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Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 マルコによる福音書10章32~45節

聖書研究 マルコによる福音書10章32~45節(新共同訳 新約pp.82-83)

(1) イエス・キリストの3度目の受難予告(32~34節)

 イエス・キリストは、「エルサレムへ上って行く途中」、「自分の身に起ころうとしていること」について、これまでよりも具体的に弟子達に語られた(32節)。「自分の身に起ころうとしていること」と訳されているギリシア語(τὰ μέλλοντα αὐτῷ συμβαίνειν [ta mellonta autō symbainein])を直訳すると、「彼に今すぐにも起ころうとしていること」である。μέλλονταは、動詞μέλλω [melló]の分詞で、「今にも起こる」「確実に起こる」といった意味を表す。受難が今にも差し迫っていることをマルコは緊張感と共に読者に伝えている。
 イエス・キリストは祭司長や律法学者に引き渡される。そして、彼らはイエス・キリストに死刑を宣告し、異邦人に引き渡す(33節)。「異邦人に引き渡す」というのは、イエス・キリストローマ帝国の総督であったピラトに引き渡して、裁判を受けさせることを意味する(15章1節)。そして、異邦人はイエス・キリストを「侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す」(34節、15章15~20節)。イエス・キリストエルサレムで歓迎されず、死刑に処せられると聞いた弟子達は、大きな衝撃を受けたことだろう。
 また、この3度目の受難予告においてイエス・キリストは「三日の後に復活する」(34節)ことに初めて言及された。ユダヤ人にとって復活は、終末に神の国が臨む時に起こる救いの徴の一つであった。彼らは、メシアが世の終わりに悪とそれに同調した者を裁き、義人を救うと信じていた。だからこそ、イエス・キリストが殺されるというのは、弟子達には理解出来ないことであった。
 イエス・キリストの死を通して神の国が建てられるということは、復活の光に照らされることによって初めて理解出来る。イエス・キリストの死と復活は、共にキリスト教信仰の根本である。

(2) ヤコブとヨハネの願い(35~45節)

 イエス・キリストに従おうとする者には、「自分を捨て、自分の十字架を背負」(8章34節)うことが求められる。しかし、弟子達は、イエス・キリストがご自分の死について予告された後、的外れな応答をした。ヤコブとヨハネが「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人をあなたの左に座らせてください」(37節)とイエス・キリストに願った。イエス・キリストが3度も受難を予告された後に、このようなことを願うのは、イエスがメシア(キリスト)であられることの意味について、彼らが根本的な誤解をしていたこと以外の何ものでもなかった。それ故、イエス・キリストは「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」(38節)と言われた。
 その上で、イエス・キリストは2人に「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」(38節)と質問された。イエス・キリストが「飲む杯」、「受ける洗礼」というのは、エルサレムでこれから受ける苦しみのことであろう。それに対し、ヤコブとヨハネは、イエス・キリストの言葉の意味を十分理解することなく、「できます」と答えた(39節)。2人の答えを聞いて、イエス・キリストは、彼らが確かにイエス・キリストの飲む杯を飲み、受ける洗礼を受けることになると告げられた(39節)。実際、ヤコブは弟子達の中で最初に殉教し(使徒言行録12章1~2節)、ヨハネも最後に殉教した。
 一方、ヤコブとヨハネの抜け駆けに対して、他の弟子達は腹を立てた(41節)。というのは、彼らもヤコブやヨハネと同じ野望を持っていたからである。
 この世の価値観に囚われていた弟子達に対し、イエス・キリストは「異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない」(42~43節)と言われた。そして、「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」(43~44節)と教えられた。「仕える者」と訳されているギリシア語(διάκονος [diakonos])は、元々「給仕をする」という意味で、奴隷が主人の身の回りの世話をすることを表している。「僕」と訳されているギリシア語(δοῦλος [doulos])も、「主人の下で働き、主人の言うことを何でも行う奴隷」を意味した(宮平望『マルコによる福音書――私訳と解説』東京: 新教出版社, 2008年, p.252)。
 イエス・キリストは、神の国において偉い者は《仕える》者であると明言された。そして、自らの行為、自らの生涯を、弟子達が倣うべき模範として示された(45節)。また、ここでイエス・キリストは「多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」ということを初めて語られた。