Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書22章54~62節

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書22章54~62節(新共同訳 新約p.156)

(1) ペトロの否認(54~60節)

 イエス・キリストは、ゲツセマネの園で祭司長達に捕えられ、「大祭司の家」に連れて行かれた。イエス・キリストは私達の罪のために十字架への道を歩まれた。
 この時、他の弟子達は逃げたが、ペトロは「遠く離れて」付いて行った(54節)。イエス・キリストがこれからどうなるのか心配になったのだろう。そして、大祭司の「屋敷の中庭の中央」で人々に混じって、遠くからイエス・キリストに目を凝らしていた。
 しかし、ペトロが人々に混じってたき火に当たっていると、大祭司の女中と2人の人が「この人も一緒にいました」(56節)、「お前もあの連中の仲間だ」(58節)、「確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから」(59節)と言い出した。彼らの言葉に対し、ペトロは「わたしはあの人を知らない」とイエス・キリストとの関係を3度も否定した(57節、58節、60節)。その時、鶏の鳴く声が聞こえてきた(60節)。
 それまでペトロは「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」(33節)と大言壮語していた。彼は、イエス・キリストの一番弟子であると自負し、自分だけはどこまでもイエス・キリストに付いて行くという自信があった。だが、死の恐怖、人に対する恐怖から、自分はイエス・キリストと何の関係もない、「あなたの言うことは分からない」とイエス・キリストを恥じ、否認してしまった。
 私達も死を恐れ、この世を恐れ、人を恐れて、イエス・キリストを否定し、イエス・キリストに従うのを諦めてしまいそうになることがある。ペトロのように、この世との衝突を恐れる余り、イエス・キリストから「遠く離れて」付いて行く者になってしまうことがある。この世と妥協し、行くべき道に進めなくなることがある。それどころか、脅かしや困難や自分が損をする状況に直面した途端、簡単にイエス・キリストを否認してしまうこともある。
 イエス・キリストはこの世に対して既に勝利されている(ヨハネによる福音書16章33節)。だから、この世のいかなるものもイエス・キリストの内にある者を打ち負かすことは出来ない。イエス・キリストは御手をもって私達を守って下さる。サタンはこの世の力によって私達を脅かしてくるが、私達はそのような脅かしに負けてはならない。

(2) ペトロの号泣(61~62節)

 ペトロがイエス・キリストとの関係を3度否定した時、イエス・キリストは振り向いて、彼を見つめられた(61節)。その瞬間、ペトロは「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」(34節)というイエス・キリストの言葉を思い出し(61節)、外に出て激しく泣いた(62節)。
 イエス・キリストがペトロを見つめられたのは恵みである。イエス・キリストはご自分との関係を否定した者に対しても恵みを注がれる。しかし、この恵みは私達が罪を犯してもいいというものではない。私達に罪に気付かせるものである。その上で、私達を悔い改めさせ、ご自身に立ち帰らせようとされる。イエス・キリストの眼差しは、ペトロに自分がどのようなことをしてしまったかを悟らせ、悔い改めへと導いた。
 自分の罪を否定せず、正当化せず、認めて、心から悔い改めるなら、イエス・キリストは私達に十字架の血潮の恵みを更に注いで下さる。そして、イエス・キリストが罪の赦しを与えて下さったことを聖霊によって確信させて下さる。そのことによって、イエス・キリストは私達が再び立ち上がることが出来るように力づけて下さる。

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書22章39~53節

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書22章39~53節(新共同訳 新約pp.155-156)

(1) 天の父の御心を求めるイエス・キリスト(39~46節)

