Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 詩編139編13~24節

聖書の黙想と適用 詩編139編13~24節(新共同訳 旧約p.980)

(1) 胎児(胚)における人間としての尊厳

 キリスト教会は2000年の歴史において中絶を道徳的に許されない行為と考える立場を堅持してきた。
 聖書の中に中絶の是非について直接的に教えている箇所はない。しかし、創造主である神の御業との関係において、胚や胎児も人間としての尊厳を持っていることは幾つかの箇所で述べられている。
 詩編139編13節には「あなたは、わたしの内臓を造り、母の胎内にわたしを組み立ててくださった」と、同16節には「胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている/まだその一日も造られないうちから」とあり、私達の命(人生)が主なる神から与えられたものであり、その初めから主なる神のご計画の内にあることへの畏敬の念が言い表されている。
 エレミヤ書1章5節でも主なる神が「わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別した」と述べておられ、私達の命が母の胎内にあった時から主なる神のご支配の下にあることが語られている。

(2) ローマ帝国における中絶の頻発

 教会がその初めの時から中絶に対し厳しい態度をとってきたことは、ローマ帝国において中絶や生まれたばかりの子供の殺害が広く行われていたことも無関係ではない。

「帝制以前のローマでは、ギリシアと同じく、中絶に関する明確な資料がすくないが、帝制ローマでは、中絶が一般的だったことが異教徒やキリスト教徒の著作によっても確かめられる。富んだ人々も貧しい人々も、奴隷も自由人も、老いも若きも、多くの人々が自分で中絶を行なったり、また人にしてもらったりしていた」(Michael J. Gorman, Abortion and the Early Church: Christian, Jewish and Pagan Attitude in the Greco-Roman World, Downers Grove: Inter-Varsity Press, 1982 (平野あい子訳『初代教会と中絶』東京: すぐ書房, 1990年, p.26))

 当時のギリシア・ローマ世界では「多くの子供を養うことが出来ない」「不倫を隠す」などの理由から中絶が行われていた。また、障害を持って生まれてきた子供の安楽死は当然のことと考えられていた。

(3) 《隣人》としての胎児(胚)――中絶に対する教会の反対

 最初期の教会は、ローマ帝国に蔓延していた性的頽廃の結果としての中絶の頻発に猛然と反対した。1世紀後半から2世紀に成立した「十二使徒の教訓」(ディダケー)や「バルナバの手紙」から、私達は中絶の問題に対する当時の教会の見方を知ることが出来る。

「人を殺してはならない。姦通をしてはならない。子供を犯してはならない。不品行を行なってはならない。盗んではならない。魔術を行なってはならない。毒を盛ってはならない。堕胎をしてはならない。新生児を殺してはならない」(佐竹明訳「十二使徒の教訓」2章2節, 『使徒教父文書』聖書の世界; 別巻4. 新約; 2, 東京: 講談社, 1974年, p.20)

「あなたの隣人をあなたの魂以上に愛しなさい。堕胎をしたり、また、新生児を殺してはならない」(佐竹明訳「バルナバの手紙」19章5節, 前掲書, pp.52-53)

「殺してはならない」(出エジプト記20章13節)という十戒の戒めについて、教会は、胚や胎児にも同様に適用されると考え、中絶を《殺人》と見なしてきた。また、「バルナバの手紙」では「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ記19章18節)という律法を根拠に、中絶の否定の根拠として《隣人愛》が挙げられている。
 2世紀後半に活躍した教父テルトゥリアヌス(Quintus Septimius Florens Tertullianus)も同様の見解を述べている。

「われわれの場合、人を殺すことは全面的に禁止されているので、母の胎内にある子供でも、母親の血がこの人間を形造るためにそそがれている限り、中絶することは許されていない。出生の中絶は早手まわしの殺人である。生まれ出た生命を取り除こうが、生まれようとしている者を中絶しようが殺人は殺人である。人間になろうとしている者もまた人間であり、胤のなかには果実全体が宿っているのであるから(Tertullianus, Apologeticus Adversus Gentes pro Christianis, 9:8 (鈴木一郎訳『護教論(アポロゲティクス)』キリスト教教父著作集; 第14巻. テルトゥリアヌス; 2, 東京: 教文館, 1987年, p.27))。

 ローマ・カトリックは、20世紀後半に開催された第2ヴァティカン公会議(Concilium Vaticanum Secundum, 1962-1965)でも「生命は受胎されたときから最高の配慮をもって守らなければならない。人工中絶や赤子殺しはもっとも恐ろしい犯罪である」と表明し、胚や胎児が人間であり、その命を奪うことは殺人以外の何物でもないという立場を堅持している(教皇庁教理省編, ホアン・マシア, 馬場真光共訳『生命のはじまりに関する教書――人間の生命のはじまりに対する尊重と生殖過程の尊厳に関する現代のいくつかの疑問に答えて』東京: カトリック中央協議会, 1996年, 第3版, p.19)。
 このように、胚や胎児を《隣人》と見なすが故に中絶に反対することが、教会の基本的な姿勢であり続けてきた。