Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 民数記23章13~26節

聖書の黙想と適用 民数記23章13~26節(新共同訳 旧約pp.254-255)

(1) バラクによる再度の呪いの要請(13~17節)

 バラク王は呪術師バラムに「わたしと一緒に別の場所に行って、そこから彼らを見てください。見えるのは彼らの一部にすぎず、全体を見渡すことはできないでしょうが、そこからわたしのために彼らに呪いをかけてください」(13節)ともう一度要請した。バラムが、「イスラエルの無数の民」(10節)を見て、圧倒され、呪いをかける代わりに祝福を語ったと思ったのだろう。
 そこで「バラクはバラムをピスガの頂の見晴らしのきく所に連れて行き、そこに七つの祭壇を築」(14節)いた。そして、バラムにイスラエルを呪わせようとした。しかし、主なる神が宣言されたことは場所や状況の影響を受けない。場所をいくら変えようが、ご自分の民を祝福しようとされる主なる神の御心を変えることは出来ない。主なる神が「バラムに会い、彼の口に言葉を授け」(16節)られたのは、イスラエルがご自分の民として祝福の内にあることをバラクに示すためであった。

(2) バラムの第2の託宣(18~26節)

 バラクの要求に対し、バラムは再び託宣を述べた(18節)。バラムは主なる神のご性質について語る。その上で、主なる神がイスラエルに与えると約束された神の祝福を自分が「取り消すことはできない」(20節)と宣言した。主なる神は、「人ではないから、偽りを語ることはな」く、「人の子ではないから、悔いることはな」く、「言われたことを、なされないこと」も「告げられたことを、成就されないこと」も決してない方である(19節)。
 また、主なる神はバラムを通してご自分が「エジプトから」「導き出された」(22節)イスラエルの将来を示された。主なる神は「その働きを時に応じて」イスラエルに告げ、示される(23節)。彼らの未来は主なる神の御手の内にあるので、「まじない」も「占い」も全く無意味である。その上で、バラムは、イスラエルを勇猛な「雌獅子」「雄獅子」に喩え、彼らは「獲物を食らい、殺したものの血を飲むまで/身を横たえることはない」と預言した(24節)。主なる神が王として共におられる以上(21節)、いかなる民族も彼らを呪うことも滅ぼすことも出来ない。
 現在もサタンが神の民から祝福を奪おうと日々躍起になっている。しかし、主なる神がご自分の民に告げられたことは、いかなる妨げがあろうとも必ず実現する。主なる神は、ご自分の民の「髪の毛までも一本残らず数え」(マタイによる福音書10章30節)ておられ、ご自分の民を守り、祝福を注いで下さる。

聖書の黙想と適用 民数記22章41節~23章12節

聖書の黙想と適用 民数記22章41節~23章12節(新共同訳 旧約pp.253-254)

(1) バラムに会われる主なる神(22章41節~23章6節)

 モアブ王バラクと呪術師バラムは、「七つの祭壇を築き、七頭の雄牛と雄羊を用意し」(1節)て、神の臨在を待った。これは古代の近東社会において一般的に行われていた託宣の方法であった。バラムはバラクに「主はたぶん、わたしに会ってくださるでしょう。主がわたしに示されることは、何でもあなたに伝えましょう」と言って、「丘の頂に向か」った(3節)。主なる神はそこでバラムに臨まれた。
 主なる神は「わたしは七つの祭壇を築き、雄牛と雄羊をどの祭壇にもささげました」というバラムの言葉には何の関心も示されなかった。ただ、「バラクのもとに帰ってこう告げなさい」と言って、「バラムの口に言葉を授け」られた(5節)。
 主なる神がバラムに臨まれたのは、彼を通してバラクにご自分の御心を示されるためであった。逆に、人間が主なる神を操ろうとすることは、どのような方法であれ、愚かで不遜な態度である。

(2) バラムの第1の託宣(7~12節)

