Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 詩編43編1~5節

聖書研究 詩編43編1~5節(新共同訳 旧約pp.876-877)

【概要】
 詩人は主なる神に、よこしまな者から自分を救い出し、光とまことを遣わしてご自分のおられる所に導いて下さるよう願い求めた。彼は、神の祭壇に近づき、主なる神を喜び祝い、琴を奏でて主なる神をほめたたえた。そして、自分の魂に向かって「なぜうなだれるのか」と言い、自らに「神を待ち望め」と語りかけた。

【背景】
42編と43編の関係
 マソラ本文や70人訳では42編と43編に分かれているが、本来は一つの詩であると推察される。その根拠は次の通りである。
①2つの詩のサビが同じである。
②2つの詩の主題と語彙及び形式が同じ、もしくは似ている。
③韻律が同じである。
④43編の表題がない。
 そのため、42編と43編を一つの詩と考え、3つの連(42編2~6節、42編7~12節、43編1~5節)に区分して解釈することも出来る。43編は礼拝で用いるために分けられたと考えられる。

【釈義】
3節 主なる神に救いを願い求める
 主なる神に訴えと嘆きの祈りをささげた詩人は、再び主なる神に救いを求めている。1節と同じく、本節でも3つの命令形動詞とその動詞の再帰的意味を通して、主なる神に救いを求めている。その3つとは、「遣わしてください」(שְׁלַח [šə-laḥ-])、「導(いてください)」(יַנְח֑וּנִי [yan-ḥū-nî;])、「伴って(ください)」(יְבִיא֥וּנִי [yə-ḇî-’ū-nî])である。その主体は、主なる神の「光」(אוֹר [or])と「まこと」(אֱמֶת [emeth])である。42~43編の全体の文脈からすると、「光とまこと」は主なる神の救いを指し示している。「光」は、主なる神との関連で使われる時には主なる神の栄光を意味し、「まこと」は契約の神の真実さを指す。即ち、「光とまこと」の主体であられる神が、敵の虐げや苦しい状況から詩人を救い出して下さる方であることを訴えているのである。これは主なる神をほめたたえることを求める5節や42編6節、12節と繋がる。悪人は「お前の神はどこにいる」と嘲笑うが(42編4節、11節)、詩人はご自分の契約に真実な神が栄光の光に輝く御顔を現し、主なる神が臨在されるシオンの山で礼拝をささげる日が来ることを祈り願った。

【黙想】
 詩人は主なる神の「光とまこと」を求める(3節)。光は暗闇を追いやり、まことは偽りを退ける。主なる神は私達を正しい道に導いて下さる。詩人は主なる神に、悪人達の欺きと不正を退けて下さるように求めた。そして、自分を正しい道へと導き、主なる神の「聖なる山」(3節)に連れて行って下さるように願った。聖なる山、即ちエルサレム神殿に行くことは、疑いから解放され、主なる神の御前に出て礼拝することを指す。詩人を偽りの訴えから救って下さる方は、光とまことの神だけである。

【適用】
 嘆き続けることは、患難の深い谷の中へと私達を追いやり、道を見失わせる。嘆きで苦しみの山を乗り越えることは出来ない。どのような時も私達を導かれるのは主なる神である。道であられる神が、私達を導き、苦しみの山を越えさせて下さる。主なる神は光とまことによって私達を導かれる(3節)。嘆き続けるのではなく、主なる神をほめたたえよう(4節)。苦しみを前にしても、嘆いてばかりいるのではなく、私達を導いて下さる主なる神をほめたたえよう。

【祈り】
 悔しい目に遭った時や、迫害されて霊的に弱くなった時、主なる神に見捨てられたかのようで、絶望してしまいます。主なる神の光と真理の言葉により私を立ち上がらせ、主の臨在の中に導き、悲しみの涙の代わりに喜びの讃美によって主なる神を崇めることが出来ますように。

聖書研究 詩編42編1~12節

聖書研究 詩編42編1~12節(新共同訳 旧約pp.875-876)

【概要】
 詩人は主なる神を求めていた。彼は以前祭りに集う人の群れと共に神の家に行ったことなどを思い起こし、魂を注ぎ出した。敵の虐げや嘲りによって彼の魂はうなだれていたが、主なる神の救いを待ち望み、なお主なる神をほめたたえた。

