Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 民数記13章1~24節

聖書の黙想と適用 民数記13章1~24節(新共同訳 旧約pp.233-234)

(1) 偵察隊派遣の命令(1~16節)

 カナンは主なる神がイスラエルに与えると約束された地であった。主なる神はモーセに「人を遣わして、わたしがイスラエルの人々に与えようとしているカナンの土地を偵察させなさい」(2節)と命じられた。モーセは、「主の命令に従」(3節)って、「父祖以来の部族ごとに一人ずつ」(2節)、「人々の長である人々」(3節)を派遣した。その中の一人に、後にモーセの後継者としてイスラエルの民を導く「ヌンの子ホシェア」(7節)、即ちヨシュアもいた(16節)。
 主なる神は、イスラエルの民がカナンの地に入る前に、主なる神の約束に対する確信と希望を抱くことを願われた。主なる神は、イエス・キリストを通して、私達にも神の国に対するビジョンを見せて下さった。また、神の国が地に満ち拡がっていくために、私達に聖霊を送って下さる(使徒言行録1章8節)。聖霊は私達の目を開き、明確なビジョンを見させて下さる。そして、私達を主なる神の御心を行う者として下さる。

(2) カナン偵察(17~24節)

 モーセは、偵察隊を遣わすにあたり(17節)、カナンの土地とその住民の状況を把握するよう命じた(18節)。また、先住民との戦いに備えて、「彼らの住む町がどんな様子か、天幕を張っているのか城壁があるのか」(19節)調べる任務を与えた。そして、土地が「肥えているかやせているか、木が茂っているか否か」を知るために「その土地の果物を取って来」るよう指示した(20節)。モーセは、彼らが主なる神の約束を確信し、信仰と希望を胸に抱いて戻って来ることを願った。
 カナンには「アナク人の子孫であるアヒマンとシェシャイとタルマイ」(22節)という「巨人」(32節)のように体の大きな民族が住んでいた。しかし、そこは「一房のぶどうの付いた枝を切り取り、棒に下げ、二人で担」(23節)がなければならないほど、果実が豊かに育つ肥沃な地でもあった。主なる神が言われた通り、カナンはまさしく「広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地」(出エジプト記3章8節)であった。
 また、偵察隊が訪れた「ヘブロン」(22節)は、イスラエルの祖アブラハムが主なる神のために祭壇を築き(創世記13章18節)、妻サラと共に葬られた地でもある(同23章19~20節)。アブラハムについて聖書は「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発した」(ヘブライ人への手紙11章8節)と記している。
 イエス・キリストは山上の説教の中で「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ」(マタイによる福音書5章5節)と宣言された。キリスト者は、このイエス・キリストの約束を信じ、アブラハムのように従順の道を歩むべき者である。今荒れ野の中を歩んでいるとしても、キリスト者は、イエス・キリストが約束された神の国を仰ぎ見つつ(ヨハネによる福音書14章1~6節)、この地で与えられた任務を忠実に果たしていかなければならない。

聖書の黙想と適用 民数記12章9~16節

聖書の黙想と適用 民数記12章9~16節(新共同訳 旧約p.233)

(1) 主なる神の憤り(9~12節)

 主なる神はモーセを非難するミリアムとアロンに対して憤られた(9節)。主なる神の憤りはミリアムが「重い皮膚病にかか」(10節)るという形で現れた。モーセが黒い肌を持つ「クシュの女性を妻にしている」(1節)という非難に対する懲らしめは、ミリアムの肌を「雪のように白く」(10節)するというものであった。
 一方、アロンは、「彼女が重い皮膚病にかかって」いるのを見て、急いでモーセに主なる神への執り成しを要請した。アロンは、モーセを「わが主よ」(11節)と呼び、モーセに与えられた特別な権威を認めた。その上で、「どうか、わたしたちが愚かにも犯した罪の罰をわたしたちに負わせないでください」(11節)と述べ、自分達の罪と愚かさを認め、主なる神に憐れみと赦しを願い求めた。
 私達も罪を犯してしまうことがある。その時、大切なのは罪の悔い改めである。直ちに主なる神の御前で自分の罪を認め、赦しを求めなければならない。罪を認めて悔い改める謙遜な人に、主なる神は赦しの恵みを与えて下さる。ダビデが歌ったように、「主は打ち砕かれた心に近くいまし/悔いる霊を救ってくださる」(詩編34編19節)方である。