 バラムは主なる神がお与えになった託宣バラクに伝えた。バラムは「神が呪いをかけぬものに/どうしてわたしが呪いをかけられよう。主がののしらぬものを/どうしてわたしがののしれよう」(8節)と語り、イスラエルに呪いをかけるというバラクの願いは成就しないことを伝えた。
 また、バラムはイスラエルの民について「これは独り離れて住む民/自分を諸国の民のうちに数えない」(9節)と述べ、イスラエルがこれから諸民族の間で頭角を現すことを予告した。バラムは、イスラエルの未来を見ながら、「わたしは正しい人が死ぬように死に/わたしの終わりは彼らと同じようでありたい」(10節)と願った。
 バラムの託宣に対し、バラクは「あなたは、何ということをしたのですか。わたしは敵に呪いをかけるために、あなたを連れて来たのに、あなたは彼らを祝福してしまった」(11節)と言った。バラムの託宣イスラエルを祝福するという主なる神の御心を却ってバラクに知らせる結果となった。主なる神が定められたご計画は誰にも変えることが出来ない。そして、主なる神は、イスラエルに対してそうであったように、キリスト者にもご自分の民としての身分と希望ある未来を約束されている。

聖書の黙想と適用 民数記22章31~40節

聖書の黙想と適用 民数記22章31~40節(新共同訳 旧約pp.252-253)

(1) 目が開かれたバラム(31~35節)

 呪術師バラムは「主の御使いが抜き身の剣を手にして、道に立ちふさがっているのを見」て、「身をかがめてひれ伏した」(31節)。バラムは事と次第によってはイスラエルの民に呪いをかけることも選択肢に入れて旅立った。しかし、主なる神の御使いがいつでも自分を殺すことが出来るのを知り、彼は強い衝撃を受けた。逆らう者の道を閉ざされるのは、主なる神の恵みである。
 その後、主なる神は、「もしも、意に反するのでしたら、わたしは引き返します」(34節)というバラムの言葉に対し、「この人たちと共に行きなさい」(35節)と言われ、バラクの家臣と一緒にバラクに会いに行くことを許された。その上で、バラムに「ただわたしがあなたに告げることだけを告げなさい」(35節)と命じられた。主なる神はご自分の民でない人間をも御心を示す道具として用いられることがある。

(2) バラクとバラムの会見(36~40節)

 モアブ王バラクは「バラムが来たと聞くと、モアブのアルまで行って迎えた」(36節)。王であるバラクがバラムを直接出迎えたことは、バラムに対する彼の期待の大きさを示している。バラクは「あなたを招くために、何度も使いを送らなければなりませんでした。どうして来られなかったのですか。あなたを優遇することがわたしにできないでしょうか」(37節)と述べ、自分がバラムに提示した待遇を確実に守り、その約束を果たす力があることを改めて示した。
 バラムは、主なる神の御使いの警告を思い出したのか、「御覧のとおり、あなたのところにやって来ました。しかしわたしに、何かを自由に告げる力があるでしょうか。わたしは、神がわたしの口に授けられる言葉だけを告げねばなりません」(38節)と答えた。
 しかし、バラクは更にキルヤト・フツォトで「牛と羊の群れを屠って、バラムに贈」(40節)った。このようなバラクの歓待はバラムの心を動揺させたことだろう。私達も何らかの思惑が潜んだもてなしに気を付けなければならない。それは私達が真実を語り、正しく評価することを難しくする。

聖書の黙想と適用 民数記22章15~30節

聖書の黙想と適用 民数記22章15~30節(新共同訳 旧約pp.251-252)

(1) バラクの家臣の要請とそれに対するバラムの態度(15~20節)

 モアブ王バラクは、バラムの呪術の力を認め、「前よりも多くの、位の高い使者」(15節)を派遣した。彼らはバラムに「どうかわたしのところに来るのを拒まないでください。あなたを大いに優遇します。あなたが言われることは何でもします。どうか来て、わたしのためにイスラエルの民に呪いをかけてください」(16~17節)と懇願した。バラクはバラムを買収することによって、バラクがイスラエルに対する主なる神の態度を祝福から呪いに変えてくれることを期待した。
 それに対し、バラムは、自分のもとにやって来たバラクの家臣に「たとえバラクが、家に満ちる金銀を贈ってくれても、わたしの神、主の言葉に逆らうことは、事の大小を問わず何もできません」(18節)と言った。しかし、それでいて要請を断固として拒み、使者をすぐに帰らせることはしなかった。バラムは「あなたがたも、今夜はここにとどまって、主がわたしに、この上何とお告げになるか、確かめさせてください」(19節)と招聘に応じる可能性を残した。バラムの曖昧で二面的な態度は、彼の狡猾さと欲深さを示している。バラムはバラクの使者が提示した待遇と報酬に魅力を感じたのである。富に対する執着は、私達の判断力を鈍らせ、役割を歪ませる。