【背景】
涸れた谷(2節)
 パレスチナの岩盤地質と乾燥した気候では、川は非常に重要な水源である。旧約聖書で「川」と翻訳されている殆どの語は、季節によって生じる川を指すנַ֫חַל [nachal]であるが、ここではאֲפִיק [aphiq]が用いられている。この語は19回ほど登場し、主に渓谷や谷間、峡谷に沿って流れる水の流れを指す。パレスチナのような乾燥地域では、このような川を見つけるのは簡単ではない。この語は捕囚の回復に対しても使われている(126編4節)。

【釈義】
10~12節 敵の故の嘆き、主なる神を待ち望む
 詩人は主なる神を「わたしの岩」(סַלְעִי֮ [sal-‘î])と言い、主なる神が自分の力となって、守って下さっていると告白する。このように彼は主なる神のことを思い起こすが(7節「わたしの神よ」)、現実には自分を虐げる敵(10節)、そして絶え間なく嘲る者に囲まれていた(11節)。彼らは「お前の神はどこにいる」と詩人を謗った(4節、11節)。詩人は、主なる神が自分のことを「お忘れになった」としか思えず、「嘆きつつ歩」きながら、疑問詞の「なぜ」(לָמָ֪ה [lā-māh])を繰り返して、主なる神に自分の心を吐き出した(10節)。この疑問詞の繰り返しによって、現実の苦しみから急いで自分を救って下さることを主なる神に切に願う、詩人の心が強調されている。
 しかし、12節で詩人は、6節と同様にもう一度「御顔こそ、わたしの救い」という信仰を告白し、主なる神を待ち望み、主なる神をほめたたえている。

【黙想】
 詩人はうなだれた状態で主なる神を思い起こそうとした。しかし、彼はエルサレムから遠く離れたヘルモン山、ミザル山にいた(7節)。それは心理的な距離でもあり、主なる神から遠く離れた彼の苦しみを大きくした。
 詩人は主なる神のことを考えようとしたが、まるで主なる神が自分に背を向け、自分のことを忘れてしまったかのように感じていた。そのため、「お前の神はどこにいる」(11節)という敵の言葉が、骨を砕く鋭い剣のように詩人の魂を貫いた。
 それでも詩人が拠り頼めるのは主なる神しかいなかった。それ故、彼は主なる神に「なぜ、わたしをお忘れになったのか」(10節)と切実に訴えた。主なる神が命であり(3節)、岩であり(10節)、恵みを施される方だからである。

【適用】
 詩人は「なぜうなだれるのか」と自分の魂を叱咤した。信仰を失うほどの苦しみの中でも、主なる神に縋り、希望を抱いた。苦しいが激しい時こそ、主なる神を求めるべきである。自分の意志で信仰を持つことは出来ないが、信仰を守ることには意志が必要である。絶望の中でも信仰を守り、主なる神にその苦しみを訴えよう。主なる神は私達と共にいて下さる。

【祈り】
 主よ、問題が生じる度にあなたを信じない者のよう怖気づき、落胆していました。これからはあなたに信頼し、不安に留まることがありませんように。あなた以外には望みがないことを告白し、飢え渇いた心であなたを求めさせて下さい。

聖書研究 民数記36章1~13節

聖書研究 民数記36章1~13節(新共同訳 旧約pp.277-278)

【概要】

【歴史的背景】

【釈義】

【黙想】

【適用】

【祈り】

聖書研究 民数記35章22~34節

聖書研究 民数記35章22~34節(新共同訳 旧約pp.276-277)

【概要】
 過って人を殺した者は、逃れの町に住み、大祭司が死んだら自分の所有地に帰ることが出来た。それよりも前に逃れの町の外に出て行った場合、血の復讐をする者がその人を殺しても罪はない。誰かが人を殺した場合、その審理においては必ず複数の証人の証言が必要であった。その上で、故意に人を殺した者は必ず死刑に処せられなければならなかった。

