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Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書のメッセージ マタイによる福音書8章23~27節

福岡女学院中学校・高等学校 礼拝 2016年10月6日
聖書箇所: マタイによる福音書8章23~27節(新共同訳 新約p.14)
讃美歌21: 494(ガリラヤの風)
奨励: 「そこにイエス・キリストがおられる」

 本日、福岡女学院中学校・高等学校の皆さんと一緒に朝の礼拝を守ることが出来ることを嬉しく思います。礼拝でのメッセージについてお話をいただいた時、皆さんの学校のキリスト教強調日に5年前の東日本大震災について想い起こし、考える時を持たれるとお聞きしました。そのことを踏まえつつ、私の方も震災との関わりの中で聖書の話をしたいと考えています。
 最初に、皆さんに一つ質問をさせて下さい。この夏、日本では2つの映画が大ヒットをしました。一つは『シン・ゴジラ』、もう一つは『君の名は』です。どちらか御覧になられた方は手を挙げていただきたいと思います。『シン・ゴジラ』では突然東京にゴジラが現れ、街を破壊し、前日まで普通に生活していた人が命を落としています。『君の名は』でも、私自身は見ていないのですが、隕石の墜落による町の壊滅が物語の中で大変重要な出来事であるようです。どちらも東日本大震災を念頭に置いているのは明らかです。
 私はインターネットでこの2つの作品について解説している幾つかの文章を読みました。その中に「『シン・ゴジラ』と『君の名は』が東日本大震災から5年経って出てきたというのは、震災という現実を私達が受けとめられるようになるのに5年かかったということではないか」という内容の文章がありました。確かにそうかも知れません。大震災と大津波という圧倒的な現実は生き残った人に問いを突きつけました。「何故あのような津波が襲ったのか」「何故あの人はこのような形で突然人生を終えなければならなかったのか」「人は死んだらどうなるのか」「何故あの人は死に、私は生き残ったのか」「私はこれからどのように生きていったらいいのか」……。
 私は1980年に兵庫県で生まれました。特別宗教的な家庭で育ったわけでも、幼い頃から宗教に強い関心を持っていたわけでもありません。ところが、1995年1月17日、阪神・淡路大震災に被災しました。当時私は中学3年で、同級生の一人が地震によって倒壊した家の下敷きになり亡くなりました。震災の前日、私は彼と普通に会話を交わし、「じゃあまた明日」と言って別れました。それだけに、私は地震の意味について、人間の生と死の問題について考えずにはいられませんでした。
 そのような中で、京都にあるキリスト教主義の高校に入学しました。そこでは皆さんの学校と同じようにキリスト教学の授業があり、聖書について学びました。また、朝には礼拝があり、高校の先生や近くの教会の牧師が話をされました。その中で先程読んでいただいた聖書の言葉に出会いました。
 この箇所では、イエス・キリストが舟に乗り込まれ、弟子達もそれに従うと(23節)、湖に激しい嵐が起こり、舟が波に呑まれそうになったことが記されています(24節)。生きるか死ぬかの危機に直面した時、弟子達は全く無力でした。彼らは「主よ、助けてください。おぼれそうです」(25節)と言って、イエス・キリストに助けを求めることしか出来ませんでした。それに対し、イエス・キリストが風と湖を叱りつけると、波は静かになりました(26節)。
 この箇所を初めて読んだ時、私は「イエスは眠っておられた」という24節の言葉にとても驚きました。そして、嵐の只中にあっても全く動揺されなかったイエス・キリストに、「いったい、この方はどういう方なのだろう」(27節)と人々と同じ感想を持ちました。というのは、阪神淡路大震災の後、度々余震が起こったからです。4月に熊本で地震が起こった時もそうでしたが、夜中に突然強い地震が襲いました。揺れで目が覚め、「また来るのではないか」と恐れ、そのまま朝まで眠れなかったこともありました。
 イエス・キリストはここで弟子達に「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ」(26節)と言われています。何故怖がる必要がないのでしょうか。イエス・キリストが彼らと一緒におられたからです。激しい嵐を前にして、弟子達は、舟にイエス・キリストが一緒に乗っておられること、いやイエス・キリストに招かれて自分がその舟に乗っていることを見失ってしまいました。そして、そのために心の平安を失ってしまいました。しかし、イエス・キリストはそのような弟子達をお見捨てにはなりませんでした。また、弟子達がどういう状況にあったか、気付いていなかったわけでも、彼らのことをどうでもいいと思っていたわけでもありませんでした。そのようなイエス・キリストに頼もしさと安心感を覚えたのを今でも覚えています。
 この時、私はクリスチャンではなく、聖書の知識も殆どありませんでした。しかし、イエス・キリストという方には何かあるのではないかと思うようになりました。そして、イエス・キリストとの出会いが私のその後の人生を変えました。弟子達と同じように、私も《嵐》が襲うと慌てふためくことの連続でした。しかし、そのような時、イエス・キリストは「なぜ怖がるのか」と言われ、ご自分のもとへと私を招いて下さいました。残り4回、皆さんと一緒に聖書の言葉を味わうことが出来ればと願っています。

祈り
 愛する天の父よ、あなたの御子イエス・キリストは、私達を見捨てず、いつも共にいて下さいます。福岡女学院で学ぶ中学生、高校生、また先生方と共にあり、一日の歩みをお守り下さい。また、震災からの再建の途上にある東北地方や熊本の方々、相次ぐ台風の接近によって被害を受けた方々と今日も共にあり、お守り下さい。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。