(2) バラムとろば(21~30節)

 バラムは主なる神から「この民を呪ってはならない。彼らは祝福されているからだ」(12節)と既に示されていた。にもかかわらず、自分に破格の厚遇を提示してきたバラクの要請に心を動かされた。主なる神の御心を知りながら、バラムはバラクの誘惑も捨てられなかった。そのような彼に主なる神は「これらの者があなたを呼びに来たのなら、立って彼らと共に行くがよい。しかし、わたしがあなたに告げることだけを行わねばならない」(20節)と告げられた。バラムは「朝起きるとろばに鞍をつけ」、モアブに向かって出発した(21節)。
 モアブへの道中におけるバラムの行動は愚かそのものであった。彼の行動は、ろばの分別ある態度、開かれた目と対極をなしている。ろばは「主の御使いが抜き身の剣を手にして道に立ちふさがっているのを見」て、「道をそれて畑に踏み込んだ」(23節)。しかし、バラムの目には主の御使いが全く見えず、彼は「ろばを打って、道に戻そうとした」(23節)。それに対し、主なる神は「ろばの口を開かれた」(28節)。「わたしがあなたに何をしたというのですか。三度もわたしを打つとは」(23節)というろばの言葉はバラムの愚かさをよく表している。

聖書の黙想と適用 民数記22章1~14節

聖書の黙想と適用 民数記22章1~14節(新共同訳 旧約p.251)

(1) イスラエルを恐れるモアブ王バラク(1~7節)

 イスラエルの人々が「エリコに近いヨルダン川の対岸にあるモアブの平野に宿営した」(1節)時、モアブの王バラクは「恐れを抱い」(3節)た。イスラエルの民が、アモリ人と戦い、その地を征服する様子を「ことごとく見」(2節)、また彼らが「おびただしい数」(3節)だったからである。
 バラクには、アモリ人の王シホンやバシャンの王オグのように(21章23節、33節)、全軍を召集して、イスラエルを迎え撃つ自信がなかった。そこでバラクは、「ユーフラテス川流域にあるアマウ人の町ペトルに住むベオルの子バラム」(5節)という呪術師を招聘し、彼の力を借りて、イスラエルの民に呪いをもたらそうとした。
 バラクは、バラムのもとに「占いの礼物を携え」(7節)た使者を送り、「この民はわたしよりも強大だ。今すぐに来て、わたしのためにこの民を呪ってもらいたい。そうすれば、わたしはこれを撃ち破って、この国から追い出すことができるだろう」(6節)と要請した。しかし、人間がどれほど陰謀を企てても、主なる神の民は絶対に滅びない。

(2) 呪術師バラムに対する主なる神の自己啓示(8~14節)

 主なる神はご自分の民でない者にも御心を啓示される。呪術師バラムは、自分を訪ねてきた「モアブとミディアンの長老たち」(7節)から、モアブ王バラクの要請を聞くと、主なる神との霊的交わりを試みた。
 それに対し、主なる神はバラムのもとに来て、語られた。これはバラムが自分の霊媒術をもって神を呼び出したのではない。主なる神がバラムのもとに行かれたのは、ご自分の御心を明確に知らせるためであった。バラクの招聘に応じてイスラエルに呪いをかけることについて、主なる神はバラムに「あなたは彼らと一緒に行ってはならない。この民を呪ってはならない。彼らは祝福されているからだ」(12節)と言われた。
 主なる神が選ばれた民は祝福を定められた人々である。キリスト者も、イエス・キリストが十字架において「わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださ」(ガラテヤの信徒への手紙3章13節)ったので、最早呪いの下にはない。そして、「アブラハムに与えられた祝福」は「キリスト・イエスにおいて」キリスト者にも及んでいる(同14節)。

聖書の黙想と適用 民数記21章21~35節

聖書の黙想と適用 民数記21章21~35節(新共同訳 旧約p.250)