 イエス・キリストは、弟子達と共に「いつものようにオリーブ山に行」き、祈りを献げられた(39節)。そして、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」(42節)と祈られた。イエス・キリストにとって十字架の死が耐え難かったのは、十字架が肉体的に過酷な刑だからだけではない。自分が負わなければならない人類の罪が余りにも重かったからである。熱心に祈られる余り、「汗が血の滴るように地面に落ち」(44節)るほどであった。
 それにもかかわらず、イエス・キリストは「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(42節)と最後まで天の父に従われた。イエス・キリストは、天の父がこの世を愛し、人間を救うことを願われて、自分を遣わされたことを知っておられた(ヨハネによる福音書3章16節)。それ故、十字架を負うことがどれほど苦しくても、天の父の御心に従うことを願われた。そのことによって、ご自分の愛を余すところなく示された(同13章1節)。天使も「天から現れて」、イエス・キリストを力づけた(43節)。
 一方、弟子達は、「誘惑に陥らないように祈りなさい」(40節)というイエス・キリストの言葉に従うことが出来ず、深く眠り込んでしまった。私達はどうだろうか。誘惑に陥らず、天の父の御心に従うためには祈りが必要である。天の父の助けがなければ、私達は試練や誘惑に勝つことは出来ない。

(2) ご自分を引き渡されるイエス・キリスト(47~53節)

 イスカリオテのユダは、イエス・キリストがオリーブ山で祈られる時を引き渡す機会と考え、イエス・キリストを捕える人々を連れて来た(47節)。その際、ユダが接吻することによって誰がイエス・キリストであるかを示すことになっていた(マルコによる福音書14章44節)。イエス・キリストは、全てをご存知でありながらも、ユダに「あなたは接吻で人の子を裏切るのか」(48節)とだけ言われた。
 また、イエス・キリストが捕えられると、ペトロがマルコスという「大祭司の手下に打ちかかって、その右の耳を切り落とした」(50節、ヨハネによる福音書18章10節)。それに対し、イエス・キリストは「やめなさい。もうそれでよい」と言って、剣を納めるよう命じられた。そして、自分を捕えに来た者の耳を癒された(51節)。
「祭司長、神殿守衛長、長老たち」(52節)は、民衆がいない時を狙って、「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来」(52節)た。彼らはイエス・キリストを捕える機会をずっと狙っていた。しかし、民衆を恐れて(2節)、イエス・キリストが「毎日、神殿の境内」(53節)で教えておられた時にはそれが出来ずにいた。イエス・キリストの弟子の一人と結託したことによって捕縛が可能となった。
 それに対し、イエス・キリストは「今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている」(53節)と言われた。以前人々は「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」(11章15節)とイエス・キリストを非難したことがあったが、今や自分達がサタンの僕となっていた。
 一方、イエス・キリストが捕えられたのは、イエス・キリストに力がなかったからではない。イエス・キリストは「十二軍団以上の天使」(マタイによる福音書26章53節)を呼ぶこともお出来になる方である。私達は、弟子に裏切られ、宗教指導者によって捕えられるイエス・キリストを見て、サタンが全てを支配し、イエス・キリストもそれに勝つことが出来ないかのように考えてはならない。寧ろイエス・キリストは、天の父の御心に従うことを願われたから、ご自身をサタンに引き渡された。
 私達はイエス・キリストが十字架を負うことによって示された天の父の愛と忍耐を悟り、より深く心に刻む必要がある。イエス・キリストの愛と忍耐が私達を救った。だから、私達も愛と忍耐をもって隣人を受け入れなければならない。そのためにもイエス・キリストの十字架を常に仰ぎ見よう。

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書22章24~38節

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書22章24~38節(新共同訳 新約pp.154-155)

(1) 仕える王イエス・キリスト(24~30節)

 イエス・キリストが十字架を前にしていたにもかかわらず、弟子達は「自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論」(24節)をしていた。彼らは、イエス・キリストが王になられた時、自分には高い地位に就く資格があると競い合った。このことは、弟子達が依然としてイエス・キリストの謙遜と献身について理解していなかったことを示している。教会においてもこの世の基準に従って上下関係が決定されることがある。
 それに対し、イエス・キリストは、神の国では「いちばん若い者のように」なる者が「いちばん偉い人」とされ、「仕える者」が「上に立つ人」になると語られた(26節)。イエス・キリストご自身も仕えるために来られ、公生涯の間、人々に仕えられた。イエス・キリストの仕える姿は十字架の贖いの死において頂点に到る。イエス・キリストはご自分の命を差し出して、罪人である私達のために仕えて下さった(フィリピの信徒への手紙2章6~8節)。主なる神は、そのようなイエス・キリストに「支配権をゆだね」(29節)、神の国でご自身の右の座に就かせられた。
 その上で、イエス・キリストは、ご自分が「種々の試練に遭ったとき」、「一緒に踏みとどま」った弟子達に(28節)、神の国で共に祝福に与り、新しく形成された神の国の民を治めさせることを約束された(29~30節)。イエス・キリストは、弟子達がご自分に倣って、仕えて生きることを願われた。イエス・キリストの十字架によって私達は変えられ、仕える者とされる。