(2) モーセの執り成し(13~16節)

 モーセは、アロンの願いを受け入れ、「神よ、どうか彼女をいやしてください」(13節)と主なる神に助けを求めて叫んだ。自分を非難し、自分の権威に挑んだ2人のために執り成しの祈りを献げたのである。モーセが「この地上のだれにもまさって謙遜」(3節)であることが改めて立証された。
 このようなモーセの姿は、自分に敵対する人々のために十字架で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカによる福音書23章34節)と祈られたイエス・キリストの柔和さ、謙遜さを連想させる。主なる神はイエス・キリストの故に私達を赦して下さった。だから、キリスト者イエス・キリストの故に他の人を赦さなければならない。とはいえ、これは私達の力では出来ない。キリスト者がそのように生きるために、聖霊が私達に愛を与えて下さる。
 主なる神は、モーセの祈りを聞き入れ、「ミリアムを七日の間宿営の外に隔離しなさい。その後、彼女は宿営に戻ることができる」(14節)と言われた。ミリアムの皮膚病が共同体全体を汚す恐れがあったからである。イスラエルの民は、ミリアムが隔離された7日間、彼女が戻るまで出発せずに待ち続けた(15節)。そして、癒されたミリアムと共にハツェロトを出発した(16節)。
 この出来事を通して主なる神はイスラエルに秩序を立てられた。モーセの権威に対する挑戦を、主なる神はご自分に対する挑戦と見なされた(14節)。主なる神は、教会においても指導者をお立てになり、ご自分の権威を委ねられる。それは教会の中に霊的な秩序を確立するためである。その指導者の権威を認めることは、共同体の中に臨む主なる神の統治を受け入れることを意味する。その一方で、指導者は、自分に反対する人のためにも執り成し、祈らなければならない。

聖書の黙想と適用 民数記12章1~8節

聖書の黙想と適用 民数記12章1~8節(新共同訳 旧約pp.232-233)

(1) モーセに対するミリアムとアロンの妬み(1~3節)

 民の不平に続いて、モーセが直面したのは、自分の身内からの非難であった。ミリアムとアロンは、モーセの姉、兄であり、イスラエルの主要な指導者であった。そのような2人が「モーセがクシュの女性を妻にしていること」(1節)を非難した。しかし、実のところそれは表向きの理由であった。真の理由は「主はモーセを通してのみ語られるというのか。我々を通しても語られるのではないか」(2節)というモーセに対する妬みであった。ミリアムとアロンは、自分の弟のモーセが指導者として立てられていることへの妬みの故に、彼の権威に挑んだ。
 それに対し、「モーセという人はこの地上のだれにもまさって謙遜であった」(3節)という言葉は、モーセに対するミリアムとアロンの非難が不当なものであることを示している。モーセは民の上に君臨していたわけではなかった。それどころか「主の民すべてが預言者になればよいと切望して」(11章29節)さえいた。妬みは、主なる神が立てられた権威に反旗を翻す争いへと発展し、私達を罪に陥れる。

(2) わたしの僕モーセ(4~8節)

