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Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 詩編35編19~28節

聖書研究 詩編35編19~18節(新共同訳 旧約p.867)

 悪を行う者が主なる神に従う者よりも繁栄しているように見えることがある。しかし、それは、イエス・キリストが語られた「毒麦のたとえ」にあるように、彼らの正体が誰の目にも明らかになるまでの間、一時的に許されていることである(マタイによる福音書13章29~30節)。主なる神はいつまでも裁きを行わず、悪を放置される方ではない。

(1) 正しい裁きを行われる方(19~26節)

 ダビデは「敵が不当に喜ぶことがありませんように」(19節)と主なる神に祈っている。ダビデの敵は「平和を語ることなく/この地の穏やかな人々を欺こうとしてい」(20節)た。彼らは「大口を開けて嘲笑い」、「この目で見た」と偽証することによって(21節)、「無実な」(19節)ダビデを陥れようとした。
 こうした中で公正な判断を下すことが出来るのは、主なる神だけであった。ダビデは「主よ」(22節)、「わたしの主よ」(22節)、「わたしの神、わたしの主よ」(23節)、「主よ、わたしの神よ」(24節)と繰り返し呼びかけている。そして「あなたは御覧になっています。沈黙なさらないでください」「遠く離れないでください」(22節)、「わたしに代わって争ってください」(23節)、「敵が喜んで/『うまく行った』と心の中で言いませんように。『ひと呑みにした』と言いませんように」(24~25節)と懇願している。
 その際、ダビデは「わたしのために裁きに臨み」(23節)と求める一方で、「あなたの正しさによって裁いてください」(24節)と述べている。彼は、悪人が行っていることだけでなく、自分自身をも主なる神の裁きの前に差し出している。このように祈ることによって、ダビデは、主なる神の御前に謙り、自分の弱さと限界を認め、あくまでも主なる神の裁きに全てを委ねた。
 勿論、ダビデは、主なる神が義を愛し、悪を憎む方であられることを知っていた。主なる神がご自身の正しさによって裁かれる時、結果として彼の敵は「恥と嘲りを受け」(26節)ることになる。ダビデの側が彼らに対して罪を犯していたら、このように祈ることは出来なかった筈である。

(2) 御自分の僕の平和を望む方(27~28節)

 ダビデは、主なる神が正しい裁きをして下さることによって、彼を見守っていた人々が「喜び歌い、喜び祝」(27節)う日が来るのを信じていた。その時、彼らは「主をあがめよ/御自分の僕の平和を望む方を」と「絶えることなく唱え」(27節)る者とされる。主なる神はご自身に従う者に平和をお与えになる方である。
 ダビデ自身もまた、主なる神を畏れる者の一人として、「わたしの舌があなたの正しさを歌い/絶えることなくあなたを賛美しますように」(28節)と歌っている。主なる神への訴えから、主なる神の正しさに対する讃美へと導かれている。