【歴史的背景】
殺人者に対する対処
 古代セム族の時代から、殺害された人の最も近い親族には、殺人者を追って殺す権利があった。しかし、それにより代々敵対する家が生じた。逃れの町はこれを防止する。殺人者は審理を受けて故意の殺人者と判定されれば血の復讐をする者に渡されるが、故意ではないと判断されれば、復讐する者を避けて逃れの町で保護された。しかし、君主の登場により、王が裁判によって殺人者に死刑を宣告したり、赦免したりするようになると、殺人者の保護は君主に一任された。殺人の裁判の証言には、最低2人の証人が必要であった。故意に人を殺した者は、逃れの町に入っても、祭壇の角を掴んでも引き出されて死刑にされた。殺人者には贖い金も許されなかった。

【釈義】
26~28節 殺人者が逃れの町の外に出た場合
 故意でなかったとしても、人を殺した者が逃れの町の外に出るなら、その人を血の復讐する者から守る術はない。血の復讐をする者がその人を見つけて殺しても、その人を殺した復讐者には殺人罪は適用されない(26~27節)。意図せずに人を殺した者が完全に赦免されるのは、大祭司が死んだ時である。逃れの町に逃げ込んだ者は、大祭司が死んだら、血の復讐を受けるべき状況から解放され、自分の所有地に帰ることが出来た(25節、28節)。大祭司の死が、意図せずに人を殺し、逃れの町に逃げ込んだ者の赦免を可能にした。

【黙想】
 もし殺人者が逃れの町を出るなら、復讐することが出来た(27節)。ソロモンは父ダビデを呪ったシムイをエルサレムに留まるという条件で赦した。しかし、エルサレムを「出て行ってキドロンの川を渡れば、死なねばならない」(列王記上2章37節)と警告した。3年後、逃げた僕を捜し出すためにエルサレムを出た時、シムイは殺された。
 逃れの町はイエス・キリストに似ている。イエス・キリストは罪人の罪を代わりに負って死なれ、贖いをなして命を得させる。しかし、イエス・キリストの外では主なる神の怒りと復讐がある。イエス・キリストの内にある者だけが主なる神の怒りを免れる。逃れの町を出ようとする貪欲に注意しなければならない。

【適用】
 殺人者が逃れの町の外に出ることは、主なる神の守りを拒む行為と見なされた。殺人者は自由に行き来出来る立場にはなかった。限られた空間で生きることは、確かに息苦しい。しかし、逃れの町の外には安全はない。血の復讐をする者にいつ会うか分からない。逃れの町の外に出るということは、主なる神に拠り頼まず、自分の力だけに頼ることだった。
 同様に、イエス・キリストを信じる人は、イエス・キリストの中にいるなら安全である。しかし、或る人は、イエス・キリストを離れている方が楽しく格好良いと考える。イエス・キリストと世の間で綱渡りのような生活をし、片足はイエス・キリストに、もう片方の足は世に置いているような人もいる。このような生活は危機の時に脆く崩れる。逃れの町の外に出て、血の復讐をする者に会うのと同じような状況が起こるのである。イエス・キリストという逃れの町で、平安の内にイエス・キリストと交わりを持ち、イエス・キリストと共に歩む幸いを知るなら、そのような愚かなことはしない。イエス・キリストから離れる時、サタンはキリスト者を攻撃して、食い尽くそうとする。永遠の逃れの町であるイエス・キリストから離れてはならない。

【祈り】
 主よ、殺人者が逃れの町の中でのみ命を守られたように、私達もイエス・キリストの内にあってのみ救いと守りを受けることが出来ます。永遠の逃れの町であられるイエス・キリストの御許に留まり続けることが出来ますように。

聖書研究 民数記35章9~21節

聖書研究 民数記35章9~21節(新共同訳 旧約p.276)

【概要】
 主なる神は、イスラエルの人々がカナンの土地に入る時、逃れの町を定めるよう命じられた。過って人を殺した者が、共同体の前に立って裁きを受ける前に殺されることのないようにするためである。逃れの町はヨルダン川の東側とカナンの土地に計6つ定められた。しかし、故意に人を殺した場合には、その殺害者は必ず死刑に処せられた。

