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Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 詩編27編1~14節

聖書研究 詩編27編1~14節(新共同訳 旧約pp.857-858)

(1) 命の砦であられる主なる神(1~3節)

 ダビデは主なる神が必ず守って下さると信頼していた。主なる神が「わたしの光、わたしの救い」(1節)であられ、「わたしの命の砦」(1節)となって下さるならば、恐ろしいものは何もない。私達人間は死を恐れる。人類の祖アダムが罪を犯し、死がこの世に入り込んできた後(ローマの信徒への手紙5章12節)、土に返る死だけでなく(創世記3章19節)、殺人も起こるようになった(同4章8節)。私達は、死の恐怖の故に互いを警戒し、恐れなければならなくなった。
 しかし、主なる神は、ご自身の「言」であり、「独り子」であられるイエス・キリストを世に送られた(ヨハネによる福音書1章14節)。イエス・キリストは、暗闇の中に生きていた人間に「恵みと真理」を示され、神の国の到来を告げられた。そして、「死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放」(ヘブライ人への手紙2章15節)された。イエス・キリストは既に世に勝利されている(ヨハネによる福音書16章33節)。だから、私達が真に恐れるべき対象は世ではなく、主なる神である(1節)。敵に取り囲まれて迫って来ても、苦しめてきても(2節)、戦いを挑んできても、主なる神に依り頼むならば、私達はあらゆる恐れから自由にされる(3節)。

(2) 主なる神の御顔を尋ね求める(4~14節)

「貪欲な敵」、「偽りの証人、不法を言い広める者」(12節)に囲まれ、危機に直面していた中で、ダビデは「ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう」(4節)と言った。この時、ダビデは何を求めただろうか。自分に味方してくれる支持者・協力者だろうか。自分の身を守るために必要な手段だろうか。そうではなかった。ダビデが祈り求めたのは「命のある限り、主の家に宿り/主を仰ぎ望んで喜びを得/その宮で朝を迎えること」(4節)であった。決して余裕があるとは言えない状況の中で、ダビデは主なる神に心を向けた。いや、目の前の問題の解決に忙殺され、主なる神との交わりを十分に持つことが出来ずにいたため、ダビデは自分の心の渇きに気付かされたのかも知れない。
「主の幕屋」には主なる神がおられる。そこで私達は主なる神と出会うことが出来る(5節)。その結果、「歓声をあげ/主に向かって賛美の歌を歌う」(6節)者へと変えられる。そして、主なる神もまた、「わたしの顔を尋ね求めよ」(8節)と私達に呼びかけておられる。「救いの神」は、「わたしの助け」であられ(9節)、「父母はわたしを見捨てようとも」、「必ず、わたしを引き寄せてくださ」る方である(10節)。そして、私達に「道を示し/平らな道に導いてくださ」(11節)る。それ故、「主を待ち望め/雄々しくあれ、心を強くせよ」(14節)とダビデは言う。主なる神を尋ね求める者は、「命ある者の地で主の恵みを見る」(13節)ことが出来る。