(1) アモリ人の王シホンに対する勝利(21~32節)

 イスラエルの人々は、エドム、モアブを経て、アモリ人の国境までやって来た。そして、アモリ人の王シホンに使者を遣わし、「あなたの領内を通過させてください。道をそれて畑やぶどう畑に入ったり、井戸の水を飲んだりしません。あなたの国境を越えるまで『王の道』を通ります」(22節)と要請した。
 それに対し、シホンは、イスラエルが侵略を企んでいるのではないかと警戒し、「自分の領内を通過することを許さ」なかった。そればかりか「全軍を召集し、イスラエルを迎え撃」(23節)とうとした。シホンは「先代のモアブ王と戦って、その手からアルノン川に至るまでの全土を奪い取」(26節)り、都としてヘシュボンを築くなど、この地で強い勢力を持っていた(27~30節)。
 しかし、主なる神は、イスラエルと共におられ、アモリ人との戦いにおいて彼らに勝利を与えられた。その結果、イスラエルは、シホンを「剣にかけて、南はアルノン川から北はヤボク川、東はアンモン人の国境まで、その領土を占領し」(25節)、「ヘシュボンとその周辺の村落など、アモリ人のすべての町」(25節)を征服することが出来た。こうして主なる神はアブラハムに与えた約束を確かに果たされた(創世記15章16節、21節)。
 目の前の現実が大きく違っているように見えても、主なる神は約束されたことを必ず果たされる。主なる神の約束を信じ、主なる神の力と知恵に依り頼み、一歩ずつ進んでいく時、私達は勝利の実を味わうことが出来る。どれほど強大な敵であろうとも、主なる神が共におられる人間を倒すことは出来ない。

(2) バシャンの王オグに対する勝利(33~35節)

 アモリ人の王シホンに勝利したイスラエルに対し、バシャンの王オグが「これを迎え撃つために、全軍を率いて」(33節)出てきた。シホンがアルノン川とヤボク川の間を治めていたのに対し、オグはヤボク川からガリラヤ湖の東北地域までを支配していた。オグが治める町々は、高地に位置し、「すべてが高い城壁で囲まれ、かんぬきで門を固めた要害の町」(申命記3章5節)で、征服するのがとても困難であった。その上、オグは「長さ九アンマ、幅四アンマ」(同11節)――身長約4メートル、幅約2メートル――の巨人であった。
 しかし、主なる神はモーセに「彼を恐れてはならない。わたしは彼とその全軍、その国をあなたの手に渡した。あなたは、ヘシュボンの住民アモリ人の王シホンにしたように、彼にもせよ」(34節)という言葉を与え、勝利を約束された。
 主なる神が共におられたので、イスラエルは恐れることなく大胆に進んだ。その結果、イスラエル勝利し、オグと「その子らを含む全軍を一人残らず撃ち殺し、その国を占領」(35節)することが出来た。こうして、ヨルダン川の東側がイスラエルの領土となった。
 私達が困難な問題に囲まれている時、主なる神は私達に「恐れてはならない」と言われる。そして、素晴らしい、驚くべき御業をもってご自分の真実さを証明される。神の国勝利は、力の原理ではなく信仰の原理によって与えられる。勝利はいつも主なる神にある。主なる神の言葉は勇気と力を与える。主なる神の側に立ち、主なる神の言葉を握り続けることが勝利の秘訣である。

聖書の黙想と適用 民数記21章10~20節

聖書の黙想と適用 民数記21章10~20節(新共同訳 旧約p.249)

(1) 旅を続けるイスラエルの人々(10~15節)

 イスラエルの人々は、エドム人の領内を通ることが出来なかったため、アモリ人の住む土地に向かって北進した。オボト(10節)、「モアブの東側の荒れ野にあるイイエ・アバリム」(11節)、ゼレドの谷(12節)、「アルノン川の向こう岸」(13節)を経て、「モアブの国境」(13節)に到った。
 イスラエルの民が旅の中で宿営した地、またそこの地理が詳しく記されているのは――『主の戦いの書』という他の文献からも引用がなされている(14節)――、彼らの通ったコースが、当初予定していた「王の道」(20章17節)よりも地形の面で遥かに険しく、時間もかかることを示すためだろう。しかも、エドム人であれ(20章18節)、アモリ人であれ(21章23節)、先住民は領内を通ろうとするイスラエルの民に敵対的であった。彼らの進む道は緊張の連続であった。
 それでもイスラエルは主なる神の指示に従った。神の民は主なる神から与えられた約束が完全に成就するまでに様々な困難に直面する場合がある。その時、私達の思いや考えは目の前の厳しい現実に留まりがちである。しかし、主なる神の約束は真実であり、その導きに決して誤りはない。ビジョンが確かであるならば、そして主なる神の導きに信頼して従うならば、私達は、大きな期待と望みを抱きつつ、力強く勝利することが出来る。