(2) 弟子達のために祈られるイエス・キリスト(31~34節)

 イエス・キリストは弟子達に「サタンがあなたがたを、小麦のようにふるいにかける」(31節)と語られた。サタンはイエス・キリストを主と信じる者を信仰から離れさせようと手を尽くす。ペトロは後にサタンを「だれかを食い尽くそうと探し回って」いる「ほえたける獅子」に喩え、「信仰にしっかりと踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい」と教えている(ペトロの手紙一5章8~9節)。
 人間は弱く、惑わされ易い。ペトロ自身、この時は「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」(33節)と大言壮語している。しかし、イエス・キリストは彼に「あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう」(34節)と予告し、実際その通りになった(54~62節)。他の弟子達もイエス・キリストが捕まると皆逃げてしまった。
 弟子達はイエス・キリストが行かれる道を全く理解していなかった。しかし、イエス・キリストは、そのような弟子達を見捨てず、彼らの「信仰が無くならないように祈」(32節)られた。私達も躓き、失敗し、絶望することがある。にもかかわらず、私達が最後まで信仰を失わないでいられるとしたら、それはイエス・キリストが守り、執り成して下さるからである(ローマの信徒への手紙8章34節)。
 更に、イエス・キリストは、ペトロが「立ち直った」後、「兄弟たちを力づけ」ることを願われた(32節)。イエス・キリストは、ご自身に従う者が神の国のために生きることが出来るように力を与えて下さる。使命を与え、それを果たすことが出来るようにして下さる。私達が直面する試練は耐えることの出来る試練である(コリントの信徒への手紙一10章13節)。イエス・キリストが力を与えて下さるから、私達は神の国のためにチャレンジすることを迷ってはいけない。

(3) 弟子達に備えさせるイエス・キリスト(35~38節)

 イエス・キリストは、神の国を宣べ伝えるために弟子達を遣わされた時、「旅には何も持って行ってはならない」(9章3節)と言われ、「財布も袋も履物も持たせ」(35節)なかった。それでも、彼らが何も不足することがないようにされた(35節)。
 しかし、ご自身の十字架の死を前にして、今度は弟子達にそれらと共に護身用の剣を買うように言われた(36節)。イエス・キリストが逮捕され、十字架で処刑されれば、弟子達も「犯罪人」(37節)の仲間として追われる身になることを知っておられたからである。「その人は犯罪人の一人に数えられた」というイザヤの預言は、イエス・キリストが2人の犯罪人と共に十字架につけられることによって成就した(37節、イザヤ書53章12節)。
 イエス・キリストは、十字架の死を前にしても、変わることなく弟子達を気にかけられた。また、聖霊を送って下さり、彼らと共におられた。イエス・キリストが再び来られる日に喜びをもって迎えていただけるよう、私達は最善を尽くさなければならない。

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書22章14~23節

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書22章14~23節(新共同訳 新約pp.153-154)

(1) 新しい契約の締結としての主の晩餐(14~20節)