 主なる神はモーセとアロンとミリアムを臨在の幕屋に呼ばれた(4節)。そして、アロンとミリアムがモーセの権威に挑んだことについて、自ら裁判官となって判決を下された。
 主なる神はモーセが特別な権威を与えられた指導者であることをアロンとミリアムに告げられた。主なる神は、イスラエルの民の中に預言者がいる場合、「幻によって自らを示し/夢によって彼に語る」と言われた。その一方で、モーセについては「口から口へ、わたしは彼と語り合う」(8節)と言われた。モーセは「主の姿」を直接「仰ぎ見る」ことが出来るほど、主なる神と親密な関係にあった(8節)。
 モーセが主なる神とイスラエルの民の間を執り成すという職務を与えられたのは、彼が主なる神に対して「この地上のだれにもまさって謙遜で」(3節)、忠実だったからである。それ故、主なる神は「あなたたちは何故、畏れもせず/わたしの僕モーセを非難するのか」(8節)とアロンとミリアムを叱責された。どのような共同体においても指導者の権威に対する非難や中傷があるものである。しかし、主なる神がお立てになった指導者に対しては、主なる神ご自身が弁護して下さる。

聖書の黙想と適用 民数記11章24~35節

聖書の黙想と適用 民数記11章24~35節(新共同訳 旧約p.232)

(1) 預言状態になる長老達(24~30節)

 主なる神は、モーセに注がれた「霊の一部を取って」、70人の長老達に注がれた(25節)。主なる神の霊が臨んだ長老達は暫く預言状態になった(25節)。このことを通して主なる神は長老達に権威と力をお与えになった。キリスト者の指導者と非キリスト者の指導者の違いは、前者は聖霊に従うけれども、後者はそうではないという点である。私達の知識と経験だけでは主なる神の御心を全て知ることは出来ない。主なる神が臨在され、私達の人生に愛をもって介入して下さることが、キリスト者にとって、特にキリスト者の指導者にとって欠かせないことである。
 一方、エルダドとメダドは、「長老の中に加えられて」いながら、他の長老達と一緒に幕屋に出て行かず、自分達の宿営で預言状態になった(26節)。「若いころからモーセの従者であったヌンの子ヨシュア」(28節)は、そのことをモーセの権威に対する挑戦と受けとめた。そのため「モーセのもとに走って行き」(27節)、「わが主モーセよ、やめさせてください」(28節)と進言した。しかし、モーセは、「あなたはわたしのためを思ってねたむ心を起こしているのか」と逆にヨシュアを叱責し、「わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ」と言った(29節)。ヨシュアは人間的な判断で主なる神の働きを制限しようとした。それに対し、モーセは自分の地位を守ることよりも、イスラエルの民全体が霊的に成熟することを重視した。
 主なる神は、特別な使命を担った指導者だけでなく、ご自分の全ての民に聖霊を授け、賜物を与えたいと願っておられる。主なる神はイエス・キリストを通して私達にも聖霊の賜物を与えて下さる。それは神の民としての権威であり、主なる神と隣人に仕えるための力である。主なる神はキリスト者がその賜物を通して神の国を建てることを願われる。

(2) うずら(31~35節)

 主なる神は、風を起こし、「海の方からうずらを吹き寄せ」、うずらの群れを「宿営の近くに落と」された(31節)。このことを通して、イスラエルの民の要求を満たすと共に、人間の理性を超えて働かれるご自分の力を示された(23節)。風に乗って飛んで来たうずらの群れは、「地上二アンマ[約90cm]ほどの高さに積もった」(31節)。イスラエルの「民は出て行って、終日終夜、そして翌日も、うずらを集め、少ない者でも十ホメル[約2300l]は集めた」(32節)。主なる神はイスラエルの民が欲しがっていた肉を確かにお与えになった。しかも、それは2日かけないと集めきれないほどの量であった。
 しかし、イスラエルの民が集めた肉を食べていた時、主なる神は「激しい疫病」によって彼らを打たれた(33節)。彼らが2日かけて必死で集めたうずらも、結局全て食されることなく、空しいものになってしまった。イスラエルの民はこの場所を「キブロト・ハタアワ(貪欲の墓)」と呼んだ(34節)。そこで「貪欲な人々」が死に、葬られたからである。主なる神は、この出来事を通して、貪欲は罪であり、罪は死を生むことをイスラエルの民に教えられた。
 イエス・キリストは、「愚かな金持ち」のたとえにおいて「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者」(ルカによる福音書12章20節)の末路を語り、「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」(同15節)と教えられた。パウロも「貪欲を偶像礼拝にほかならない」(コロサイの信徒への手紙3章5節)と警告した。私達は貪欲を制御出来なければ、その奴隷になってしまう。