(2) イスラエルの民に井戸を与える主なる神(16~20節)

 主なる神は険しい道程を進んでいたイスラエルの人々をベエル――「井戸」という意味――に導かれた(16節)。荒れ野の旅において最も切実な問題は水の確保であった。ベエルに着くと、「笏と杖とをもって司たちが井戸を掘り/民の高貴な人がそれを深く掘った」(18節)。主なる神がモーセに「民を集めよ、彼らに水を与えよう」(16節)と言われたからである。
 水を与えられると、イスラエルの民は感謝の歌を歌った。それまではイスラエルの民が喉の渇きを訴える度に、モーセとアロンを通して水を得ていた(20章11節、出エジプト記17章6節)。しかし、ここではイスラエルの指導者が自ら井戸を掘っている。「井戸よ、湧き上がれ」(17節)という言葉からは、主なる神の言葉に依り頼む彼ら自身の信仰を見ることが出来る。水の問題を解決したイスラエルは、「荒れ野からマタナ、マタナからナハリエル、ナハリエルからバモト、バモトからモアブの野にある谷へ、そして荒れ果てた地を見下ろすピスガの頂」(18~20節)に向かった。
 イエス・キリストサマリアの女に「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハネによる福音書4章14節)と言われた。この方は私達の必要をご存知であり、いかなる時も私達と共にいて下さる。そして、ご自分に従う者に助けを与えて下さる。ここでのイスラエルがそうであったように、キリスト者イエス・キリストの恵みをほめたたえよう。

聖書の黙想と適用 民数記20章1~13節

聖書の黙想と適用 民数記20章1~13節(新共同訳 旧約pp.245-246)

(1) 民の不平(1~5節)

 イスラエルの人々は、エジプトを出た後、カデシュで主なる神に呟いたために荒れ野で流浪生活をすることになってしまった(13章26節、14章35節)。それから40年が経ち、彼らは再びカデシュに戻って来た(1節)。そこは約束の地カナンに非常に近い場所であった。出エジプトの第一世代は荒れ野で死を迎えたが、モーセの姉ミリアムもこの地で死に、埋葬された(1節)。
 とはいえ、第二世代になっても、イスラエルの人々は全く変わっていなかった。彼らは、「共同体に飲ませる水がなかった」ことに不平を言い、「徒党を組んで」、指導者である「モーセとアロンに逆らった」(2節)。この出来事は、レフィディムで水がなかった時(出エジプト記17章1~3節)、またパランの荒れ野でカナン偵察の報告を聞いた時(民数記13~14章)、彼らの親がモーセやアロンに不満をぶつけた出来事を想い起こさせる。
 不平不満の根底には主なる神への不信仰がある。イスラエルの民は、自分自身と家畜の生存を脅かす水不足という状況に直面して、主なる神の約束と守りを信頼することが出来なくなった。彼らは不平不満に心を支配され、出エジプトの恵みを忘れ(5節)、「同胞が主の御前で死んだとき、我々も一緒に死に絶えていたらよかったのだ」(3節)と言った。何故イスラエルが長い間荒れ野で放浪をしなければならなくなったのか、これまで主なる神が彼らをどのように守り、導いてこられたかについて、彼らは顧みることも感謝することもなかった。
 一時的な困難のために主なる神の恵みを忘れることは非常に愚かなことである。イスラエルの民は「ここには種を蒔く土地も、いちじくも、ぶどうも、ざくろも、飲み水さえないではありませんか」(5節)とないものを列挙した。しかし、主なる神が彼らと共におられ、彼らに目を注いでおられることを忘れてしまっていた。
 私達も、自分自身や仕事、また周りの人ばかりに目を奪われず、私達を愛し、私達と共にいて下さる主なる神を見上げよう。問題にぶつかった時には不平を言うのではなく、主なる神の御前に出て行き、主なる神と対話をしよう。その時、私達は主なる神との繋がりを確信することが出来る。このことは、私達を励まし、強め、満たしてくれる。そして、主なる神に対する感謝と讃美へと私達を導く。