 捕らえられる前夜、イエス・キリストは弟子達と共に過越の食事をされた(14節)。そして、自分がこの時をどれほど願っておられたかを語られた(15節)。イエス・キリストにとってこの食事は「神の国で過越が成し遂げられる」ために十字架で死ぬことへと繋がるものであった(16節)。十字架への道は、イエス・キリストが「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」(42節)と祈られたほど困難な道であった。にもかかわらず、人間が罪を赦されて救われ、神の国に入れられるために、イエス・キリストは「過越の小羊」(7節)としてこの苦難の道を自ら進んで行かれた。
 その上で、イエス・キリストは、弟子達と過越の食事をしながら、ご自分が遂げられる十字架の死の意味を明かされた。主なる神に感謝の祈りを献げ(17節、19節、20節)、パンを裂いて与えながら、「これは、あなたがたのために与えるわたしの体である」(19節)と、またぶどう酒の入った杯を与えながら、「これは、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」(20節)と言われた。
 イエス・キリストが人類の罪を贖うために十字架で死なれたことによって「新しい契約」がなされた。イエス・キリストは新しい契約の成就者である。イエス・キリストを主と信じる者は、主の晩餐を通して、イエス・キリストの体と血を象徴するパンと杯に与り、イエス・キリストの十字架の恵みと赦しを「記念」(19節)する。これは信仰告白である。バプテスマは信仰者としての人生の始まりであり、主の晩餐はバプテスマの意味を繰り返し想い起こすことである。

(2) イエス・キリストを裏切る者の不幸(21~23節)

 イエス・キリストは、弟子達と過越の食事をされながら、彼らの中にご自分を裏切る者がいると告げられた(21節)。弟子達は「自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのか」分からず、「互いに議論をし始めた」(23節)。しかし、イエス・キリストはそれがイスカリオテのユダであることをご存知であった。私達は心の中で考えていることを他の人には隠すことが出来ても、イエス・キリストには隠すことが出来ない。
 その上で、イエス・キリストは「裏切るその者は不幸だ」(22節)とお語りになった。イエス・キリストは「定められたとおり」(22節)十字架への道を進もうとされていた。ユダはそのようなイエス・キリストにこれ以上従っても仕方がないと見切りをつけたのかも知れない。だが、十字架への道を歩まれたイエス・キリストに復活の栄光があったように、イエス・キリストに従う者は神の国に入る資格を与えられる。ユダはその祝福に与ることが出来ない。イエス・キリストは私達が神の国に入る恵みを受けることを願っておられる。イエス・キリストに従い、神の国を望みながら喜びをもって歩んでいこう。

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書22章1~13節

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書22章1~13節(新共同訳 新約p.153)

(1) 宗教指導者とユダを通してイエス・キリストを殺そうとするサタン(1~6節)

「祭司長たちや律法学者たち」は、イエス・キリストを「殺すにはどうしたらよいか」考えていた(2節)。民衆がイエス・キリストの「話を聞こう」と「神殿の境内」に集まっていたからである(21章38節)。彼らは以前にも自分達を批判するイエス・キリストを捕らえようとした。しかし、「民衆を恐れ」て実行出来ずにいた(20章19節)。この時も同様であった(2節)。
 そのような中、「十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダ」(3節)が彼らを訪ね、「どのようにしてイエスを引き渡そうかと相談をもちかけた」(4節)。このことによって、彼らは遂にイエス・キリストを捕える機会を得た。「祭司長たちや神殿守衛長たち」(4節)は、「ユダに金を与えること」(5節)を約束し、ユダはこれを承諾した。それからユダはイエス・キリストを「群衆のいないときに」(6節)引き渡す機会を伺った。
 福音書記者ルカは、この時「ユダの中に、サタンが入」(3節)っていたと記している。サタンは、ユダと宗教指導者を通して、イエス・キリストの働きに終止符を打ち、失敗させようとした。サタンは今も歩き回り、私達からイエス・キリストへの信仰を奪い去ろうと狙っている。その際、サタンは私達の思いや考えを支配することによって、私達の行動を支配しようとする。この世で認められ、平穏無事に暮らすために名誉や金に頼るように勧め、イエス・キリストだけに依り頼むのは愚かなことであると思わせようとする。
 教会の歴史においても、サタンは、信仰者を脅したり、疑いを起こしたり、金や名誉などで誘惑したりして、罪を犯させ、教会の中に混乱を引き起こし、教会を倒そうとしてきた。私達は、聖書を通してサタンの道具に転落してしまった人々を見る中で、「いつも目を覚まして祈」(21章36節)らなければならないことを教えられる。「自分は絶対に大丈夫だ」と思っても、私達は弱い。私達は聖霊によって罪の誘惑に打ち勝たなければならない。

(2) 過越の小羊として進まれるイエス・キリスト(7~13節)

