Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 詩編31編1~9節

聖書研究 詩編31編1~9節(新共同訳 旧約pp.860-861)

(1) わたしの砦(1~5節)

 敵が罠を張ってダビデを狙う中で、ダビデは主なる神の御許に身を寄せた(2節)。そして、「あなたの耳をわたしに傾け/急いでわたしを救い出してください」(3節)、「御名にふさわしく、わたしを守り導き/隠された網に落ちたわたしを引き出してください」(4~5節)と切に祈り求めた。ダビデは主なる神を「砦の岩、城塞」(3節)、「わたしの大岩、わたしの砦」(4節)と呼び、全幅の信頼を置いた。
 人間に頼り、この世に頼っても、私達は全き平和を与えられることはない。実際、聖書の中には「君侯に依り頼んではならない。人間には救う力はない」(詩編146編3節)、「人を恐れると、わなに陥る、主に信頼する者は安らかである」(箴言29章26節・口語訳)、「人間に頼るのをやめよ/鼻で息をしているだけの者に。どこに彼の値打ちがあるのか」(イザヤ書2章22節)といった人間に依り頼むことを戒める警告の言葉が数多く見られる。
 それに対し、主なる神は完全な方であられる。主なる神に頼り、主なる神の内に留まるならば、私達は主なる神から全き平和を与えられる。イエス・キリストも「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」(ヨハネによる福音書14章27節)と弟子達を励まされた。

(2) 御手にわたしの霊を委ねます(6~9節)

 敵に囲まれても、ダビデの心が乱れなかった理由は、「まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます」(6節)という告白にある。彼は、苦難と危機の中にあって自分の霊を主なる神の御手に委ねるほどに、主なる神を信頼していた。後に十字架におけるイエス・キリスト、死の直前のステファノも同じように祈っている(ルカによる福音書23章46節、使徒言行録7章59節)。自分の命を主なる神に委ねた人は、この世が与えることの出来ない平和と慰めの中に入れられる。何故なら、主なる神はご自身の御手の内にある人間を敵の手に渡すようなことを決してなさらないからである。
 ダビデにとって頼るべき方は主なる神だけであった。彼は「空しい偶像に頼る」(7節)ことをせず、主なる神だけを信頼した。どれほど魅力的に見えたとしても、人が造った偶像には人を救う力はないからである。それに対し、「あなたはわたしの苦しみを御覧になり/わたしの魂の悩みを知ってくださいました」(8節)とダビデは言う。この時、ダビデはまだ苦難から抜け出してはいなかった。しかし、主なる神が必ず自分を敵の手から救い出して下さると彼は信じていた。それ故、ダビデは「知ってくださいました」と言うことが出来た。主なる神がダビデの苦難を御覧になっているという信頼があったからこそ、彼は敵から苦しみを受ける中でも「喜び躍」ることが出来た(8節)。そして、実際、主なる神はダビデを「敵の手に渡すことなく」、その「足を広い所に立たせ」られた(9節)。