Five Solas Ministry

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 イザヤ書58章1~12節

聖書研究 イザヤ書58章1~12節(新共同訳 旧約pp.1156-1157)

(1) 偽善的な敬虔(1~5節)

 イスラエルの民は、断食などの苦行をしているのに、何故主なる神は自分達を顧みて下さらないのかと不平を言った(3節)。
 それに対し、主なる神はイスラエルの民の問題をはっきりと指摘された。主なる神が彼らの断食を無視されたのは、彼らが宗教行為を行っていても、内面は徹底して自己中心的だったからである。彼らは「断食の日」に自分の「したい事をし」、自分の「ために労する人々を追い使」(3節)った。また、「断食しながら争いといさかいを起こし」(4節)た。彼らの断食は、自分を引き上げ、自分の欲求を満たすためだけの行為であった。
 自分を低くし、自分を否定することのない宗教生活は、偽善であり、「神に逆らって、こぶしを振るう」(4節)行為である。

(2) 隣人を顧みる敬虔(6~12節)

 主なる神が望まれる敬虔には、困難に直面している隣人に対する愛の実践が含まれている。具体的には、「虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること」(6節)、「飢えた人」に自分の「パンを裂き与え/さまよう貧しい人を家に招き入れ/裸の人に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと」(7節)である。
 主なる神は「飢えている人に心を配り/苦しめられている人の願いを満たす」(10節)ことこそ「わたしの選ぶ断食」(6節)であると言われた。そして、そのように隣人を顧みる人を「いやされ」、導かれ、守られる(9節)。また、その人の叫びに「わたしはここにいる」と応答される(9節)。更にその人に「力を与え」(11節)る。その人は「潤された園、水の涸れない泉」(11節)のように豊かにされ、共同体を再建する者として用いられる(12節)。
 真の敬虔は主なる神が期待されることを実践することである。

復活節第6主日礼拝 2018年5月6日

復活節第6主日礼拝 2018年5月6日

2018年5月6日、復活節第6主日の礼拝を始めます。

●前奏

※初めに、心を静め、主なる神の御前に出て礼拝する思いを整えましょう。

●招詞 詩編66編20節

「神をたたえよ。神はわたしの祈りを退けることなく/慈しみを拒まれませんでした」

※礼拝は主なる神の招きによって始まります。礼拝への招きの言葉が聖書から語られます。

詩編交読 詩編15編1~5節
旧約聖書詩編の一部を1節ずつ交互に読みます。

1 主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り/聖なる山に住むことができるのでしょうか。
2 それは、完全な道を歩き、正しいことを行う人。心には真実の言葉があり/
3 舌には中傷をもたない人。友に災いをもたらさず、親しい人を嘲らない人。
4 主の目にかなわないものは退け/主を畏れる人を尊び/悪事をしないとの誓いを守る人。
5 金を貸しても利息を取らず/賄賂を受けて無実の人を陥れたりしない人。これらのことを守る人は/とこしえに揺らぐことがないでしょう。

●讃美 讃美歌21 151番「主をほめたたえよ」


Lobt Gott, den Herrn, ihr Heiden all

●讃美 讃美歌21 336番「主の昇天こそ」


Auf Christi Himmelfahrt allein (EG 122) - gemeinsames Schlußlied

●聖書朗読

旧約聖書 創世記18章23~33節(新共同訳 旧約pp.24-25)

 23 アブラハムは進み出て言った。「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。24 あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。25 正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」
 26 主は言われた。「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」
 27 アブラハムは答えた。「塵あくたにすぎないわたしですが、あえて、わが主に申し上げます。28 もしかすると、五十人の正しい者に五人足りないかもしれません。それでもあなたは、五人足りないために、町のすべてを滅ぼされますか。」主は言われた。「もし、四十五人いれば滅ぼさない。」
 29 アブラハムは重ねて言った。「もしかすると、四十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「その四十人のためにわたしはそれをしない。」
 30 アブラハムは言った。「主よ、どうかお怒りにならずに、もう少し言わせてください。もしかすると、そこには三十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「もし三十人いるならわたしはそれをしない。」
 31 アブラハムは言った。「あえて、わが主に申し上げます。もしかすると、二十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「その二十人のためにわたしは滅ぼさない。」
 32 アブラハムは言った。「主よ、どうかお怒りにならずに、もう一度だけ言わせてください。もしかすると、十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「その十人のためにわたしは滅ぼさない。」
 33 主はアブラハムと語り終えると、去って行かれた。アブラハムも自分の住まいに帰った。

