Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 詩編36編1~13節

聖書の黙想と適用 詩編36編1~13節(新共同訳 旧約pp.867-868)

(1) 主なる神に逆らう者の悪事と欺き(1~5節)

 詩編36編には「主の僕の詩」(1節)という表題が付けられている。ダビデイスラエルの王であったが、主なる神との契約関係にあって、自分が「主の僕」、即ち主なる神に仕える者であることをよく知っていた。
 それに対し、「神への恐れはない」ことは、「神に逆らう」こと、即ち罪に到る道である(2節)。「神に逆らう者に罪が語りかける」(2節)とダビデは言う。主なる神への恐れがない者は、自分を基準とし、自分のことしか考えていない。そのため、彼らは、「自分の目に自分を偽」り、「自分の悪を認めることも/それを憎むこともできない」(3節)。私達も「皆やっている」「これくらい大したことではない」という罪からの語りかけを聞くことがある。
 その上で、私達が心の中で考えていることは言葉や行動に表れてくる。主なる神に逆らう者の場合、「彼の口が語ることは悪事、欺き」(4節)である。そして、「決して目覚めようとも、善を行おうとも」せず、「悪事を謀り/常にその身を不正な道に置き/悪を退けようとしない」(5節)ため、どのような悪でも平気で行うことが出来る。しかし、主なる神は、人間の罪を全て御覧になっており、悪を必ず滅ぼされる(13節)。

(2) 主なる神の慈しみと真実(6~13節)

 ダビデは主なる神の憐れみと恵みの他には何も頼るものがないことを知っていた。それ故、彼は「主よ、あなたの慈しみは天に/あなたの真実は大空に満ちている。恵みの御業は神の山々のよう/あなたの裁きは大いなる深淵。主よ、あなたは人をも獣をも救われる」(6~7節)と讃美する。主なる神は慈しみと真実をもって今も全世界を治めておられる。
 主なる神は「命の泉」(10節)であられる。恵みによって主なる神から与えられる命は、泉のように涸れることがない。後にイエス・キリストも「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハネによる福音書4章14節)と言われている。
 また、主なる神は、ご自身の民に対する攻撃を防ぎ、私達を守る「翼」(8節)、「家」(9節)となって下さる。私達が主なる神の内にいるならば、「渇きを癒」し(9節)、「光を見る」(10節)ことが出来る。その上で、ダビデは次のように祈っている。
「あなたを知る人の上に/慈しみが常にありますように。心のまっすぐな人の上に/恵みの御業が常にありますように。神に逆らう者の手が/わたしを追い立てることを許さず/驕る者の足が/わたしに迫ることを許さないでください」(11~12節)。
 主なる神を知る人、心のまっすぐな人の上に、主なる神の慈しみと恵みの御業は絶えることがない。「悪事を働く者は必ず倒れる。彼らは打ち倒され/再び立ち上がることはない」(13節)という確信を抱きつつ、「命の泉」であられるイエス・キリストに繋がって歩み続けていきたい。