、有り難うございます。
 主よ、あなたは御子イエス・キリストをこの地上に送って下さいました。そして、十字架において私達の罪を全て贖って下さいました。イエス・キリストを通してあなたと出会えたことを心から感謝致します。このような者のためにご自分の命を捨てて下さったイエス・キリストの御愛に心から感謝致します。
 主よ、イエス・キリストは「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」と言われました。イエス・キリストの投ずる火に私達が燃やされて生きる時、私達の周囲にいる人達もイエス・キリストに出会うことが出来ます。どうかあなたの火をもって私達を焼やして下さい。また、私達はあなたの御手の中にある土くれです。あなたの火の中に入れられることによって私達は新しくされ、あなたに用いていただけるような器とされます。あなたの御心のままに私達をつくりかえて下さい。私達の内側をきよめ、あなたの御思いを心の中に保ちながら生きていくことが出来ますよう助け導いて下さい。
 主よ、あなたは私達の全てです。私達は弱く、倒れ易い者です。私達に疑いが起こる時、恐れが生じる時、どうか私達を支えて下さい。日々の生活の中において光を見出せない時、あなたが私達に光を照らして下さい。あなたの光に包まれて、私達が信仰と希望と愛をもって生きることが出来ますように。また、私達にあなたを見上げ、今の時を見分ける霊の目をお与え下さい。あなたが目を開いて下さいますから、私達はあなたの徴を見ることが出来ます。そして、あなたに感謝と讃美を献げる者とされます。
 主よ、私達はあなたの溢れる恵みにどのように応えたらよいのでしょうか。あなたが私達と共にいて下さるから、私達は生きていくことが出来ます。信じる者に働いて下さるあなたの大いなる御力を経験しながら、この地上の生涯をあなたと共に歩むことが出来ますように。どのような状況の中にあっても決して揺らぐことのないあなたの喜びを私達に堅く据えて下さいますよう心からお願い致します。
 主よ、あなたにまだ出会っていない方がおられるならば、あなたがその方に触れて下さい。その方の心の中にあなたの火を投じて下さい。あなたの御言葉を聴くことが出来るよう声をかけ、その耳を開いて下さい。また、病に苦しむ方がおられるならば、あなたが天から御手を伸ばし、その上に御手を置いて癒して下さいますようお願い致します。困難の中にあるお一人お一人にあなたが解決の道を備えて下さることを信じます。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

祈り ルカによる福音書12章35~48節

祈り ルカによる福音書12章35~48節(新共同訳 新約pp.132-133)

 天の父よ、あなたの聖なる御名を心から讃美致します。今日一日私達を守って下さり、有り難うございます。あなたの御言葉をお与え下さり、有り難うございます。
 主よ、あなたの尊い愛を心から感謝致します。御子イエス・キリストは愛のなかった私達の内に愛の火を灯して下さいました。罪深い私達のために十字架でご自身の命を献げて下さいました。愛のなかった私達に愛に生きようという願いが与えられたのは、イエス・キリストが私達に愛を注いで下さったからです。あなたの愛によって私達を新しくして下さったことを感謝致します。
 主よ、私達は今もう一度あなたにお願いを致します。どうか聖霊なる主を私達の内に注ぎ、満たして下さい。あなたの愛に燃えされる時、私達はあなたをほめたたえる者となっていくでしょう。隣人を愛し、隣人のために祈らずにはいられない者となっていくでしょう。私達をあなたの愛に生きる者として下さいますようお願い致します。
 主よ、あなたの御子イエス・キリストはこの地上にもう一度来て下さいます。それがいつなのかは私達には分かりません。また、私達がいつ地上の人生を終え、眠りに就くのかも、あなただけがご存知です。しかし、イエス・キリストが予想しない日、思いがけない時に来られたとしても、イエス・キリストが私達を握って下さっています。イエス・キリストが戻られるまでの間、私達が多くのものを与えられたとしても、少しのものを与えられたとしても、多くのことを任されたとしても、少しのことを任されたとしても、あなたが求められることを果たしながら生きる者とさせて下さい。毎日の生活において祈りと感謝と讃美をあなたに献げることが出来ますよう、私達を守り助けて下さい。そして、私達の周囲にいる隣人、特に家族、また同じ教会に属する兄弟姉妹に対する愛を強めて下さいますようお願い致します。
 主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。