 イエス・キリストは、ペトロとヨハネを遣わし、「過越の食事ができるように準備しなさい」(8節)と命じられた。この時、過越祭のために各地から非常に多くの人がエルサレムに来ていた。そのため、食事をする部屋を探すことは容易ではなかった。しかし、弟子達がイエス・キリストの指示通りに行うと、イエス・キリストと弟子達のために「席の整った二階の広間」(12節)が用意されていた。ペトロとヨハネは、イエス・キリストの言葉が成就するのを目の当たりにして、過越の食事を準備した(13節)。
 宗教指導者とユダの結託により、イエス・キリストを殺す陰謀が進展した。しかし、福音書記者ルカは過越の食事を自ら備えられるイエス・キリストの姿を強調する。そのことによって私達は、イエス・キリストの死が他人に諮られたものであるだけでなく、イエス・キリストご自身によって備えられたものであると知ることが出来る。イエス・キリストは「過越の小羊」(7節)として罪人を救うために自らその道を進まれたのである。
 私達はこの世の権力者や指導的な地位・立場にある人間が自分の生殺与奪を握っていると考える。そのため彼らを恐れてしまうこともある。しかし、主なる神が許されなければ、彼らは何もすることが出来ない。この世で権勢を持つ者の上に主なる神がおられる。彼らがすることは全て主なる神の摂理の中にある。だから、私達は、偽りがなく、憐れみ深い主に依り頼まなければならない。

聖書の黙想と適用 マタイによる福音書26章36~46節

聖書の黙想と適用 マタイによる福音書26章36~46節(新共同訳 新約p.54)

(1) 悲しみもだえるイエス・キリスト(36~39節)

 イエス・キリストは弟子達と共にゲツセマネにやって来た(36節)。ゲツセマネはイエス・キリストが弟子達と祈っていた場所であったので、ユダもよく知っていた(ルカによる福音書22章39節、ヨハネによる福音書18章2節)。イエス・キリストはユダの裏切りをご存知であったが、天の父の御心に従われた。
 イエス・キリストは弟子達に「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」(36節)と命じ、ペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、祈りに行かれると、悲しみもだえ始められた(36節)。イエス・キリストは、彼らに「わたしは死ぬばかりに悲しい」とご自分の苦しい心情を吐露され、「ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい」(38節)と願われた。それから、少し離れた所に行くと、イエス・キリストはうつ伏せになり、「父よ、できることなら、この杯を過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」(39節)と祈られた。「この杯」とは、ゼベタイの息子達の母との対話においてイエス・キリストが言及されたように(20章22節)、十字架の死を指している。
 イエス・キリストは近づきつつある死の前で、深く悩み悲しまれた。その苦しみは十字架刑がもたらす肉体的な苦痛以上のものだった。全人類の全ての罪を負うことによって天の父の怒りがイエス・キリストに降り注ぐからである。しかも、イエス・キリストほどその恐ろしさを知っておられる方もいない。罪のある私達が本来受けるべき苦しみを、罪のないイエス・キリストが苦しまれた。

(2) 天の父の御心に従うイエス・キリスト(40~46節)

 イエス・キリストは、弟子達が眠っているのを御覧になり、「わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか」(40節)と言われた。そして、「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」(41節)と語られた。
 それから、イエス・キリストは「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように」(42節)と再び祈られた。更に、イエス・キリストは同じ言葉でもう一度祈られている(44節)。イエス・キリストは「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」(6章10節)と祈ることを教えられたが、ご自身も主なる神の御心に従う祈りを献げられた。
 この間も弟子達は眠気に勝つことが出来なかった(43節)。イエス・キリストが2度も目を覚ましているよう命じられたにもかかわらず、彼らは起きていることが出来なかった。ご自分に迫っている十字架の死に祈りによって備えられたイエス・キリストと、この緊迫した状況にあっても眠っていた弟子達を、福音書記者マタイは対照的に描いている。イエス・キリストは彼らを起こし、「わたしを裏切る者が来た」(46節)と告げられた。

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書21章29~38節

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書21章29~38節(新共同訳 新約pp.152-153)

(1) エルサレムの滅亡に備える(29~33節)

