Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書のメッセージ フィリピの信徒への手紙1章20節

聖書のメッセージ フィリピの信徒への手紙1章20節(新共同訳 新約p.362)

 パウロはフィリピの信徒への手紙を書いた時、牢屋に入れられていました。イエス・キリストを信じるよう宣べ伝えたためです。そして、いつ死ぬことになるか分からない状況にありました。しかも、パウロが捕まっている間に、彼に反対する人達が、彼がこれまで教えてきたことを全部ひっくり返すようなことを教会で語っていました。死を前にし、自分が命懸けで頑張ってきたことを否定される中で、パウロはこれまでの人生について振り返らざるを得なかったでしょう。
 私は高校生の頃、教会に行き始めました。当時私が住んでいた関西で大きな地震(阪神淡路大震災)が起こり、私の近くにいた人が何人か突然死を迎えたことがきっかけです。そのことにより「私はいつか必ず死ぬ。それはもしかしたら今日かも知れない」という恐れが心から離れなくなりました。親や学校・塾の先生は私に「頑張れ」と励ましてきました。私が良い学校に行けるよう。良い仕事に就けるよう。結婚し、子供が与えられ、幸せな家庭を築けるよう。しかし、たとえそれらが叶ったとしても、最後に死ぬのであれば一体何の意味があるのか。しかも、その死は今日突然やって来るかも知れない。そう思うと、私は自分が何のために生きているのか、何を目指して生きればいいのか、分からなくなりました。
 パウロは「何を目指して生きているか」という問いに対し、一つのはっきりとした答えを持っていました。彼は言います。「そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています」。
 パウロは「キリストがあがめられる」ということだけを願って生きてきました。生きるにしても死ぬにしても、イエス・キリストが崇められることだけを求めて生きてきました。だから、牢屋に入れられても、人生の終わりに差しかかっても、自分がやってきたことを否定されても、何を求めて生きるべきかを見失うことはありませんでした。
 私は子供の頃自分が思い描いていたような姿になれませんでした。しかし、イエス・キリストと出会い、自分の願い通りになること以上に大切なこと、そして素晴らしいことがあるのを知りました。イエス・キリストが共にいて下さる時、失敗は失敗のままでは終わらず、悲しみは悲しみのままでは終わりません。
 皆さんもこの1週間色々なことがあると思います。しかし、「キリストがあがめられる」ということをひたすら目指して生きていくならば、どこに行っても、何があっても、挫けることなく前に進み続けることが出来ます。