Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 詩編37編12~26節

聖書の黙想と適用 詩編37編12~26節(新共同訳 旧約pp.869-870)

(1) 主に逆らう者に対する裁き(12~16節)

 ダビデは、主に逆らう者に対する主なる神の裁きについて語ることを通して、神の民が彼らの繁栄を妬むことなく、主なる神を信頼し、善を行うよう励ます。主に逆らう者は、主に従う者に対して「たくらみ、牙をむ」(12節)き、害となる計画を企てる。しかし、主なる神は「定めの日」(13節)、即ちご自身に逆らう者を裁く日を定めておられる。主なる神は、ご自身に逆らう者が高ぶる姿を御覧になり、笑われる(13節)。そして、それは主なる神の裁きへと続く。
 主に逆らう者が「貧しい人、乏しい人を倒そうとし/まっすぐに歩む人を屠ろうとする」(14節)時、「その剣はかえって自分の胸を貫き/弓は折れる」(15節)とダビデは言う。主に逆らう者の陰謀は悉く失敗に終わる。そればかりか、彼らの悪行は彼ら自身に滅びを招き入れる。また、「主に従う者が持っている物が僅かでも/主に逆らう者、権力ある者の富にまさる」(16節)のは、主に逆らう者の繁栄は、主なる神の目には中身がなく、虚勢に過ぎないからである。

(2) 主に従う者に対する祝福(17~20節)

 主なる神は「御自分に逆らう者の腕を折」られる一方で、主に従う人を「支え」(17節)られる。「無垢な人の生涯を主は知っていてくださる。彼らはとこしえに嗣業を持つであろう」(18節)というダビデの言葉は、主なる神が彼らの生涯を祝福されるということを示している。
 主なる神は、ご自分に従う者に「災いがふりかかっても」、「飢饉が起こっても」、彼らを守られる(19節)。主に逆らう者が繁栄し、主に従う者は彼らによって苦しめられているように見えても、結局は「主に逆らい敵対する者は必ず滅び」(20節)、主なる神と正しい関係を結んでいる者だけが生き残る。

(3) 主に従う者と主に逆らう者の歩み(21~26節)

 主に従う者と主に逆らう者の生活は全く対照的である。主に逆らう者は、弱く、貧しい人に与えることを知らず、「借りたものも返さ」ず、欺きや偽りによって富を蓄えようとする。彼らがこの世で一時的に豊かになるのはそのためである。それに対し、主に従う者は、所有が少なくても、「憐れんで施す」ことを厭わない(21節)。にもかかわらず、主に逆らう者は「神の呪いを受けた者」として地から「断たれる」のに対し、主に従う者は「神の祝福を受けた人」として「地を継ぐ」(22節)。そればかりか、「生涯、憐れんで貸し与えた人には祝福がその子孫に及ぶ」(26節)とダビデは言う。主なる神は、主なる神と隣人のために富をどう用いるかを第一に考える人により大きな祝福を与えられる。
 主なる神は、私達が主に従って歩むよう、「人の一歩一歩を定め/御旨にかなう道を備えてくださる」(23節)。とはいえ、主に従う者も、自分の罪によって、或いは試練や誘惑によって「倒れ」ることがある。それでも、永遠に「打ち捨てられる」わけではなく、彼らは再び立ち上がり、主なる神に従う道を歩み続ける。「主がその手をとらえていてくださる」からである(24節)。「若いときにも老いた今も、わたしは見ていない/主に従う人が捨てられ/子孫がパンを乞うのを」(25節)とダビデは語る。