使徒書 ローマの信徒への手紙8章22~27節(新共同訳 新約pp.284-285)

 22 被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。23 被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。24 わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。25 わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。
 26 同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。27 人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。

福音書 ヨハネによる福音書16章12~24節(新共同訳 新約pp.200-201)

 12 「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。13 しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。14 その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。15 父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」
 16 「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」17 そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」18 また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」19 イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。20 はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。21 女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。22 ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。23 その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。24 今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」

●祈祷

 天におられる私達の父よ、あなたの御名をほめたたえます。あなたの御子イエス・キリストは、全ての人の友となられ、ご自分の命まで差し出す愛を示して下さいました。そして、私達を今日まで生かし、あなたの民に加え、永遠への希望を持つ者として下さいました。それは全てあなたの恵みと憐れみによるものでなくて何でしょうか。あなたの測り知れない恵みに感謝致します。主イエス・キリストのもとに一つに集められた私達が、主の愛に近づくことが出来ますように。
 主よ、あなたの御国が来ますように。御子イエス・キリストは全ての人を心にかけ、招いておられます。一人でも多くの人がイエス・キリストを知り、救われますように。また、あなたに呼ばれ、あなたの民とされた私達が、イエス・キリストに従うことが出来ますように。イエス・キリストを喜びをもって力強く証しすることが出来ますように。
 主よ、あなたの御心が天で行われているように、地でも行われますように。世界ではあなたの喜ばれないことが数多く行われています。あなたは悪を喜ばれず、心の高ぶった者、傲慢な者には御顔を背けられる方です。あなたの御前に謙り、御心を行う個人が、集団が、国が増えていきますように。
 また、私達自身が、御言葉によって養われ、御子イエス・キリストから受けた使命を忠実に果たすことが出来ますように。イエス・キリストのもたらされた愛と平和と真理と正義を世に示す、神の民として成長していけますように。あなたは、祈りであれ、言葉であれ、行いであれ、私達がイエス・キリストにあって御心を行うことを望んでおられます。そして、私達があなたの愛に生きようとする時、あなたは私達と共にいて下さいます。あなたの民を見守り、導いて下さい。私達があなたの愛の掟の内に真の喜びを見出すことが出来ますように。
 主よ、私達に必要な糧を今日与えて下さい。あなたは私達に食物を与え、日々生かして下さっています。私達はあなたの恵みと憐れみによって今日も生かされています。そのことを心から感謝致します。また、私達に今必要なものをどうか備えて下さい。
 主よ、日々多くの罪を犯してしまう私達をどうかお赦し下さい。あなたは、御子イエス・キリスト尊い血によって私達を贖い、水と聖霊によって新しい命を与えて下さいました。どうかその聖なる血潮によって、私達の罪を洗い清めて下さい。私達がバプテスマの恵みを深く悟り、信仰に生きることが出来ますように。
 また、イエス・キリストの贖いの故にあなたが私達を赦して下さったように、私達も自分に罪を犯した人を赦します。あなたの御心に従い、私達のために全てを与えて下さった主イエス・キリストに倣い、私達も互いに愛し、仕え合うことが出来ますように。
 主よ、私達を誘惑に遭わせず、悪い者から救って下さい。私達は非常に弱い者です。いつあなたから離れてしまうか分かりません。どうか私達を見捨てないで下さい。あなたの御顔を私達から遠ざけないで下さい。また、どれほど小さな罪も私達を支配することがないようにして下さい。特に、隣人の心を傷つける偏見や敵意を退けて下さい。分け隔てなく互いを受け入れ、尊重し合うことから平和への道を築いていけますように。
 主よ、国も力も栄光もとこしえにあなたのものです。権威も富も知恵も皆あなたから出ています。あなたこそ全ての根源であられます。私達があなたに御栄光を帰すことが出来ますように。
 あなたと共に世々に生き、支配しておられる御子、私達の主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