聖書の黙想と適用 民数記11章10~23節

聖書の黙想と適用 民数記11章10~23節(新共同訳 旧約pp.231-232)

(1) モーセの訴え(10~15節)

 指導者は孤独である。人知れず重い責任に苦しみ、また自分の無力さを痛感させられることがある。イスラエルの民は「誰か肉を食べさせてくれないものか」(4節)と呟いた。モーセは「民がどの家族もそれぞれの天幕の入り口で泣き言を言っているのを聞いた」(10節)が、彼一人の力ではどうすることも出来ず、忍耐は限界に達していた。民の不満に対するモーセの反応は主なる神に訴えることであった。主なる神に祈ることは、指導者であるモーセが問題の前にして出来る最も重要なことであった。
 モーセは「あなたは、なぜ、僕を苦しめられるのですか」(11節)と主なる神に訴えた。そして、民の不満の声が余りにも大きいため、「どうしてもこのようになさりたいなら、どうかむしろ、殺してください」(15節)とさえ願っている。モーセの訴えは、えにしだの木の下で「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください」(列王記上19章4節)と嘆いたエリヤの祈りを連想させる。モーセは指導者として直面する痛みと苦しみを主なる神の御前に正直に吐き出した。私達も主なる神の御前に時に率直な祈りを献げる必要がある。主なる神は私達の限界を十分に理解して下さる。

(2) モーセの訴えに対する主なる神の返答(16~17節)

 主なる神は重荷を独りで負い、苦しむモーセに解決策を与えて下さった。即ち、モーセに「民の長老およびその役人として認めうる者を七十人集め」(16節)るよう命じ、彼らが民の重荷をモーセと共に負うようにされた(17節)。これによってイスラエルに新しい形の組織が出来た。他の人々に権限を賢く委ねる時、私達はより多くの働きをすることが出来るようになる。主なる神はモーセの嘆きに耳を傾けられると共に、その危機をチャンスに変えて下さった。
 また、主なる神は、モーセに授けたのと同じ霊を70人の長老にも注ぎ、彼らが主なる神の働きを果たすことが出来るようにすると約束された(17節)。主なる神は、指導者を立てられる時、聖霊を注ぎ、権威と力を与えて下さる。

(3) 民の不平不満に対する主なる神の返答(18~23節)

 主なる神は、不平不満を言うイスラエルの民に「主はあなたたちに肉を与え、あなたたちは食べることができる」(18節)と告げるようモーセに命じた。モーセは「わたしの率いる民は男だけで六十万人います。それなのに、あなたは、『肉を彼らに与え、一か月の間食べさせよう』と言われます」(21節)と懐疑的な反応を示した。しかし、主なる神は「わたしの言葉どおりになるかならないか、今、あなたに見せよう」(23節)と言われた。主なる神は、立てられた者の苦しみを傍観せず、御力を示して下さる。
 とはいえ、呟く民に肉を「鼻から出るようになり、吐き気を催すほど」(20節)与えるという表現から、主なる神が「どうして我々はエジプトを出て来てしまったのか」(20節)という彼らの「泣き言」を決して喜ばれなかったことが分かる。オリーブ山でイエス・キリストが祈られたように、私達も主なる神に何かを願い求める時、「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(ルカによる福音書22章42節)という一点を忘れてはならない。

