読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 詩編25編1~22節

聖書の黙想と適用 詩編25編1~22節(新共同訳 旧約pp.855-856)

(1) 主なる神の道(1~10節)

 ダビデは、主なる神を「仰ぎ望み」(1節)、罪の赦しと守りを祈り求めた。彼は、自分が「恥を受け」、「敵が誇ること」が起こりかねない状況の中にあって、主なる神に依り頼んだ(2節)。そして、主なる神がご自分に「従う道」を示して下さること(4節)、主なる神が自分を導いて下さることを切に願った(5節)。主なる神に「望みをおく者はだれも決して恥を受けること」(3節)はないと確信していたからである。主なる神は、ご自身の御前に謙る柔和な者を、その「まこと」をもって「救ってくださる」方である(5節)。
 その際、ダビデは、主なる神が、彼の「若いときの罪と背き」を思い起こさず、「憐れみと慈しみ」を施して下さることを求めている(6~7節)。主なる神が「恵み深く正しくいまし/罪人に道を示してくださ」(8節)る方であること、「主の道を貧しい人に教えてくだ」(9節)さる方であることを信じていたからである。
 主なる神の「契約と定めを守る人にとって」、主なる神の道は「慈しみとまこと」の道である(10節)。その道を歩むことが苦難に勝利する道である。私達も、自分の力では正しい行いが出来ない、主なる神が求めるようには生きられない罪人である。そのことを深く自覚させられた時、イエス・キリストの十字架を仰ぎ見ることへと導かれる。主なる神を慕い求め、主なる神に望みを置く人は、決して絶望することはない。

(2) 主を畏れる人(11~22節)

 ダビデは、多くの悩みを抱え、痛みと苦しみの中にあった(17節)。また、多くの敵に囲まれ、どこにも拠り所のない状況であった。しかし、そうした苦難の中でダビデは自らの罪深さを自覚させられた。そして、そこから彼は主なる神に罪の赦しを求めた(11節)。また、「貧しく、孤独」な状況に置かれていることに対しては、主なる神が「御顔を向けて」、「憐れんでくださ」ることを求めた(16節)。敵から憎まれ、「不法を仕掛け」(19節)られていることに対しては、「恥を受けることのないよう」主なる神に助けを求めた(20節)。
「主を畏れる人」(12節、14節)は主なる神から視線を離さない。「わたしはいつも主に目を注いでいます」(15節)とダビデは告白する。罠にかかったような自分の「足を網から引き出してくださる」(15節)のは、主なる神だけであると確信していたからである。自分がどうしようもない人間であることを悟らされ、自分ではどうすることも出来ない問題に囲まれる中で、ダビデは、現実を見据えつつ、現実を超えた主なる神の力に頼ることへと導かれた。主なる神は「主を畏れる人」に「選ぶべき道を示される」(12節)方、「契約の奥義を悟らせてくださる」(14節)方である。主なる神を畏れる人には主の祝福が臨む(13節)。
 更に、ダビデは「神よ、イスラエルをすべての苦難から贖ってください」とイスラエル全体の救いのために執り成しの祈りを献げている(22節)。主なる神の御前に謙る者とされた時、私達は自分の苦しみだけでなく、隣人の苦しみ、共同体の苦しみのためにも祈る者へと変えられていく。