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Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 列王記下20章1~11節

聖書研究 列王記下20章1~11節(新共同訳 旧約pp.614-615)

(1) 涙を流して祈るヒゼキヤ(1~3節)

 イスラエルの王ヒゼキヤが死の病に罹った(1節)。「そのころ」(1節)というのは、「ヒゼキヤ王の治世第十四年」(18章13節)、アッシリアの大軍が攻めてきて、エルサレムを包囲しようとしていた時であった。ヒゼキヤが病気になると、預言者イザヤが「あなたは死ぬことになっていて、命はないのだから、家族に遺言をしなさい」(1節)という主なる神の言葉を伝えた。王であるヒゼキヤが死の病に罹ったというのは、個人の不幸に留まらない。ユダ王国の行く末に関わるものであった。
 では、ヒゼキヤは絶望しただろうか。そうではなかった。自分の死だけでなく、ユダ王国とエルサレムの危機を前にして、ヒゼキヤは、顔を壁に向け(2節)、「ああ、主よ、わたしがまことを尽くし、ひたむきな心をもって御前を歩み、御目にかなう善いことを行ってきたことを思い起こしてください」(3節)と涙を流しながら祈った(2~3節)。
 主なる神から「あなたはもうすぐ死ぬ」と言われた時、ヒゼキヤが祈ることが出来たのは何故だろうか。彼がこの時だけでなく、日頃から主なる神に目と心を向け、主なる神といつも深い交わりを持っていたからである。ヒゼキヤはこれまで「主を固く信頼し、主に背いて離れ去ることなく、主がモーセに授けられた戒めを守っ」(18章6節)てきた。王としてユダ王国が主なる神に喜ばれる国になるよう努力してきた。そして、そのようなヒゼキヤと主なる神は共におられた(同7節)。だからこそ、イザヤから主なる神の言葉を伝えられた時、ヒゼキヤはそれを真剣に受けとめた。そして、他の何ものにも頼ることなく、主なる神に祈りを献げた。
 主なる神は私達の祈りも待っておられる。主なる神の隣にはイエス・キリストがおられる。私達がイエス・キリストのお名前によって祈る時、その祈りは必ず主なる神のもとに届く。そして、私達が主なる神の御心を知り、それを行うことが出来るよう、聖霊が助けて下さる。

(2) ヒゼキヤの祈りに応えられる主なる神(4~11節)

 ヒゼキヤの祈りに対し、すぐに主なる神の言葉がイザヤに臨んだ(4節)。主なる神は「わたしはあなたの祈りを聞き、涙を見た。見よ、わたしはあなたをいやし、三日目にあなたは主の神殿に上れるだろう。わたしはあなたの寿命を十五年延ばし、アッシリアの王の手からあなたとこの都を救い出す」(5~6節)と告げられた。
 この時、ヒゼキヤは、主なる神に「三日目に主の神殿に上れることを示すしるし」(8節)を求めている。具体的には、「影が十度後戻り」(10節)すること、即ち太陽が後戻りすることを求めた。言うまでもなく、これは自然法則に反する奇跡である。しかし、主なる神はその通りにされた(11節)。
 主なる神は、時間と空間の世界を創造され、そこに働く全ての法則を定められた。そして、物体の運動や化学変化など、通常は自然法則を通じて世界を支配しておられる。その上で、人間に「地を従わせよ」(創世記1章28節)という使命を与えられた。この世界が或る法則によって動いているからこそ、人間はそれを探究し、科学技術を発展させることが出来る。その一方で、主なる神は自然を超越する主権者であられる。それ故、自然法則に縛られることなく、それを超えた奇跡を行うことがお出来になる。聖書において自然法則は主なる神の僕である。
 ヒゼキヤの祈りは聞かれた。これは、ヒゼキヤの祈りが主なる神の御心を変えたと解釈するよりも、イザヤを通して与えられた主なる神の言葉に、ヒゼキヤが御心に適う応答をし、祈りによって主なる神の御心が行われたと考えるのが適切だろう。主なる神はこれら全てのことが実現する過程にヒゼキヤを与らせた。そのことによって、全てが主なる神の御手にあること、そして主なる神が恵み深い方であられることを示された。