Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 ローマの信徒への手紙9章14~24節

聖書研究 ローマの信徒への手紙9章14~24節(新共同訳 新約pp.286-287)

(1) 主権者としての神(14~19節)

 主なる神は創造主であり、主権者であられる。パウロは、出エジプト記33章19節を引用し、主なる神が「自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈し」(15節)まれると説いた。誰に憐れみを施すかは、主なる神の主権に属することであり、人間が判断したり、干渉したり出来ることではない。
 主なる神は、ご自分の「力を現し」、ご自分の「名を全世界に告げ知らせる」ために(17節、出エジプト記9章16節)、ご自分に逆らう者さえ用いられる。「かたくなにしたい者をかたくなに」(18節)し、悪人に悪い役割を委ねることによってである。パウロはその例としてエジプトのファラオを挙げている(17節)。
 とはいえ、このような主なる神の主権に対して反発する人がいた。彼らは、主なる神が御心のままに全てのことを行い、全ての人間を動かされているのであれば、罪に対する責任を負うべきなのは主なる神ではないかと主張した(14節)。そして、「なぜ、神はなおも人を責められるのだろうか」(19節)と抗議した。アダムも罪を犯した時、主なる神にそのように弁明した(創世記3章12節)。それに対し、パウロは「決してそうではない」(14節)と断言した。

(2) 主なる神の作品としての人間(20~24節)

 パウロは人間を主なる神によって造られた器に喩えている。焼き物師が自分の構想に基づいて作品を制作するように(21節)、主なる神はご自分が創造した人間を通して「御自分の豊かな栄光をお示しになる」(23節)とパウロは言う。人間は主なる神の存在と性質を現す作品である。そして、この主なる神の主権は、ユダヤ人だけでなく、異邦人にも及んでいる(24節)。
 主なる神は、或る人を悔い改めてご自分に立ち返る「憐れみの器」(23節)として、或る人を「寛大な心で耐え忍ばれた」にもかかわらずご自分に立ち返らない「怒りの器」(22節)として永遠の昔に選ばれた。人間の側から見れば、全員が救いに与ることが出来たらいいのにと思われるが、誰が救われて誰が滅びるかは、主なる神だけがご存知であり、人間には全く不明である。
 しかし、主なる神のなさることは不公平であり、間違っていると非難することは出来ない。何故なら、私達が裁かれるのは、私達自身の悪い行いの故であって、主なる神の不義の故ではないからである。人間が罪を犯すよう、主なる神が誘惑しているわけではない。人間が主なる神に口答えすることは、自分を主なる神と同列に置く不遜極まりない行為である(20節)。私達は被造物として主なる神の御心に従うことを求められている。
 その一方で、私達には誰が救われるか判断することは出来ない。イエス・キリストの福音から遠いように見える人であっても、主なる神は何でもお出来になるので救われるかも知れない。或いは、末期がんでホスピスに入り、チャプレン(牧師)から宗教的ケアを受ける中で、死ぬ間際に救われる人もいるかも知れない。だからこそ、一人でも多くの人に福音を伝えることが大切である。