(2) モーセの怒り(6~13節)

 イスラエルの民の不平不満を聞くと、モーセはこれまでと同様に主なる神の御前にひれ伏した(6節)。主なる神はモーセに「あなたは杖を取り、兄弟アロンと共に共同体を集め、彼らの目の前で岩に向かって、水を出せと命じなさい。あなたはその岩から彼らのために水を出し、共同体と家畜に水を飲ませるがよい」(7節)と命じられた。
 しかし、民の度重なる反逆にモーセは憤りを制することが出来なかった。モーセは民に対し「反逆する者らよ、聞け。この岩からあなたたちのために水を出さねばならないのか」(10節)と感情を顕わにした。「杖で岩を二度打」(11節)ってしまったことも、モーセの激しい怒りを表していた。
 モーセが感情に流されてしまったことは、主なる神の僕に相応しい態度ではなかった。主なる神はモーセとアロンに対し、「あなたたちはわたしを信じることをせず、イスラエルの人々の前に、わたしの聖なることを示さなかった」(12節)と叱責された。そして、その結果、二人は約束の地カナンに入ることが出来ず、荒れ野で死ぬことになってしまった(12節、申命記1章37節、3章26節、4章21節)。
 神の民は主なる神の御心を表す管である。どれほど腹立たしい状況に直面しても、自分の感情が主なる神の言葉よりも先立つことがあってはならない。神の民は、いかなる状況にあっても主なる神が助けて下さることを信じ、主なる神の言葉に従い、主なる神の聖さを現さなければならない。

聖書の黙想と適用 民数記19章1~10節

聖書の黙想と適用 民数記19章1~10節(新共同訳 旧約pp.245-246)

(1) 罪の清めのための赤毛の雌牛(1~6節)

 主なる神は私達に清さを求められる。コラとその仲間による反逆や民の不平など、イスラエルの共同体では人々が自らの罪の故に次々に荒れ野で死を迎えていった。そのような中で主なる神はモーセとアロンを通してイスラエルの人々に罪の汚れを清める方法を教えられた(1節)。
 イスラエルの民は「まだ背に軛を負ったことがなく、無傷で、欠陥のない赤毛の雌牛」(2節)を罪の清めのための生贄として献げるよう命じられた。彼らは、「宿営の外」で赤毛の雌牛を屠り(3節)、「皮も肉も血も胃の中身も共に焼」(5節)いた。その灰が罪の清めに用いられた。
 雌牛の赤毛は罪の贖いのために流される血を象徴する。イスラエルの民の罪と汚れは生贄の血によって清められた。「血を流すことなしには罪の赦しはありえな」(ヘブライ人への手紙9章22節)かった。「緋糸」を赤毛の「雌牛を焼いている火の中に投げ込む」のもそのためであった(6節)。
 赤毛の雌牛は、私達のあらゆる罪を清めて下さるイエス・キリストの十字架の贖いを思い起こさせる(ヘブライ人への手紙9章12~13節)。今日の私達もイスラエルの人々と同じようにいつも罪と汚れに晒されている。しかし、私達は赤毛の雌牛を生贄として献げる必要はない。何故なら、「御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血」が、私達の罪と汚れを清め、私達を「生ける神を礼拝する」ことへと導いて下さるからである(同14節)。イエス・キリストの御名によって罪を告白する時、私達は罪の赦しを得ることが出来る。

(2) 民の罪の清めに関わる人々(7~10節)