信仰告白
※代々の教会が伝えてきた信仰告白である「使徒信条」を唱えます。

「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女(おとめ)マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死ねる者とを審きたまわん。我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。アーメン」

●説教

●讃美 讃美歌21 542番「主が受け入れてくださるから」


Help Us Accept Each Other.m4v

●主の晩餐

 憐れみ深い神よ、御子イエス・キリストは私達の集いの中におられ、今日もご自身の死と復活を記念する主の晩餐に招いて下さいます。主の過越を祝う食卓に与る私達が、イエス・キリストの命を豊かに受けることが出来ますように。私達の内におられるイエス・キリストに支えられ、日々、愛と喜びをもって生きることが出来ますように。
 私達の主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

※信仰を告白し、父と子と聖霊の名によるバプテスマを受けている方はパンと杯をお取り下さい。まだバプテスマを受けていない方、幼児洗礼のみで信仰告白をしていない方は、お取りにならないで下さい。まだ主の晩餐を受けることの出来ない方が、信仰の告白へと導かれ、バプテスマを受け、共に主の晩餐に与る日が来ることを待ち望んでいます。

●報告

献金

 恵み深い父よ、御子イエス・キリストの復活の喜びに満たされて、献げ物を致します。あなたの民の献げ物をどうか顧みて下さい。新しい一週間を始める私達が、私達の内におられるイエス・キリストに支えられ、愛と喜びをもって生きることが出来ますように。私達の日々の生活が、イエス・キリストの呼びかけに応えるものとなりますように。
 私達の主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

※主なる神から受けた豊かな恵みに対する感謝と献身のしるしとして献げ物をします。

●主の祈り
イエス・キリストが私達に教えて下さった主の祈りを一同で献げます。

天にまします我らの父よ。
願わくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を今日も与えたまえ。
我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。
我らを試みに会わせず、悪より救いいだしたまえ。
国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。
アーメン。

●頌栄 讃美歌21 24番「たたえよ、主の民」
※父・子(イエス・キリスト)・聖霊である三位一体の神を讃美します。

●祝福派遣 コリントの信徒への手紙二13章13節

「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」

●後奏

聖書研究 イザヤ書57章11~21節

聖書研究 イザヤ書57章11~21節(新共同訳 旧約pp.1155-1156)

(1) 風に吹き飛ばされる偶像(11~13節)

 主なる神は、イスラエルの民が悪を行う姿を見て、警告し続けた。しかし、彼らは罪によって無感覚になり、主なる神の言葉を「心に留めず/心にかけることもしなかった」(11節)。そして、主なる神が「とこしえに沈黙していると思って」、主なる神を「畏れ」なくなり(11節)、様々な偶像礼拝に陥っていった。
 しかし、イスラエルの民が自分達で造り、拝んでいた「偶像の一群」は、実際には「何の役にも立たない」無力な存在に過ぎなかった(12節)。主なる神は彼らを裁くために、偶像の空しさ、そしてご自分が生きて働いておられることを現そうとされた。
 主なる神の御前に真実でない者は皆滅んでしまう。しかし、主なる神に「身を寄せる者」は、地を受け継ぎ、「聖なる山を継ぐ」ことが出来る(13節)。

(2) 謙る者の祝福(14~21節)

 主なる神は「高く、あがめられて、永遠にいまし/その名を聖と唱えられる方」(15節)である。この方は人間を超越した「高く、聖なる所に住」んでおられる(15節)。
 一方、主なる神は、低い所にいる人、即ち「へりくだる霊の人」、「打ち砕かれた心の人」と「共にあり」、彼らの嘆きをすぐ傍で聞かれる。主なる神は、謙遜な人、罪を悔い改める人を捨て置かれず、彼らに「命を得させる」(15節)。また、「民のうちの嘆く人々」(18節)を「いや」し、彼らの傷ついた心に「平和」をお与えになる(19節)。その反面、「神に逆らう者」は「巻き上がる海のよう」に安定感がなく(20節)、「平和はない」まま生きることになる(21節)。
 主なる神は「唇の実りを創造し、与え」(19節)る者として、宣言したことを必ず実行される。

聖書研究 イザヤ書57章1~10節

聖書研究 イザヤ書57章1~10節(新共同訳 旧約pp.1154-1155)

(1) 主なる神に従う人がいなくなる社会(1~2節)