聖書の黙想と適用 民数記11章1~9節

聖書の黙想と適用 民数記11章1~9節(新共同訳 旧約pp.230-231)

(1) 民の不満と主なる神の憤り(1~3節)

 イスラエルの民は、シナイ山を出発し、パランの荒れ野に向かって「三日の道のりを進んだ」(10章33節)が、その後主なる神に不満を言い始めた(1節)。勿論、荒れ野は楽な場所では決してない。不便さや飢え渇きが付き物である。それでも、約束の地カナンという目的地に到るために、彼らは荒れ野を必ず通らなければならなかった。荒れ野の旅は主なる神による訓練の時でもあった。しかし、苦しい状況が一日、二日と続く中で、彼らはそれまで主なる神から受けた恵みや約束を忘れ、公然と呟くようになった。
 民の呟きを聞いた主なる神は「憤られ、主の火が彼らに対して燃え上がり、宿営の端から焼き尽くそう」(1節)とした。主なる神は、私達が行ったこと、言ったことだけでなく、心の中で思ったこと、呟いたことも全て御覧になり、聞いておられる。それに対し、イスラエルの民は、恐ろしくなって、「モーセに助けを求めて叫びをあげた」(2節)。モーセが主なる神に祈ると、主なる神はその炎を鎮められた(2節)。私達が主なる神の御心を理解出来ず、恵みに感謝しない時、不平不満や呟きが生じる。しかし、私達が《荒れ野》の中を歩んでいる時も、主なる神は私達と共にいて下さる。

(2) 主なる神から与えられたマナ(4~9節)

 出エジプトの時、イスラエルの「民に加わっていた雑多な他国人」が荒れ野の旅路で「飢えと渇きを訴え」ると(4節)、イスラエルの民もそれに同調した。ここで注意しなければならないのは、彼らが今にも飢え死にしそうだったために不平を言ったわけではないという点である。主なる神はイスラエルの民にマナと呼ばれる食べ物をお与えになった。彼らにとって必要なものは与えられていた。
 にもかかわらず、イスラエルの民は、「どこを見回してもマナばかりで、何もない」(6節)と不平を言った。その一方で、「エジプトでは魚をただで食べていたし、きゅうりやメロン、葱や玉葱やにんにくが忘れられない」(5節)と奴隷だった頃を懐かしみ、「誰か肉を食べさせてくれないものか」(4節)と願った。主なる神が天から食べ物を与えて下さるという恵みを毎日経験しながら(9節)、イスラエルの民は主なる神に感謝することが出来なかった。彼らは「歩き回って」、マナを「拾い集め」ていながら、マナを降らせて下さる主なる神の憐れみを心に留めることはなかった。このように、不平不満や呟きは、私達の目を覆い、信仰と良心を鈍らせる。その結果、主なる神から注がれている恵みも見えなくなってしまう。

聖書の黙想と適用 民数記10章11~28節

聖書の黙想と適用 民数記10章11~28節(新共同訳 旧約pp.229-230)

(1) シナイ出発(11~16節)

 雲が「掟の幕屋を離れて昇」(11節)ると、イスラエルの人々は「シナイの荒れ野」を出発した(12節)。「雲はパランの荒れ野にとどまった」(12節)が、彼らはこの雲を見て、主なる神の臨在を確信した。私達が人生の旅路を歩む時に必要なのも、主なる神の臨在の約束である。これはイエス・キリストを信じる全ての人に与えられる主なる神の賜物である(マタイによる福音書28章18~20節)。
モーセを通してなされた主の命令」(13節)に基づき、ユダ族が最初に出発した(14節)。ユダ族は、ヤコブの遺言に基づき、イスラエルで長子の役割を果たすことになった。敵の襲来などの危険を前にして先頭に立つことは信仰を必要とする。時には犠牲も伴う。主なる神はそのようなユダ族を祝福され、ダビデイエス・キリストの血統とされた。