 祭司は赤毛の雌牛を用いて「イスラエルの人々の共同体のために罪を清める水を作る」(9節)全ての過程に関わった。赤毛の雌牛は祭司の前で屠られ(3節)、焼かれた(5節)。祭司は「指でその血を取って、それを七度、臨在の幕屋の正面に向かって振りま」(4節)いた。「杉の枝、ヒソプ、緋糸を取って、雌牛を焼いている火の中に投げ込む」(6節)ことも祭司の役割であった。このようにして作られた「雌牛の灰」(9節)は、イスラエルの人々の罪を清めるために用いられた。
 しかし、この過程で祭司は「夕方まで汚れ」ることになった(7節)。赤い「雌牛を焼いた者」(8節)、「雌牛の灰を集めた者」(10節)も同様であった。「イスラエルの人々の共同体のために罪を清める水を作る」(9節)ことに携わった時、祭司は「自分の衣服を洗い、体に水を浴び」なければ、「宿営に入ることができ」なかった(7節)。彼らの労苦と犠牲があってこそ、イスラエルの共同体は清さを保つことが出来た。
 キリスト者も祭司の使命を与えられている。罪のために悩み、苦しむ隣人を助けることには、非常に大きな労苦と犠牲を伴う。しかし、その人が救いを受けるために、キリスト者は、聖書の言葉と祈りをもって清さを保つよう努めると共に、愛をもって隣人を助けることを求められている。

聖書の黙想と適用 民数記18章21~32節

聖書の黙想と適用 民数記18章21~32節(新共同訳 旧約p.245)

(1) レビ人に対する報酬(21~24節)

 イスラエルの人々は、約束の地カナンにおいて主なる神から「嗣業の土地」を与えられ、そこを生活の基盤とした。しかし、レビ人は、住まいとして「四十八の町とその放牧地」(35章7節)を与えられただけで、嗣業の土地を所有することはなかった(23~24節)。しかし、主なる神ご自身が彼らの「受けるべき割り当てであり、嗣業」(20節)であった。
 その上で、主なる神は「イスラエルでささげられるすべての十分の一」をレビ人に与えられた(21節)。民がささげた献げ物は、主なる神に対する感謝のしるしであると共に、レビ人が「臨在の幕屋の作業をする報酬」(21節)であった。こうしてレビ人は臨在の幕屋で仕える働きに専念することが出来た。主なる神はご自分のために働く者の奉仕と献身に対して報いて下さる。
 主なる神は今日の教会においてもレビ人のような働き人を立てられている。キリスト者は誰でも尊いが、主なる神への礼拝という神の国における中心的な活動に携わるよう召されたという意味において彼らの職責は特別に尊い。献身者は自分が主なる神のものとされていることに恐れ戦きつつ務めに励もう。また、他のキリスト者は、その働き人が主なる神の言葉をまっすぐに説き明かし、主なる神に忠実に仕えているならば、主なる神の権威を認め、彼らに敬意を払い、彼らの労苦と献身に感謝し、金銭的にも責任をもって支えていこう。

(2) レビ人が主にささげる十分の一の献納物(25~32節)

 十分の一の献げ物は、全ての神の民が主なる神から与えられた恵みの一部を感謝をもって主なる神にお返しするものである。主なる神はレビ人に、主なる神が「嗣業として与えた十分の一」のうち「十分の一を主にささげる献納物」とするよう命じられた(26節)。
 その際、レビ人は「贈られたもののうちから最上のもの、聖なる部分を選んで、主にささげる献納物としなければならな」(29節)かった。また、彼らは「最上のものをささげる」ことにおいて「罪を犯し」たり、「イスラエルの人々の聖なる献げ物を汚」さないように注意しなければならなかった。主なる神はレビ人に、それを蔑ろにすることは「死を招」くと言って厳守を求められた(32節)。
 その上で、レビ人が「主にささげる献納物」は「祭司アロンに与え」られた(28節)。民が献げた主なる神への献納物はレビ人のものとなり、レビ人が献げた主なる神への献納物は祭司のものになった。このようにイスラエルの共同体は、民とレビ人と祭司が相互の奉仕と主なる神の祝福によって親密に繋がっていた。
 キリスト者が自分の収入の10分の1を献げるのも義務感や点数稼ぎのためであってはならない。イスラエルの民は献げ物を通して主なる神への愛を表した。また、それと共に同胞に対する愛と感謝をもって共同体を形成した。同様に、キリスト者が豊かに献げたいと願うのも主なる神を愛しているからである。また、収入の一部を主なる神に献げることによって、教会では他の兄弟姉妹に対する愛と配慮が更に豊かになっていく。