 イエス・キリストは、「いちじくの木や、ほかのすべての木」(29節)を例に挙げ、前兆からエルサレムの滅亡の時が近づいたことを悟るよう話された。イスラエルでは春がとても短く、突然夏を迎える。人々は温度の変化を感じなくても、「葉が出始める」のを見て、「夏の近づいたこと」を知る(30節)。同様に、弟子達は前兆を見たら、「神の国が近づいている」(31節)ことを悟る必要があった。エルサレムの滅亡はイエス・キリストが語られた通りに必ず起こるからである(32節)。
 その上で、イエス・キリストを主と信じて従う者は救われる。しかし、イエス・キリストを信じない者は、イエス・キリストを拒絶したエルサレムが滅亡したように裁きを受ける。その意味で、前兆は主なる神の恵みである。前兆を見る時、自分を顧み、その日に備えることが出来るからである。
 今日の教会の世俗化は、裁きに対する感覚の喪失も無関係ではない。裁きを信じなければ、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」(コリントの信徒への手紙一15章32節)とこの世の人生が全てであるかのように考え、生きるようになる。この世には終わりがあること、また神の国の完成があることを信じなければならない。

(2) いつも目を覚まして祈る(34~38節)

 イエス・キリストは弟子達に、前兆について語られ、その前兆を通してエルサレムの滅亡に備えるよう教えられた。これはエルサレム滅亡の具体的な日時を予測するということではない。「その日」(35節)は「不意に罠のように」(34節)やって来るので、誰も知ることが出来ない。ただ主なる神だけがご存知である(マタイによる福音書24章36節)。ここでイエス・キリストが求められたのは、前兆を見たら、心を引き締めて生きるということであった。
「人の子の前に立つ」(36節)日が来ることを考えない者は、前兆があっても、それに気付くのが難しい。「放縦や深酒や生活の煩い」によって「心が鈍く」なっているからである(34節)。それ故、イエス・キリストは、主なる神の御心に忠実に生きるために「いつも目を覚まして祈りなさい」(36節)と言われた。
 それから、イエス・キリストは、「日中は神殿の境内で教え」、夜は「『オリーブ畑』と呼ばれる山」で休まれた(37節)。イエス・キリストエルサレムの滅亡について話された後、民衆はイエス・キリストの話を聞くために「朝早くから」神殿に向かった(38節)。イエス・キリストの言葉を聴くことを通して、私達は「その日」に備えてこの世でどのように生きればよいかを知ることが出来る。私達にも、主なる神の救いの摂理、イエス・キリストの十字架と復活の福音、この世の始まりと終わり、神の国の到来と完成についての主なる神の啓示として聖書が与えられている。

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書21章20~28節

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書21章20~28節(新共同訳 新約p.152)

(1) エルサレムの滅亡についての預言(20~24節)

 イエス・キリストは、エルサレムが異邦人の軍隊によって「軍隊に囲まれ」(20節)て滅ぼされることを弟子達に預言された。そして、その時になったら、エルサレムから出来る限り離れ、逃げるよう指示された(21節)。また、弱い立場にある「身重の女と乳飲み子を持つ女」を憐れに思われた(23節)。
 エルサレムの滅亡は「神の怒り」(23節)の故に下る裁きであった。イスラエルの民は、神殿のあるエルサレムを永遠の都であると信じていた。しかし、主なる神から離れたエルサレムには厳しい裁きが待っていた。かつてノアの時代の大洪水、ソドムとゴモラの滅亡、イスラエル王国の滅亡などがあったように、その日は「人々は剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれ」、「エルサレムは異邦人に踏み荒らされる」屈辱の日となる(24節)。イエス・キリストの預言は、A.D. 70年にローマ帝国の軍隊がエルサレムを包囲したことによって成就された。
 イエス・キリストは、以前ご自身とその福音を拒むエルサレムの行く末を思って涙を流された(19章41~44節)。私達は主なる神の裁きを聖書の言葉通りに信じ、警告として受け入れているだろうか。現代は主なる神の裁きについて考えない時代である。教会やクリスチャンですら、主なる神の裁きについて考えなくなっているように見える。自分の欲望に従う生活を変えたくないからである。しかし、主なる神の言葉は必ず成就する。