【歴史的背景】
殺人者に対する対処
 古代セム族の時代から、殺害された人の最も近い親族には、殺人者を追って殺す権利があった。しかし、それにより代々敵対する家が生じた。逃れの町はこれを防止する。殺人者は審理を受けて故意の殺人者と判定されれば血の復讐をする者に渡されるが、故意ではないと判断されれば、復讐する者を避けて逃れの町で保護された。しかし、君主の登場により、王が裁判によって殺人者に死刑を宣告したり、赦免したりするようになると、殺人者の保護は君主に一任された。殺人の裁判の証言には、最低2人の証人が必要であった。故意に人を殺した者は、逃れの町に入っても、祭壇の角を掴んでも引き出されて死刑にされた。殺人者には贖い金も許されなかった。

【釈義】
16~21節 故意の殺人に関する規定
 過って、または偶発的に人を殺してしまった者は、逃れの町で保護されたが、故意に人を殺した者は必ず死刑に処せられた。16~21節には故意の殺人の様々なケースが記されている。明確な証拠がある場合には、故意の殺人と判断され、死刑に処せられた。殺人に使われた道具の種類によって、殺人の意図が立証された(16~18節)。
 故意に人を殺した者の処刑は、「血の復讐をする者」(גֹּאֵ֣ל הַדָּ֔ם [gō-’êl had-dām,])、即ち殺された人の最も近い男の親類が行った(19節)。しかし、人を殺した者が被害者を憎んでいたことが立証されたり、相手に恨みを抱いていたという証拠がある場合、使われた道具に関係なく、単に人を突いたり、人に物を投げたり、人を殴りつけて死に到らせたとしても、意図的な殺人と認められた。血の復讐をする者は、その殺害者に出会ったら殺すことが出来た(21節)。

【黙想】
 故意に人を殺した者は逃れの町に身を避けることが出来ない。計画的に人を殺した者、悪意ある動機や敵意を持ち、機会を窺って人を殺した者も、逃れの町に入ることは出来ない。道具を用意して他の人に危害を加えたことは、意図があったとされる。人に危害を加えようとする敵意や怨恨があることも同様である。殺すための道具を使用したことは勿論、憎しみや敵意、恨みなど、隣人を愛さないことが罪であり、裁かれることである。

【適用】
 逃れの町に関する規定を見ると、主なる神が命を大切にしておられることが伝わってくる。逃れの町の規定は、私達に尊い教訓を与える。悪意なく罪を犯してしまった場合、逃れの町であるイエス・キリストに身を避けることが出来る。しかし、悪意を持って故意に罪を犯すことは、救いを拒むことなので、その心を変えない限り救われない。悪と罪を犯したことを悔い改め、心を変えて、主なる神の御前に謙らなければならない。

【祈り】
 命を大切にされる主よ、今日知らずに犯してしまった罪を悔い改め、私の永遠の避け所であられるあなたに縋ります。特に、親しい人や家族に対して言葉を慎み、忍耐をもって愛せるように私を憐れんで下さい。

聖書研究 民数記35章1~8節

聖書研究 民数記35章1~8節(新共同訳 旧約pp.275-276)

【概要】
 エリコに近いモアブの平野で、主なる神はイスラエルの人々に、彼らが嗣業として所有する土地の一部とその周辺の放牧地をレビ人に与えられるように言われた。彼らは、6つの逃れの町を含む48の町とその放牧地を、自分が相続した嗣業の土地の大きさに応じて、レビ人に与えなければならなかった。

【歴史的背景】

【釈義】
3節 レビ人の町と放牧地の用途
 レビ人に与えられた町は、彼らが「住む所」(לָשָׁ֑בֶת [lā-šā-ḇeṯ;])であった。レビ人が「住む」(יָשַׁב [yashab])町は「嗣業の土地」(נַחֲלָה [nachalah])とは違う。嗣業の土地として受けた地は、12部族の所有として与えられた。しかし、12部族がレビ人に分け与える町は、レビ人が財産のように所有するのではなく、ただそこに「住むため」(新改訳、לָשָׁ֑בֶת [lā-šā-ḇeṯ;])の土地であった。また、レビ人に与えられた「放牧地」(מִגְרָשׁ [migrash])は、彼らが所有したのではなく、「彼らの家畜とその群れ、その他すべての動物のため」の共同放牧地として使われた。

