Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 詩編28編1~9節

聖書研究 詩編28編1~9節(新共同訳 旧約pp.858-859)

(1) 主よ、あなたを呼び求めます(1~5節)

 ダビデは主なる神を「わたしの岩よ」と呼んでいる。彼は、主なる神が「岩」(צוּר [tsur])のように、完全に依り頼むことが出来、世代を越えて堅く立つ方であると信じていた。それ故、切迫した状況の中で自分の祈りに応えて下さるよう「呼び求め」た(1節)。
 ところが、その主なる神が「御顔を隠」(27編9節)し、ダビデを苦しみの中に放置しているように思われた。そのため、ダビデは「わたしに対して沈黙しないでください」(1節)と叫んだ。「沈黙しないで」と訳されているヘブライ語(תֶּחֱרַ֪שׁ [te-ḥĕ-raš]、原形はחָרַשׁ [charash])は、「沈黙する」、「耳を閉じる」(新改訳)という意味で、意思疎通がままならない状態を指す。そして、「あなたが黙しておられるなら/わたしは墓に下る者とされてしまいます」とダビデは訴えた(1節)。「墓」と訳されているヘブライ語(בֽוֹר [ḇō-wr])には、「穴」(新改訳)、「窪み」、「陰府の入口」という意味がある。ダビデは主なる神との交わりを断たれたような大きな不安の中にいた。
 それでも、ダビデは主なる神がおられる「至聖所に向かって手を上げ」て祈った。彼は「嘆き祈るわたしの声を聞いてください」と「救いを求めて叫び」、主なる神に沈黙せず、積極的に介入して下さるよう願った(2節)。
 また、ダビデは「神に逆らう者、悪を行う者と共に/わたしを引いて行かないでください」と求めている。彼らは「仲間に向かって平和を口に」するけれども、「心には悪意を抱」く偽善者であった(3節)。のみならず、彼らは主なる神に対しても悪を行っていた。悪を行う者は「主の御業、御手の業を」悟ろうとせず、主なる神を畏れなかった(5節)。
 それ故、ダビデは、悪を行う者と正しい者を区分する主なる神の裁きを求め、「その仕業、悪事に応じて彼らに報いてください。その手のなすところに応じて/彼らに報い、罰してください」(4節)と願った。「彼らを滅ぼし、再び興さないでください」(5節)とさえダビデは祈っている。

(2) 主をたたえよ(6~9節)

 祈りは主なる神への訴えに終わらない。そこから私達は主なる神に対する感謝と讃美へと導かれていく。6~7節は「主をたたえよ」で始まり、「感謝いたします」と終わっている。その間に讃美と感謝の理由が語られている。主なる神は「嘆き祈るわたしの声を聞いてくださいました」とダビデは言う(6節)。
 その上で、ダビデは、主なる神を「わたしの力、わたしの盾」と告白し、「わたしの心は主に依り頼みます。主の助けを得てわたしの心は喜び躍ります」と述べている(7節)。戦場にいる者にとって、戦うための「力」と防御のための「盾」は絶対に必要なものである。「岩」である主なる神は、自らダビデの「力」となり、「盾」となり、救いと勝利をもたらして下さる。
 更に、ダビデは、主なる神が自分にとって「力」であり、「その砦」であり、「救い」であるだけでなく(8節)、神の民イスラエルにとってもそうであると歌っている。ダビデは「お救いください、あなたの民を。祝福してください、あなたの嗣業の民を。とこしえに彼らを導き養ってください」(9節)と求めている。「あなたの民」「あなたの嗣業の民」という表現は、イスラエルが主なる神に属する共同体であることを示している。ダビデは、イスラエルの王として「油注がれた者」(8節)であったが、イスラエルの所有者は主なる神であると信じていた。主なる神がイスラエルを救い、祝福し、永遠に「導き養って」下さることを願うダビデの祈りは、「良い羊飼い」(ヨハネによる福音書10章11節)であるイエス・キリストによって真に成就した。