(2) 人の子についての預言(25~28節)

 エルサレムが陥落し、神殿が破壊されると、イスラエルの権威は失墜する。彼らは主なる神との関係において特権的な地位を失う。その時、「太陽と月と星に徴が現れ」たり、「海がどよめき荒れ狂う」など、様々な天変地異が起こる(25節)。天体は主なる神の僕として創造された(創世記1章16~18節)。それ故、旧約の預言者は「天体が揺り動かされる」(26節)ことをもって主なる神の裁きを表現した(イザヤ書13章10節、エゼキエル書32章7節、ヨエル書2章10節、3章4節、アモス書8章9節)。
 その上で、イエス・キリストは「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る」(27節)とお語りになった。イエス・キリストは、この言葉において、ご自分がダニエル書7章13節で預言された「人の子」であり、メシアであると宣言された。最高法院での裁判においてもイエス・キリストは「今から後、人の子は全能の神の右に座る」(22章69節)と言われている。
 天変地異が起こり、人の子が来るのを見た時、「諸国の民」は「この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失う」(26節)。しかし、イエス・キリストを主と信じる者にとっては、それは「解放の時」(28節)であった。何故なら、イエス・キリストが天地万物の主権者であられるということがはっきりと示されたからである。
 イエス・キリストはその日になすべき行動として「身を起こして頭を上げなさい」(28節)とお語りになった。これは喜びをもってイエス・キリストを迎えることの勧めである。信仰を最後まで守り続けた者に、イエス・キリストは「称賛と光栄と誉れ」(ペトロの手紙一1章7節)をお授けになる。イエス・キリスト神の国の王であられ、信じる者は神の国の民である。そして、神の国は永遠に滅びることがなく、歴史において拡大し、全世界に及ぶ。真の救いと希望はイエス・キリストの内にのみ存在する。

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書21章10~19節

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書21章10~19節(新共同訳 新約pp.151-152)

(1) 迫害の予告(10~13節)

 イエス・キリストは、エルサレム神殿が崩壊する時(6~7節)、「戦争とか暴動」(9節)の話を聞いたり、「大きな地震」があったり、「方々に飢饉や疫病が起こ」ったりすると予告された(11節)。また、その時には、イエス・キリストを主と信じ、従う者に対する激しい迫害も起こる(12節)。弟子達は「会堂や牢に引き渡」され、イエス・キリストの「名のために王や総督の前に引っ張って行」かれる(12節)。イエス・キリストが語られた迫害は、神殿崩壊以降も続いた。聖霊降臨に始まる教会の時代は、神の国の拡大に抵抗する者との戦いの時代でもある。
 しかし、この迫害はイエス・キリストの「証しをする機会となる」(13節)とも主は告げられた。実際、迫害の中で福音は力強く宣べ伝えられた。福音を宣べ伝えることを諦めたり、出来ないと思ってしまう最大の理由は、この世を恐れること、人を恐れることである。しかし、この世は迫害によってイエス・キリストを主と信じる者を滅ぼし尽くすことは出来ない。苦しい時ほど失望せず、福音の真理の上に堅く立とう。

(2) イエス・キリストが与えて下さる言葉と知恵(14~19節)

 これから迫害に直面する弟子達に対し、イエス・キリストは「どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵」(15節)を与えると約束された。それ故、弟子達は尋問を受ける時、「前もって弁明の準備をする」(14節)必要はなかった。主なる神が私達と共にいて下さる。イエス・キリストが私達に聖霊を送って下さる。聖霊が私達に語る言葉と知恵を与えて下さる。それ故、私達は最良の対応の仕方を見出すことが出来る。弟子達は主なる神から与えられた知恵によって迫害に耐えつつ、福音を証しする人生を送った。
 また、イエス・キリストは弟子達に対し、最後まで主なる神に堅く拠り頼み、試練と苦難に耐え忍び、任された働きを続け、「命をかち取」(19節)るよう励まされた。迫害の中で弟子達は近く親しい関係にある「親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる」ことがある。それどころか、「殺される者」さえいる(16節)。信仰のある所には憎しみや敵対も存在する。しかし、これらは主なる神の不在や無能の証拠ではない。「十字架につけられたキリスト」(コリントの信徒への手紙一1章23節)において主なる神の知恵と力が現されたように、迫害や苦難の中でこそ、主なる神の知恵と権能は現される。
 イエス・キリストを主と信じる者は、迫害の中にあっても主なる神によって守られている。イエス・キリストは「あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない」(18節)と弟子達を励まされた。それ故、弟子達はこの世のいかなるものも恐れる必要はなく、この世にあって大胆に生きていくことが出来た。全知全能の主なる神の守りと導きを信じるなら、私達は絶望の時にも耐え、希望を抱いて歩み続けることが出来る。諦めと絶望は信仰者には似合わない。聖霊の導きを信じ、信仰に堅く立って、いかなる時も主に従っていこう。