【黙想】
 レビ人には主なる神が彼らの嗣業の土地となられた。そのため、カナンの地において嗣業の土地は与えられなかった。しかし彼らにも家庭があり、家畜がいたので、生活する場所が必要だった。そこで主なる神はイスラエルの12部族の中で町と放牧地をお与えになった。レビ人は全部で48の町を受け取った。それらの町は一つの場所に集中しているのではなく、12部族の嗣業の土地に分散していた。即ち、レビ人はカナンの全地域に散らばって住むようになった。
 主なる神はレビ人が10分の1として受け取った家畜を養う時に必要になる放牧地も町の周辺に与えられた。町から1000アンマまでがレビ人の家畜のための放牧地となった。その放牧地の用途は、ただ家畜を養うためのものであり、農業をするための土地ではなかった。主なる神は幕屋に仕えるレビ人が、生活の心配なく主なる神と人間に仕えることが出来るようにされた。レビ人が衣食住に縛られて、務めに集中出来ないということがないようにし、主なる神だけを仰ぎ見て、忠実にその務めに励めるようにして下さった。

【適用】
 主なる神にだけ献身したレビ人に住む所と放牧地を十分に与えられたように、主なる神は今もご自分に頼る人々の必要を満たして下さる。欲を出して必要以上に持とうとするのが問題である。空の鳥、野の百合よりも尊い私達を養って下さるのが主なる神の計画である。心配せずに生活し、主なる神の備えに期待しよう。

【祈り】
 出会いと別れ、持ち物の多さ少なさも、全て主なる神の摂理の中にあることが分かりました。主が定めて下さった私の役割と使命を前に常に謙り、今いる場所が主にあって最善の場所であることを信じることが出来ますように。

聖書研究 民数記34章16~29節

聖書研究 民数記34章16~29節(新共同訳 旧約p.275)

【概要】
 主なる神は、エルアザルとヨシュアと共にカナンの地をイスラエルの人々の嗣業の土地とするために、各部族から指導者を1名選ばなければならないと言われた。そして、ユダ族のカレブ、シメオン族のシェムエル、ベニヤミン族のエリダド、ダン族のブキ、マナセ族のハニエルなどが立てられた。

【歴史的背景】

【釈義】
16~18節 約束の地を嗣業として分配する者
 主なる神はイスラエルが占領する約束の地の範囲を示された後、その地の割り当てを担当する責任者を指名した。モーセの任務はここまでであった。神の民をモアブの平野まで導くことでモーセの任務は終わった。カナンの地をイスラエルに割り当てる責任者は、「祭司エルアザルとヌンの子ヨシュア」であることを、主なる神はモーセに明らかにされた(17節)。
 17節の「~の名は次の通りである」のאֵ֚לֶּה שְׁמֹ֣ות [’êl-leh šə-mō-wṯ] (これらが名前である)と、29節の縮約形式によって記された「以上は~人々である」のאֵ֫לֶּה [elleh]が囲い込み構造を形成し、段落部分を示している。
 ここでは祭司エルアザルがヨシュアよりも先に記されている。また、嗣業の土地の分配のために、1章でイスラエルの兵士の人数を数えた時と同様に、主なる神は各部族から「指導者」(נָשִׂיא [nasiy’])を1名選ぶように命じられている(18節)。

