Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 詩編34編12~23節

聖書の黙想と適用 詩編34編12~23節(新共同訳 旧約p.865)

(1) 主を畏れること(12~15節)

 ダビデは「子ら」、即ちイスラエルの民に「主を畏れることを教え」た(12節)。神の民イスラエルにとって最も重要なことは、主なる神を畏れることであった。それ故、ダビデは王として主なる神に従うよう民に教えた。それは「喜びをもって生き/長生きして幸いを見」(13節)る道でもあった。
 では、具体的にどのように生きることが、主なる神を畏れることになるのか。この問いに対し、ダビデは「舌を悪から/唇を偽りの言葉から遠ざけ/悪を避け、善を行い/平和を尋ね求め、追い求めよ」(14~15節)と述べている。悪口を言ったり、偽りを語る時、私達は対立と分裂を引き起こすことになる。また、悪を避け、主なる神に従って善を行う時、私達は主の平和を実現する者とされる。主なる神を畏れることは、観念的なことではなく、極めて実際的なことである。
 更に、主を畏れる時、私達の口からは悪口や偽りではなく、祈りが出てくるようになる。そのことが16節以下で語られている。

(2) 主に従う人と主に逆らう者(16~23節)

 ダビデは、主に従う人と主に逆らう者が主なる神から夫々どのような報いを受けるかについて語っている。
 主なる神は「従う人に目を注ぎ/助けを求める叫びに耳を傾けてくださる」(16節)方である。主なる神の目と耳はご自身に従う人に向けられている。神の民の叫び声や呻きは主なる神に届いている(出エジプト記3章23節)。それ故、彼らが助けを求める時、その祈りに答え、苦難から助け出される(18節)。主なる神はご自身に従う人に必要なものをご存知であられる。
 一方、主なる神は、「悪を行う者」にも御顔を向けておられ、そして「その名の記念を地上から絶たれる」(17節)。即ち、悪人の痕跡を地上から完全に絶ち、彼らが誰からも想い起こされないようにされる。また、悪人は自らの罪の結果をその身に受け、滅びに到る(22節)。
 主なる神を畏れることは、私達が主なる神の祝福の内を歩む道である。とはいえ、主なる神を畏れて生きることには多くの苦難が伴う。主なる神の御前で涙を流さずにはいられない時もある。「主に従う人には災いが重なる」(20節)というのは、ダビデ自身が悪を行う者の陰謀や親しかった人の裏切りを経験する中で出てきた言葉であろう。しかし、主なる神は、ご自身に従う者が悪人から苦しみを受ける時、「骨の一本も損なわれることのないように」守り、支えて下さる(20節)。主なる神を畏れる人を主なる神が見捨てられることはない。
 にもかかわらず、私達は、主なる神から離れ、主なる神を畏れなくなることがある。そのような私達に、ダビデは主なる神に立ち帰るよう説く。主なる神は「打ち砕かれた心に近くいまし/悔いる霊を救ってくださる」(19節)方である。私達が罪を悔い改め、「主を避けどころとする」ならば、「罪に定められることがない」(23節)。そればかりか、主なる神ご自身が「その僕の魂を贖ってくださる」(23節)。主なる神は御子イエス・キリストの十字架によって私達の罪を贖って下さった。