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書21章1~9節

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書21章1~9節(新共同訳 新約p.151)

(1) レプトン銅貨2枚を献げる貧しいやもめ(1~4節)

 エルサレム神殿の本殿に入る門の所に「賽銭箱」(1節)が13個置かれていた。イエス・キリストは賽銭箱の向かい側から群衆が献金するのを御覧になっていた(マルコによる福音書12章41節)。金持ちは、お金を入れる音が大きく聞こえるよう、わざと銅貨に換えたりした。お金の音が響くことによって沢山のお金を献げていると褒められるからである。教会においても、ヤコブが誤った考えの例として語ったように(ヤコブの手紙2章1~4節)、この世の有力者が発言力を持っているかも知れない。この世と同じように、富と権力のある人が教会の中でも立てられるとしたら、教会はこの世と変わらなくなってしまう。
 イエス・キリストは「有り余る中から献金した」金持ちよりも「レプトン銅貨二枚を入れ」(2節)た「貧しいやもめ」を「だれよりもたくさん入れた」(3節)と称賛された。彼女は「乏しい中から持っている生活費を全部入れ」(4節)ることによって、主なる神だけに頼り、主なる神に栄光を帰したからである。
 主なる神は全てをご存知であられる。私達は外面を見るが、主なる神は心を御覧になる。主なる神は、私達が心を尽くして仕えることを望んでおられ、私達に聖霊を授け、新しい心を与えて下さる(エゼキエル書36章26節)。頑なで悪い心を持っていた私達をご自分の民とし、その心に律法を記して下さる(エレミヤ書24章7節、31章33節)。主なる神は心を尽くしてご自身を愛することを私達に望んでおられる。

(2) 神殿の崩壊を予告する(5~9節)

 ヘロデ王が再建した神殿は「見事な石と奉献物で飾られて」(5節)いた。人々は雄壮な建物を見て感嘆した(6節)。しかし、イエス・キリストは、神殿の堕落した実状をご存知であったので、寧ろ心を痛められた。「祈りの家でなければならない」神殿が、一部の人間が自分の利益を追求する「強盗の巣」になり果てていたからである(19章46節)。
 イエス・キリストは、神殿の「一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る」(6節)とお語りになり、神殿の破壊を予告された。主なる神は何よりも真の信仰を求められる。どれほど美しく雄壮な神殿であっても、信仰に内実がなければ裁きを免れない。私達の信仰はどうであろうか。真の信仰を失って、表面を装うことにばかり気を遣うようであってはならない。表面的・形式的な信仰は一種の欺きである。それはとても敬虔に見えることさえある。しかし、そのような信仰はいつか必ず本質が表面化する。
 真の信仰の中心はイエス・キリストである。イエス・キリストの他に救い主は存在せず、他のものが人間を救うことはない。イエス・キリストは自分こそが救い主であると名乗る人間に惑わされないよう警告された(8節)。「戦争とか暴動のことを聞」(9節)くと、多くの人が恐れ、その偽りの救い主に付いて行ってしまう。しかし、イエス・キリスト以外の救いを信じることは、真の信仰から離れることであり、形式的な宗教生活への道でもある。イエス・キリストの十字架と復活だけが唯一の救いであるということは「世の終わり」が訪れても変わらない。この福音の真理を心にしっかりと刻み、その上に堅く立とう。