Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 詩編139編13~24節

聖書研究 詩編139編13~24節(新共同訳 旧約p.980)

(1) 私達一人一人に対する主なる神のご計画(13~18節)

 私達一人一人に対する主なる神のご計画は、人間の理解を遥かに越えた不思議なものである。ダビデは、自分を造った主なる神の御業について、「わたしはあなたに感謝をささげる。わたしは恐ろしい力によって/驚くべきものに造り上げられている」(14節)と述べている。母の胎に宿る前から全てを計画され、体の各器官を造り、胎内で細かく組み立て、この世に生まれさせた主なる神の驚くべき御業に(13節)、ダビデは畏怖の念と驚きを感じずにはいられなかった。
 主なる神は愛と関心をもって私達一人一人を御覧になられており(16節)、主なる神の御前では「骨も隠されてはいない」(15節)。「胎児であったわたし」(16節)と訳されているヘブライ語(גֹּ֫לֶם [golem])には、「まだ形を成していない」という意味が込められており、母の胎内で成長中の胎児を表している。「胚」と訳しても間違いではないだろう。ダビデは「わたしの日々はあなたの書にすべて記されている/まだその一日も造られないうちから」(16節)と語り、私達が存在する前から既に主なる神のご計画の中にあったことを歌っている。科学がどれほど発達しても、生命の起源について説明することは出来ない。人間の創造は人間の理解を越えた奇蹟である。
 そして、私達が造られる前から主なる神が私達のことをご存知であられるならば、今私達が生きている日々についてもご存知であるのは言うまでもない。私達は偶然にこの世界に投げ込まれた存在ではない。主なる神が私達一人一人に対して貴い計画を抱いておられる。ダビデは「あなたの御計らいは/わたしにとっていかに貴いことか。神よ、いかにそれは数多いことか」(17節)と述べ、主なる神の「御計らい」を讃美し、その数の多さに感嘆の声を上げている。私達に対する主なる神のお考えは、「数えようとしても、砂の粒より多」(18節)い。
 主なる神は、私達を造られ、私達のことを全てご存知であられ、そして、私達と共にいて下さる方である。この主なる神を知り、主なる神に堅く信頼する時、私達は慰めと平安、そして勝利の喜びを味わうことが出来る。

(2) どこまでも主なる神の側に立つ(19~24節)

 主なる神に逆らう者から苦しみを与えられる中で、ダビデは「どうか神よ、逆らう者を打ち滅ぼしてください」と主なる神の助けを待ち望んだ(19節)。預言者エレミヤも主なる神に「神に逆らう者の道は栄え/欺く者は皆、安穏に過ごしているのですか」(エレミヤ書12章1節)と訴え、「彼らを屠られる羊として引き出し/殺戮の日のために取り分けてください」(同3節)と願い求めている。
 ダビデは、主なる神に逆らう者について、「流血を謀る者」(19節)であり、「たくらみをもって御名を唱え/あなたの町々をむなしくしてしまう者」(20節)と述べている。「たくらみをもって御名を唱え」るとは、口先では主なる神を敬うけれども、その心は主なる神から遠く離れている状態を指していると理解することが出来る(マタイによる福音書15章8節、エレミヤ書12章2節)。
 そして、そのような人々について、ダビデは「主よ、あなたを憎む者をわたしも憎み/あなたに立ち向かう者を忌むべきものとし/激しい憎しみをもって彼らを憎み/彼らをわたしの敵とします」(21~22節)と述べ、彼らを自分の敵とし、どこまでも主なる神の側に立つことを表明した。
 その一方で、ダビデは、「神よ、わたしを究め/わたしの心を知ってください。わたしを試し、悩みを知ってください」(23節)と主なる神に求めている。また、「御覧ください/わたしの内に迷いの道があるかどうかを。どうか、わたしを/とこしえの道に導いてください」(24節)と願っている。この言葉は、主なる神に心を探っていただき、また御心に反する歩みをしていないか調べていただくことによって、主なる神の「とこしえの道」へと導かれることを祈り求めるダビデの思いを表している。
 私達は弱いので、主なる神の御心に適わない行動をしてしまうことがある。だからこそ、主なる神に心を聖くしていただき、罪に陥らないように祈る必要がある。また、自分の中に悪い思いや行いがあると分かった時には、すぐに正す必要がある。私達のことを全てご存知であられ、私達の祈りを聴いておられる主なる神は、私達が正しい道を進むことが出来るよう導いて下さる。