(2) 各部族の出発(17~28節)

 ユダ族の後ろにレビ族の中のゲルションの氏族とメラリの氏族が続き、幕屋を運搬した(17節)。それから、ルベン族(18節)、シメオン族(19節)、ガド族の後を(20節)、レビ族の中のケハトの氏族が続き、「聖なる祭具を運搬」した(21節)。ケハトの氏族は重い木材と金属からなる祭具類を肩に担ぐ任務を負った。全陣営の最後尾はダン族であった(25節)。ユダ族と共に最も多くの兵士を有していたダン族は、敵の攻撃に備えて後方の警戒を担った。
 イスラエルの12部族は定められた順序に従って出発した。彼らは、互いに優劣をつけて誇ったり、卑下したりせず、共同体の中で秩序を守り、自分に与えられた役割を果たした。主なる神は私達一人一人に共同体に仕える賜物を与えて下さった。私達一人一人の奉仕と献身が共同体を美しく建て上げる要素になる。

聖書の黙想と適用 民数記10章1~10節

聖書の黙想と適用 民数記10章1~10節(新共同訳 旧約p.229)

(1) 二本の銀のラッパ(1~7節)

 主なる神は万物を秩序をもって創造された。それ故、イスラエルの民の中にも秩序を立てられる。イスラエルの民が荒れ野の旅を始める前に、主なる神はラッパの音で合図の体系を作られた(2節)。臨在の幕屋を覆う雲が目に見える合図なら、ラッパの音は耳で聞く合図であった。主なる神の命令はラッパの音によってイスラエルの民に効果的に伝えられた。このような秩序が維持されるために、祭司はラッパを正確に吹かなければならなかった。そして、イスラエルの民はそのラッパの音をよく聞かなければならなかった。主なる神が立てられた共同体は、主なる神が定められた秩序に従って動く。信仰の指導者は主なる神の言葉を正確に伝えなければならず、神の民は主なる神の言葉をよく聞かなければならない。

(2) 主なる神の御前に覚えられる(8~10節)

 主なる神は私達の祈りをいつでも聞かれる。ラッパは「祭司であるアロンの子ら」だけが吹いた(8節)。これはイスラエルの民がやがて戦う戦争が聖なる戦いであり、主なる神の戦いであることを示している。自分達の「国に攻め込む敵を迎え撃つ」際に出陣ラッパを吹くことは(9節)、戦闘における主なる神の臨在を宣言し、主なる神に助けを求めるという意味を持っていた。主なる神はラッパの音を聞かれると、ご自分の民と結んだ契約の故に、民を敵から救われる(9節)。ラッパを吹くことは神の民の祈りを象徴する。私達が祈る時、主なる神の臨在を感じ、その助けを得る。祭司がラッパを手に握っていたように、キリスト者も手に祈りのラッパを握っている。主なる神は私達の祈りのラッパの音に耳を傾け、私達のことを覚えて下さる。

聖書の黙想と適用 民数記9章15~23節

聖書の黙想と適用 民数記9章15~23節(新共同訳 旧約p.228)

(1) 雲が幕屋を覆う(15~17節)