【黙想】
 主なる神はカナンで嗣業の土地を分配するために指導者を立てられた。嗣業の土地を分けることは、各部族が対立する可能性のある事案でもあった。そのため、慎重になすべきことであり、主なる神は公正かつ公平な解決を願われた。そこでイスラエル全体の指導者を助け、主なる神の命令を具体的に実行する各部族の指導者も共に立てられた。
 本文で注目すべきことは、最高指導者がヨシュアと祭司エルアザルとされたことである。嗣業の土地の分配を受ける世代が、出エジプト第1世代ではなく、荒れ野で生まれた出エジプト第2世代だったからである。ヨシュアモーセの後継者であり、主なる神を信頼した人だった。40年前、カナンの地を偵察して戻って来た時、町が堅固で、巨人が住むその地を、主なる神は必ずイスラエルの民に与えて下さると信じた。ヨシュアは主なる神を信頼したために、目の前に広がる状況がどれほど困難に見えても恐れず、揺れ動くことがなかった。主なる神はそのようなヨシュアにカナンの地の分配を委ねられた。その地を最もよく知る上に、信仰に立っていたからである。
 また、ユダ族を代表する指導者としてカレブが立てられた(19節)。ユダ族は各部族の中で最初に言及されており、その指導者として選ばれたのがカレブだった。カレブは「ケナズ人」(32章12節、ヨシュア記14章6節)で、出エジプトの時にイスラエルの民に従い、イスラエル帰化した人だった。その後、カナン偵察の報告の際、ヨシュアと共に、主なる神を信頼して戦うなら、その地を征服出来ると民に訴えた。カレブは元々のイスラエル人以上に信仰に堅く立ち続け、ユダ族を代表する指導者となった。そして、ヨシュアと祭司エルアザルの指揮の下、嗣業の土地の分配のために奔走することになった。主なる神は、血縁や地縁ではなく、その人の心にある思いと信仰を見て、人を立てられる。また、その人の信仰と従順に対して報いを与えて下さる。

【適用】
 主なる神に対する信仰と従順を貫いたヨシュアとカレブは、主なる神によって用いられ、主なる神によって高くされた。ヨシュアとカレブが指導者として立てられたのは、主なる神に信頼したからである。主なる神は心を御覧になる方であり、ご自分に信頼し、従う者を決して忘れられない。主なる神の基準は今も変わらない。私達が彼らのように主なる神に信頼を置き、従うなら、主なる神は私達をご自分の御業のために用いて下さる。ヨシュアとカレブのように、主なる神への信仰によってその言葉に従おう。

【祈り】
 全能なる主よ、取るに足りない弱い私を用いて、あなたの御国のための偉大な御業を成し遂げていかれることを感謝致します。私の能力や経験ではなく、あなたの召命を手に、家庭や職場で自分の役割をしっかりと果たすことが出来るよう助けて下さい。

聖書研究 民数記34章1~15節

聖書研究 民数記34章1~15節(新共同訳 旧約pp.274-275)

【概要】
 主なる神は、イスラエルの人々がカナンの地に入る時、南側はツィンの荒れ野、西側は大海、北側はホル山、東側はハツァル・エナンまでが彼らの嗣業の土地となるとモーセに言われた。そして、くじを引いて、これらを9部族と半部族に与えるよう命じられた。

【歴史的背景】

【釈義】
1~2節 カナンの土地の境界
 民数記の終盤では土地に関すること以外の主題は登場しない。彼らが占領するカナンの地の境界線が描写され(1~15節)、嗣業の土地を分け与える各部族の指導者の名前が記され(16~29節)、レビ人の町(35章1~8節)、逃れの町(35章9~34節)、相続人が女性である場合の規定(36章1~12節)が扱われている。その中で定められた内容を見ると、主なる神がイスラエルにカナンの地を征服させることによって、この律法に従う必要が生じる環境が生じることを期待させられる。そのため、この律法は、カナンの地がイスラエルのものになることを保証する役割をしている。
 34章では、主なる神がモーセイスラエルがカナンの地に入って占領する地の境界線について語っている。まず約束の地の南の境界線(3~5節)、続いて時計回りに西の境界線(6節)、北の境界線(7~9節)、そして東の境界線(10~12節)について語られる。

【黙想】
 カナンの地は贈り物であり、召命の場所でもある。主なる神はカナンをイスラエルに贈り物として与えることで、アブラハムに約束された契約を成就された。そして、部族ごとにくじを引いて、割り当て地を決めていく。くじを引く前に、主なる神はまずイスラエルが居住する地の境界を定められた。全ての地は主なる神の被造物であり、主なる神が主権者であられるが、全地をイスラエルの民に与えられたのではなかった。イスラエルが住むべき地は「境で囲まれたカナンの土地」(2節)である。カナンの地に神の国を建てることがイスラエルの召命であった。

