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G. K. Chesterton Orthodoxy VII

G. K. Chesterton Orthodoxy VII
【関心・疑問】

【論文名】
7 永遠の革命

【著者名】
G. K. Chesterton (安西 徹雄訳)

【書名・(巻・号)・出版社・出版年・(版)】
Heretics ; Orthodoxy ; The Blatchford Controversies, The Collected Works of G. K. Chesterton; 1, San Francisco: Ignatius Press, 1986, pp.307-328
(『正統とは何か』東京: 春秋社, 1995年, pp.183-224)

【本文の構成】
1 本書以外のあらゆる物のための弁明
2 脳病院からの出発
3 思想の自殺
4 おとぎの国の倫理学
5 世界の旗
6 キリスト教の逆説
7 永遠の革命
8 正統のロマンス
9 権威と冒険

【内容の要約(ページ数)】

【引用したい文章(ページ数)】
 すでに述べたように、世人が進歩主義者となるべき理由の一つとして挙げているのは、世の中の物事が自然によくなって行く傾向があるということである。だが、進歩主義者となるべき真の理由はただ一つ、世の中の物事は自然に悪くなって行く傾向があるということなのである。いや、物事が堕落して行くということは、単に進歩主義の最大の論拠であるだけではない。保守主義に反対すべき唯一の論拠でもある。事物の堕落というこの一事がなかったならば、実に保守主義はまさしく包括的で反論の余地のない理論となるだろう。けれども、あらゆる保守主義の基礎となっている観念は、物事は放っておけばそのままになっているという考えかたである。ところがこれが誤りなのだ。物事を放っておけば、まるで奔流のような変化に巻きこまれるに決まっている。たとえば白い杭を放っておけばたちまち黒くなる。どうしても白くしておきたいというのなら、いつでも何度でも塗り変えていかなければならない――ということはつまり、いつでも革命をしていなければならぬということなのである。つづめて言えば、その古い白い杭が欲しければ、新しい白い杭にしなければならぬのだ。ところが、このことは生命のない棒杭についてさえ当てはまるのだが、すべて人間に関する事象の場合には、きわめて特殊な、恐るべき意味において当てはまる。文明のうちに住む人間は、ほとんど非人間的と言えるほどの緊張を要求される。というのは、人間の作り出したあらゆる制度は凄まじい速度で老化するからだ。今日の小説やジャーナリズムでは、人びとは古い制度の圧制に苦しんでいると言うのが決まり文句になっている。だが実際は、人びとは新しい制度の圧制に苦しんでいるのがほとんどいつでものことなのだ。つい二十年ばかり前には、新しい自由をもたらす制度として作られたものが、今やたちまち新しい圧制と化している。英国史から例を取るなら、イギリスはエリザベス一世民族主義君主制の到来を狂気のごとく歓喜しながら、今度は、ほとんどその直後、チャールズ一世の圧政の罠にかかって狂気のごとく激怒した。フランスで例を取るなら、君主制が人民に耐え難くなったのは、君主制を辛うじて耐えていた時代の直後ではなくて、君主制を熱狂的に讃美した時代の直後のことだった。人民に慕われたルイの息子が、ギロチンにかけられたルイだったのだ。同じように十九世紀のイギリスでは、急進的な工場主は人民の利益の代表者として完全な信頼を得ていたかと思うと、突然社会主義者の攻撃の叫びが上がり、工場主は人民をパンのように貪り食らう圧制の張本人ということになってしまった。そして最近に到って、またしても同様の例が見られる。ついこの間まで、われわれは新聞を輿論の公器として信頼しきっていたものだ。ところが近ごろになって、それも徐々にではなく突然に、新聞はまったくそんな代物ではないと気がついたのである。新聞は、今日の新聞社の性格からして、一握りの金持のお遊びなのだ。要するにわれわれは、古めかしいものに反抗すべき必要はぜんぜんない。新しいものに反抗すればよいのである。現代の世界を支えているのは、資本家にしても編集長にしても、とにかく新しい支配者である。現代の王様が憲法を踏みにじろうとするような怖れは少しもない。そんなことをするくらいなら、憲法など無視して、その裏にまわって取り引きするだろう。王権を楯に取るなどという真似はまずしない。むしろ王権のなさを楯に取るほうがありそうなことである。つまり、現代の王様には実権はなく、だから世間の目にさらされて批判を浴びることもないという事実を利用するだろう。というのも、実際、今日王様ほど私的な生活を送れる人はほかにないのである。今日、王権による新聞の検閲などに今さら反対して戦う必要などまったくない。そもそも新聞の検閲など必要ないのだ。新聞自身がご丁寧に検閲してくれているからである。(pp.319-321; 邦訳pp.208-210)

 普通、社会主義に反対する人びとが、人間性の本質からしてこれだけは変えられないとか変えられるとか言う場合、一つの重大な区別のあることをいつも忘れている。今日描き出されている理想の社会像の中で、とうてい実現の可能性のない望みもあるが、同時に、とうてい望ましくはない望みというものもあるのだ。すべての人間が同じように美しい家に住むべきだという夢は、実現可能であるかもしれないし、実現不可能であるかもしれない。だが、すべての人間が同じ一つの美しい家に住むべきだという夢は、実は夢でも何でもない。それは悪夢というものだ。男はあらゆる老婦人を愛さねばならぬというのは実現不可能の理想だろう。しかし男はあらゆる老婦人を自分の母親とそっくり同じに愛さねばならぬというのは、単に実現不可能な理想というだけではなく、実現されてはならない理想というものだ。(pp.327-328; 邦訳p.222)

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