Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 詩編26編1~12節

聖書研究 詩編26編1~12節(新共同訳 旧約pp.856-857)

(1) 完全な道(1~7節)

「わたしは完全な道を歩いてきました」とダビデは言う(1節)。ダビデは一度も罪を犯さなかったわけではない。そのことは、彼が自分の部下のウリヤを激戦地に送り込んで死なせ、その妻バト・シェバを奪った出来事などを見れば明らかである(サムエル記下11章26節)。にもかかわらず、何故彼はそのように言うことが出来たのだろうか。自分がこれまで犯してきた罪に対して鈍感だったのだろうか。それとも虚勢を張っていたのだろうか。そうではない。
「完全な道」とは、主なる神と共にあること、即ち、主なる神の「慈しみ」が自分の「目の前にあ」ることを信じ、主なる神の「まことに従って歩き続け」(3節)る歩み、「主に信頼して、よろめ」(1節)かない歩みである。そして、そのためにダビデは主なる神に自分の隅から隅まで徹底的に調べていただくことを願った。彼は「主よ、わたしを調べ、試み/はらわたと心を火をもって試して下さい」(2節)と述べている。主なる神から吟味を受けることを望んだのは、「偽る者の仲間に入らず/悪事を謀る者の集いを憎み/主に逆らう者と共に座ること」(4~5節)を避けるためであった。ダビデは、主なる神を恐れない者の集まりを憎み、主なる神に忠実に仕えようとする者の集まりを愛した。そして、自らも主なる神の「祭壇を廻り/感謝の歌声を響かせ/驚くべき御業をことごとく語り伝え」(6~7節)ることを願った。

(2) 主なる神がおられる所を慕う(8~12節)

 ダビデは主なる神が「います家」と、その「栄光の宿るところ」を慕い求めた(8節)。これは、ダビデだけでなく、主なる神を信じる者であるならば、誰もが抱く思いだろう。コラの子も「万軍の主よ、あなたのいますところはどれほど愛されていることでしょう。主の庭を慕って、わたしの魂は絶え入りそうです。命の神に向かって、わたしの身も心も叫びます」(詩編84編2~3節)と歌っている。一方、主なる神から離れて生きる「罪ある者」は、「流血を犯す者」であり(9節)、「汚れた行いに馴れ/その右の手には奪った物が満ちて」(10節)いる。
 そのような中で、ダビデは、「わたしは完全な道を歩きます」という願いと共に、主なる神に「わたしを憐れみ、贖ってください」と祈り求めている(11節)。彼の願いが、主なる神の慈しみと恵みによって可能となることを知っていたからである。主なる神は、そのようなダビデの祈りに応えて下さり、彼の足を「まっすぐな道に立」たせた。それ故、ダビデ聖歌隊と共に主なる神をほめたたえた(12節)。