 主なる神に背く社会では、「神に従」う人々、「神の慈しみに生きる人々」が虐待と苦難に遭う(1節)。本文はユダの王マナセが主なる神に従う人を迫害したことを念頭に置いている(列王記下21章16節)。
 主に従った人の無念の死について「だれひとり心にかけなかった」。主に従う人がいなくなってしまうことが何を意味するかに「気づく者」もいなかった(1節)。共同体全体が主なる神に背く中で、主なる神は苦しみに遭っている自分に従う者を速やかに取り去られる。
 主なる神に従う者がこの世を早く去るのは惜しむべきことである。しかし、それはずっと「さいなまれて」(1節)きた彼らに永遠の安息を与える主なる神のご配慮である。「真実に歩む人」に死後「平和が訪れる」ことは(2節)、新約聖書でも「今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである。……彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである」(ヨハネの黙示録14章13節)という言葉に表されている。

(2) イスラエルの霊的姦淫(3~10節)

 主なる神に背く社会では偽の宗教が栄えている。イスラエルの民は真の神を捨ててしまったが、偽りの偶像に対してはとても好意的であった。彼らは多産を願って姦淫を犯したり(3節)、願いを叶えるために自分の子供を犠牲として捧げたりした(5節)。主なる神に対する愛は冷めてしまったのに、偶像に対する愛と情熱は尽きることを知らなかった(6節、9節)。
 偽りの宗教は真の宗教を批判する中で発生するものであるが、それ自体は欺瞞と不道徳である場合が多い。主なる神はイスラエルの民との関係を結婚関係に喩え、彼らの偶像礼拝を霊的姦淫と見なされた(8節)。イスラエルは霊的姦淫によって主なる神を裏切ったのである。

聖書研究 イザヤ書56章1~12節

聖書研究 イザヤ書56章1~12節(新共同訳 旧約pp.1153-1154)

(1) 異邦人の救い(1~8節)

 イスラエルの民がバビロンからエルサレムに帰還した後、主なる神の救いの計画は新しい局面を迎える。主なる神は「安息日を守り、それを汚すことのない人/悪事に手をつけないように自戒する人」(2節)に祝福を宣言される。
 また、それまで「異邦人」や「宦官」は(3節)、イスラエルと区別され、神殿での礼拝に参加することが出来なかった。しかし、主なる神は、イスラエルの民と一緒にエルサレムに来て、神殿と都を再建する仕事に参加した異邦人、またバビロンとペルシアで宦官となったユダヤ人に対し、「主に仕え、主の名を愛し、その僕となり」(6節)、「安息日を常に守り」、主なる神が「望むことを選び」(4節)、主なる神の「契約を固く守るなら」(4節、6節)、彼らは神の民に含まれ、主なる神に直接礼拝を献げることが出来るようになると告げられた(7節)。
 それ故、主なる神は神殿を「すべての民の祈りの家」(7節)と呼ばれる。主なる神は、ご自分を愛し、ご自分の契約を守る全ての人に約束を果たされる。

(2) 主なる神を畏れぬ指導者(9~12節)

 イスラエルの指導者に対する主なる神の失望が表されている。
 イスラエルの指導者は、自分達が置かれている状況をよく観察し、危機が迫っている時には民にそれを知らせる「見張り」(10節)であり、「羊飼い」(11節)である。だから、彼らはいかなる時も気を緩めてはならない。指導者が自分の役割を忠実に果たす時、共同体は安全で平安である。
 しかし、イスラエルの指導者は「それぞれ自分の好む道に向かい/自分の利益を追い求め」(11節)、見張り、羊飼いとしての務めを等閑にした。彼らには自分の務めに対する専門的な識見がなく、その重要性についての理解もなく、何よりも熱意や責任感が欠如していた(10節)。
 結局、指導者の無責任と怠惰の故にイスラエルは敵に略奪されてしまった。指導者が目覚めていなければ、その共同体は倒れてしまう。

聖書研究 イザヤ書55章1~13節

聖書研究 イザヤ書55章1~13節(新共同訳 旧約pp.1152-1153)

(1) 主なる神の招き(1~5節)