【適用】
 カナンの地を征服する唯一の方法は、主なる神の言葉に服従することである。イスラエルはカナンの地で神の民として生きるという召命を受けた。主なる神が定められた境界線を守り、主なる神の言葉に従うことが命を保つことである。主なる神が与えて下さった贈り物に感謝し、与えられた使命をきちんと果たすなら、主なる神はイスラエルを豊かにされる。主なる神は既にイスラエル勝利のために備えておられる。私達も、ただイエス・キリストだけを信じ、自分の十字架を負ってイエス・キリストに従い、神の国のために戦わなければならない。

【祈り】
 主よ、あなたは罪の故に死ぬしかなかった私に、永遠の命と神の国の希望を与えて下さいました。この世のものにこだわり、あなたが定められた境界線を越えようとしてしまう私を憐れんで下さい。あなたが私に与えて下さったものを信仰と感謝によって味わい楽しむことが出来ますように。

聖書研究 民数記33章38~56節

聖書研究 民数記33章38~56節(新共同訳 旧約pp.273-274)

【概要】
 祭司アロンがホル山で死んだ。主なる神は、イスラエルの人々がカナンの土地に入る時、その土地の住民を全て追い払い、偶像を全て粉砕し、異教の祭壇を悉く破壊し、氏族ごとにくじを引いて、その地を嗣業の土地とするように言われた。そして、もしその土地の住民を追い払わなければ、彼らはイスラエルの民を悩ますようになると警告された。

【歴史的背景】

【釈義】
50~56節 カナン征服のための命令
 未征服の土地はまだ多く残っていたが、ガド族、ルベン族、マナセの半部族が嗣業の土地を割り当てられたことによって、土地に対する主なる神の約束は部分的に成就した。約束の地カナンが目の前にあることを示すために、33章ではイスラエルがエジプトを出発してから、「エリコに近いヨルダン川の対岸にあるモアブの平野」(48節)に到るまでの旅程が回顧されている。
 それに続いて、イスラエルの人々が「ヨルダン川を渡って、カナンの土地に入るとき」、どのようにカナン人に接し、どのように地を割り当てるのかについての命令が与えられ(51節)、もう一度土地の分配に関する原則が提示されている(54節)。人数の多い部族には嗣業の土地を多くし、人数の少ない部族には嗣業の土地を少なくすること、またくじを引いて土地を分けることは26章54~55節の命令を思い起こさせる。「くじ」(גּוֹרָל [goral])は、神の御心を尋ね求める道具で、小石などを投げることによって御心を探った。くじを土地の分配の手段にしたのは、主なる神が主権をもって導かれる最も公平な道具だったからである。
 民数記の最後の5つの章は、土地以外の契約には触れていない。民数記の最後に登場する土地に関する律法(33章50節~36章13節)は、主なる神が彼らにカナンを征服させ、この律法に服従出来る環境を与えられることを意味している。即ち、この律法は、カナンの地が彼らのものになるという約束の成就を保証している。
 主なる神は、土地に関する律法において、カナン人を追い出し、その地からカナン人の宗教を痕跡も残さないほどに根こそぎ引き抜くことをまずお命じになっている(52節)。この命令を成就することによって、イスラエルはカナンを所有し続けることが出来るのである。主の命令に従うなら、イスラエルはカナンで祝福を受ける。しかし、彼らが主の命令を守らないなら呪われる。単に残っているカナン人に敗北するだけでなく、主によって滅ぼされる。
 カナン人を完全に追い払えない場合に起こることが55~56節で説明される。これは呪いの警告であり、旧約に登場する他の契約条項にも登場する(出エジプト記23章33節、34章11~13節、申命記7章1~5節、28章15~68節、ヨシュア記23章12~13節)。もしイスラエルカナン人を追い払わず、また彼らの宗教と偶像を粉砕しない場合には、その地に残っているカナン人が「目に突き刺さるとげ、脇腹に刺さる茨」、即ち悩みとなる。棘と茨は小さいけれども鋭くて痛い。のみならず、目に炎症を起こし、視力を失わせることも出来る。それと同じように、カナン人を少しでも残しておけば、それがイスラエルの未来に大きな問題を起こすことになる。それ故、カナン人を残しておくことは、愚かさを越えて罪なのである。主なる神はご自身に対する民の不従順に対する代価を返される。主なる神は、イスラエルが聞き従わないなら、カナン人に与えられる筈だった刑罰、即ちその地から追放されるという刑罰をイスラエルに対して行うと告げられた(56節)。