「幕屋を建てた日」、雲が幕屋を覆った(15節)。また、夜にはその雲が幕屋の上にあって「燃える火のように見えた」(15節、16節)。主なる神は、臨在の幕屋を雲が覆うことによって、イスラエルの民と共にいることを目に見える形で示された。そして、この雲はイスラエルの民を導いた。雲が幕屋の上に留まれば、イスラエルの民は宿営し、雲が幕屋を離れれば、彼らは旅立った(17節)。主なる神の臨在がある限り、彼らは安全であった。
 主なる神はイスラエルの民に「見よ、わたしはあなたの前に使いを遣わして、あなたを道で守らせ、わたしの備えた場所に導かせる」(出エジプト記23章20節)と言われた。荒れ野には道がなく、地図もなかった。しかし、主なる神がイスラエルの民に先立って進まれた。道のない荒れ野において主なる神ご自身が道となり、地図となられた。だから、主なる神に全面的に依り頼むならば、イスラエルの民は自分達が正しく進んでいるかどうか心配する必要はなかった。
 キリスト者も主なる神と共にいる時に真の平安がある。主なる神は、イエス・キリストを信じる者に聖霊を送って下さり(ルカによる福音書24章49節、ヨハネによる福音書14章26節、使徒言行録1章4~5節)、世の終わりまでいつも共にいて下さる(マタイによる福音書28章20節)。それ故、キリスト者は、いかなる状況にあっても絶望する必要がなく、恵みの中で大胆に歩むことが出来る。日々主なる神と共に歩み、主なる神の臨在を体験しながら生きていこう。

(2) 主なる神の命令に従う(18~23節)

 イスラエルの民は、生存の危機と隣り合わせの荒れ野の旅において「主の命令によって」(18節、19節、20節、23節)旅立ち、また宿営した。主なる神はイスラエルを「夕方から朝までしかとどまら」(21節)せなかったり、「二日」だけ留まらせることもあれば、「一か月でも、何日でも」(22節)留まらせることもあった。しかし、雲が幕屋の上に「長い日数」(19節)留まり続けた時も、「わずかな日数しかとどまらない」(20節)時も、イスラエルの民は主なる神の命令に従った。それはイスラエルに対する従順の訓練であった。
 イスラエルの民が依り頼まなければならないのは、自分の主観や知恵や経験ではなく、主なる神の言葉であった。主なる神が行くことを許可されなければ、その道がどれだけ良く見えても進んではならなかった。逆に、主なる神が行くように命じられれば、その道がどれだけ困難に見えても進まなければならなかった。
 生存に欠かせないものが絶対的に不足した荒れ野にも主なる神はおられる。主なる神が共にいて下さり、主なる神との交わりを持つことが出来るなら、荒れ野の旅にも希望が存在する。40年に亘る荒れ野の旅にイスラエルが耐えることが出来たのは、主なる神が彼らを愛し、彼らの中にいて語り、導かれたからである。
 主なる神はキリスト者聖霊が内に住まわれる「神の神殿」として下さった(コリントの信徒への手紙一3章16節)。聖霊の働きによって聖書と祈りを通して主なる神をより深く知ることが出来るのは、キリスト者にとって大きな恵みである。どのような苦しみの中にあっても、自分がどこに向かっているのか分からない時でも、失望せず主なる神に依り頼み、主なる神の言葉に従おう。主なる神は私達に「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにしない」(ヘブライ人への手紙13章5節)と言われた。イエス・キリストは私達に「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネによる福音書14章6節)と言われた。主なる神は私達の歩みを祝福し、恵みの御業を見させて下さる。

聖書の黙想と適用 民数記9章1~14節

聖書の黙想と適用 民数記9章1~14節(新共同訳 旧約pp.227-228)

(1) 2回目の過越祭(1~4節)