 主なる神は「来るがよい」とイスラエルを繰り返し招かれる。ここではバビロンによる彼らの苦しみが激しい渇きと飢えに喩えられている(1節)。主なる神は飢え渇きの中にあるご自分の民を呼ばれる。そこには「銀を持たない者」も飲むことの出来る水があり、「値を払うことなく」得ることの出来る穀物とぶどう酒と乳があるからである(1節)。
 主なる神はイスラエルと「とこしえの契約」を結ばれる(3節)。そして、ご自分の民に「輝きを与え」(5節)、ダビデのようなメシアを「諸国民の指導者、統治者」として立てられる(4節)。彼は主なる神から与えられた栄光と権力をもって諸国の民と国々を導き、治められる。
 この預言と招きはイエス・キリストの到来において成就した(ヨハネによる福音書4章13~14節、6章35節)。また、後に完成する主の統治に対する望みを私達に抱かせる(ヨハネの黙示録22章17節)。

(2) 豊かに赦して下さる主なる神(6~13節)

 主なる神はご自分の民をもう一度招かれる(6節)。そして、ご自分の思いを伝えられる。バビロンによる苦しみは、イスラエルの罪に対する主なる神の懲らしめであった。しかし、イスラエルが主なる神の御心を知り、悪から離れ、主の御名を呼び求めて「立ち帰るならば、主は憐れんで」、「豊かに赦してくださる」(7節)。
 主なる神は慈しみ深い御方である。目の前の現実だけを見て、全てが終わった、回復する可能性はないと簡単に判断してはいけない。何故なら、主なる神の思いは人間の思いを「高く超えている」からである(8~9節)。そして、主なる神の言葉は必ず成就する(11節)。
「茨」が「糸杉」に、「おどろ」が「ミルトス」に変わるように(13節)、イスラエルは奇蹟のように回復する。彼らは「喜び祝いながら出で立ち/平和のうちに導かれて行く」(12節)。この出来事は「主に対する記念となり、しるしとな」り、「とこしえに消し去られることがない」(13節)。

聖書研究 イザヤ書54章9~17節

聖書研究 イザヤ書54章9~17節(新共同訳 旧約pp.1151-1152)

(1) 揺らぐことがない平和の契約(9~10節)

 主なる神とイスラエルの関係が敵対の状態から平和の状態に変わる。そして、主なる神は契約という形でそのことを保証し、イスラエルの民に確信を与えようとされた。
 その際、主なる神はイスラエルにノアとの契約を思い起こさせている。かつて主なる神は「再び地上にノアの洪水を起こすことはない」(9節)と誓われた(創世記9章11節)。同様に、たとえ「山が移り、丘が揺らぐこと」があったとしても、「わたしの結ぶ平和の契約は揺らぐことはない」(10節)と主なる神は宣言された。
 主なる神はご自分の民に対して深い慈しみと憐れみを持っておられ、その愛は永遠である(10節)。新約聖書においても使徒パウロがいかなるものも「わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」(ローマの信徒への手紙8章38~39節)と告白している。

(2) 主の僕らの嗣業(11~17節)

 エルサレムが「苦しめられ、嵐にもてあそばれ、慰める者もない都」(11節)と表現されている。そこには、敵がまた襲って来て、住民の命を奪ったり、都を破壊するのではないかという不安と恐怖が満ちていた。
 それに対し、主なる神はエルサレムを新しく建てると宣言された。「アンチモンを使って/あなたの石を積む。サファイアであなたの基を固め/赤めのうであなたの塔を/エメラルドであなたの門を飾り/地境に沿って美しい石を連ねる」(11~12節)という予告は、エルサレムが以前とは比較にならないほど堅固で華やかに建てられることを示唆している。
 また、イスラエルの民の子孫は「皆、主について教えを受け」、彼らの内には「平和が豊かにある」(13節)。「虐げる者」「破壊する者」「攻め寄せる者」が現れても、主なる神がイスラエルの味方になって下さるので、イスラエルは敵に勝利する(14~15節)。イスラエルを討つために武器を作ったり、「裁きの座」でイスラエルを訴えようとする者は、逆に自分が罪に定められて滅びてしまう(17節)。
 こうして共同体の中に神の義が実現される。これが主の僕に主なる神が与えられる「嗣業」であり、「恵みの業」である(17節)。