【黙想】
 主なる神がイスラエルの民に与えたカナンの地には、カナン人が堅固な町を作って住んでいた。イスラエルの民がその地を占領するためには、町を征服しなければならず、先住民を一人も残らず追い出さなければならなかった。そして、彼らの仕えていた偶像も一つ残らず粉砕しなければならなかった。彼らを追い出さずに残しておくなら、その者がイスラエルの民の「目に突き刺さるとげ、脇腹に刺さる茨」(55節)となって、遂には彼らに征服されてしまうと主なる神は警告された。
 霊の戦いにおいては、どれほど小さな罪と悪の根も残しておいてはならない。敵と妥協して共存することは、彼らに征服される発端となる。その根は、小さくとも知らないうちに広く張り、遂には生い茂る茨と棘を作り出す。だから、自分を誘惑するようなものがあれば、それを取り除かなければならない。自分はそれに打ち勝てると思うこと自体が、根を残すことである。主なる神はイスラエルの民に、一人残らず、皆追い払うよう命じられた。しかし、イスラエルの民は根を残したため、それが育ち、彼らを突き刺す巨大な棘となった。苦しくともしっかりと根を取り除こう。ヨセフのように、ポティファルの妻の手に着物を残してでも逃げよう。それが信仰を守ることになる。

【適用】
 主なる神は、イスラエルの民がカナンの地を征服した時、カナンの土地の住民を一人残らず追い払うように言われた。しかし、イスラエルの民の考えは違っていた。彼らには主の命令は行き過ぎたもののように思われた。それよりも、先住民を奴隷とし、統制して用いた方が賢明であると彼らは考えた。その地の民族を働かせたら、イスラエルの民は、楽で、豊かな生活をすることが出来る。それは合理的で、経験的にも正しいことのように見えた。また自分達にはそれが出来ると彼らは考えた。しかし、実際には思った通りにいかなかった。
 この世の知恵が主なる神の言葉よりも合理的であると感じられる時がある。しかし、主なる神の言葉の正しさが明らかになるのに、それほど時間はかからない。主なる神の命令には皆理由がある。主なる神はご自分の民のことを考えて、命令を下されている。だから、主なる神の言葉に従うべきであり、他のことを優先させてはならない。どんなに小さく見えても、罪と悪が与える影響は、私達が考える以上に大きく深い。主なる神の言葉を軽んじ、罪と悪に妥協すると、それが大きな危険をもたらすことになる。

【祈り】
 始められた方は主なので、私の全ての救いの旅程を終わらせる方も主であると信じます。私の信仰の更なる成長のために、主の約束を掴むことが出来ますように。追い払い、断ち切り、滅ぼすべきものの前で、妥協することなく主の命令に従うことが出来ますように。

聖書研究 民数記33章1~37節

聖書研究 民数記33章1~37節(新共同訳 旧約pp.272-273)

【概要】
 主なる神の命令により、モーセイスラエルの人々の旅程を書き留めた。過越の翌日、ラメセスを出発してスコト、荒れ野の端にあるエタムなどに宿営した。その後、マラ、エリム、葦の海のほとり、シンの荒れ野を通り、レフィディム、シナイの荒れ野、キブロト・ハタアワ、ホル山などに宿営した。

【歴史的背景】

【釈義】

【黙想】

【適用】
 主なる神への信仰を保つためには、思い出すことも必要である。エジプト人の初子の死、葦の海を渡ったこと、荒れ野の旅、これら全てが主なる神の恵みと導きであることをイスラエルが覚えたように、主なる神の救いとあらゆる恵みを事ある毎に思い出すことは、私達にとって信仰の糧となる。救い、導いて下さった主なる神の恵みを思い出し、信仰によって荒れ野のような世を力強く歩んで行こう。


【祈り】
 イスラエルの旅程に私の信仰の旅程を照らしてみます。過越の小羊であられるイエス・キリストの死によって私に永遠の命を下さった恵みから、人生の荒れ野を共に歩んで下さった恵みまで、全てが主の恵みでした。その恵みを覚え、不平が入る隙が感謝で満たされますように。