「エジプトの国を出た翌年の第一の月」、主なる神は「シナイの荒れ野」でモーセに(1節)、「イスラエルの人々は定められた時に過越祭を祝わねばならない」(2節)と命じられた。
 過越祭はエジプトで起こった過越の出来事を再現している。主なる神はエジプトに初子の死という災いを下すことをイスラエルに告げられた(出エジプト記12章12節)。そして、小羊を屠って、その血を「家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る」ならば(同6~7節)、初子の死を免れると語られた(同13節)。また、その時、家の中で屠った小羊の肉、酵母を入れないパン、苦菜を食べるよう命じられた(同8節)。その晩、エジプトの全ての初子が死んだが(同29節)、小羊の血が塗られたイスラエルの家には死が過ぎ越して行った。その結果、イスラエルはエジプトの奴隷の身分から解放された(同31節)。
 過越祭はイスラエルが初子の死という災いから救われた出来事を記念する祭りである。だから、それは毎年繰り返されなければならなかった。荒れ野を歩んでいる間も、彼らは主なる神の恵みを決して忘れることなく、しっかりと握り締めて、進まなければならなかった。過越祭を行うことによって、イスラエルの民は、救われた恵みを想い起こし、主なる神に感謝し、神の民としてのアイデンティティを維持した。
 イエス・キリストが十字架で死なれたことは一つの過越である。過越の小羊であられるイエス・キリストを通して、私達は救いに与ることが出来た。イエス・キリストは、弟子達に、そして教会に、パンと杯を受ける《主の晩餐》を「わたしの記念として」(ルカによる福音書22章19節)行い、救われた恵みを心に刻むよう命じられた。救いの出来事は一回きりであるが、その恵みは受け継がれていかなければならない。

(2) 月遅れの過越祭の規定(5~14節)

 イスラエルの民は「第一の月の十四日の夕暮れ」に「シナイの荒れ野」で過越祭を「すべて主がモーセに命じられたとおり」に祝った(5節)。その日を人が任意に変えることは出来なかった。
 一方、その日、過越祭を祝うことが出来なかった人達がいた。律法によると、「重い皮膚病にかかっている者、漏出のある者、死体に触れて汚れた者」は、汚れた状態にあり、一定期間「宿営の外に」隔離され、祭儀に参加することも出来なかった(5章2節)。そのため、「人の死体に触れて汚れた者たち」がモーセとアロンの前にやって来て(6節)、過越の献げ物をささげたいと願い出た(7節)。
 彼らの訴えを聞いた後、モーセは自分で判断することをせず、主なる神にその問題を持って行き、主なる神に判断を委ねた(8節)。義は主なる神にある。主なる神の御前に謙り、主なる神に頼って生きることは、どのような立場であれ、神の民に求められていることである。
 主なる神は、「死体に触れて汚れている者」も「遠く旅に出ている者」も「主の過越祭を祝うことができる」とお答えになった(10節)。そればかりか、「汚れているのでもなく、旅に出ているのでもなくて過越祭を祝わない者があれば、その者は自分の民から断たれる」(13節)とさえ言われた。過越祭は主なる神の救いを記念する日なので、彼らは必ずこの祭りを守らなければならなかった。過越祭を忘れることは、神の民としてのアイデンティティを失うことを意味した。救いの恵みを軽んじるなら、神の民として生きることは出来ない。主なる神の救いを覚えることは、神の民であることのしるしである。
 その上で、主なる神は、「第一の月の十四日の夕暮れ」に守れなかった人のために、「第二の月の十四日の夕暮れ」に過越祭を行うことを定められた(11節)。1か月遅れではあるが、方法と内容に違いはなかった(11~12節)。イスラエルの民は過越祭を通して神の民の一員であることを確認した。
 更に、主なる神は、イスラエルの民のもとに「寄留する者が、主のために過越祭を祝おうとするならば、過越祭の掟と法に従って祝わねばならない」(14節)と言われた。主なる神は全人類が罪の赦しを受け、命を得ることを願われる。そして、主なる神がモーセに「この掟は寄留者に対しても、その土地に生まれた者に対しても、あなたたちに等しく適用される」(14節)とお語りになったように、新約の時代においても、民族は違っても救われる方法は同じである。全ての民族はイエス・キリストを主と信じることによってのみ救われる(使徒言行録4章10~12節)。
 人生には色々なことが起こる。しかし、主なる神の救いは揺るがない。それが私達の希望である。いつもイエス・キリストを仰ぎつつ、救われた喜びをもって毎日を生きていこう。そして、主なる神の恵みは共に分かち合うことによって一層豊かになる。主なる神は私達が救いの恵みを隣人と共に分かち合うことを願っておられる。