聖書研究 イザヤ書54章1~8節

聖書研究 イザヤ書54章1~8節(新共同訳 旧約pp.1150-1151)

(1) 歓声をあげ、喜び歌え(1~3節)

 神の民であるイスラエルエルサレムに象徴されている。バビロンによって破壊され、荒廃したエルサレムは、「不妊の女」「夫に捨てられた女」に喩えられている(1節)。古代社会において女に夫がいないことは、自分を守ってくれる人のいない貧しい状態を意味した。また、子供がいないことは何の希望もないことを意味した。
 そのような女が「歓声をあげ、喜び歌え」(1節)と命じられている。彼女は、「夫ある女」よりも多くの子供を持つ母となり(1節)、広く大きな天幕を立て(2節)、その「子孫は諸国の民の土地を継」(3節)ぐことになるからである(2節)。また、「荒れ果てた町々」は回復し、再び「人が住む」ようになる(3節)。主なる神の救いは不可能な条件から驚くべき結果を生み出す。

(2) 恐れるな、最早恥を受けることはない(4~8節)

 主なる神は、イスラエルの「造り主」「聖なる神」であり、また「万軍の主」「全地の神」と呼ばれる全能の主である(5節)。この方が、イスラエルの「夫となられ」、彼らを「贖う」ことを自ら宣言された(5節)。だから、イスラエルの民は主なる神の救いを確信することが出来た。
 イスラエルが罪を犯したため、主なる神は「激しく怒って」、「わずかの間」彼らを「捨て」、その御顔を彼らから隠された。しかし、「捨てられて、苦悩する妻を呼ぶように」、主なる神は「深い憐れみをもって」再びイスラエルを「引き寄せ」られる(7~8節)。主なる神はご自分の民を「とこしえの慈しみをもって」(8節)憐れまれる方である。
 主なる神が深い愛をもってイスラエルを救われる。だから、彼らはもう「恥を受けること」も「辱められる」こともなく、「恐れる」必要も「うろたえる」必要もない(4節)。

聖書研究 イザヤ書53章7~12節

聖書研究 イザヤ書53章7~12節(新共同訳 旧約p.1150)

(1) 屠り場に引かれる小羊のように(7~9節)

 主の僕に対する「苦役」(7節)、捕縛、「裁き」、処刑(8節)、葬りの過程(9節)、人々の反応は(8節)、イエス・キリストが遭われた受難と完全に一致している。イエス・キリストは、罪のない御方であったにもかかわらず、重罪を犯した人間のように尋問され、処刑された。それは「屠り場に引かれる小羊のよう」(7節)であった。
 バプテスマのヨハネイエス・キリストについて「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネによる福音書1章29節)と表現した。フィリポはイザヤのこの預言を読んでいたエチオピヤの高官のところに行き、この主の僕がイエス・キリストのことであると教えた(使徒言行録8章32~35節)。
 イエス・キリストはご自分の死の意味と目的をよくご存知であった。それ故、黙々と、最後まで全ての苦しみを受けられた。その恵みによって私達は生かされている。

(2) 主なる神が望まれることを成し遂げた僕(10~12節)

 イエス・キリストは、「多くの人が正しい者とされるために」、人間の「罪を自ら負った」(11節)。人間を罪から救うために「多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをした」(12節、ルカによる福音書22章34節)。
 そして、イエス・キリストがご自分の命を「償いの献げ物」として差し出されたのは、「主の望まれること」であった(10節)。それ故、この方を自分の救い主として受け入れる時、私達は義と見なされ、主なる神の刑罰を免れることが出来る。
 イエス・キリストは「自らの苦しみの実りを見/それを知って満足」(11節)される。主なる神もイエス・キリストによって大いに喜ばれる。「彼は子孫が末永く続くのを見る」(10節)や「彼は戦利品としておびただしい人を受ける」(12節)といった表現は、主なる神がイエス・キリストに与えられる祝福を表している。
「十字架の死に至るまで従順」であったが故に、主なる神は「キリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えに」なった。イエス・キリストは、「天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて」、その「御名にひざまずき」、王の王、主の主として崇めるべき方である(フィリピの信徒への手紙2章8~11節)。

復活節第5主日礼拝 2018年4月29日

復活節第5主日礼拝 2018年4月29日