読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 マルコによる福音書10章32~45節

聖書の黙想と適用 マルコによる福音書10章32~45節(新共同訳 新約pp.82-83)

(1) 弟子達の無理解

 福音書を読むと、イエス・キリストの12人の弟子達には、将来実現するメシアの王国において他の弟子よりも高い地位に得たいという気持ちがあったことが分かる。ゼベダイの子であるヤコブとヨハネは、イエス・キリストに右と左の座に座らせて欲しいと頼んでいる。そして、そのことを知った他の弟子達は憤慨した。彼らもまた序列に関心を持っていたからである。
 この時、イエス・キリストは十字架に向かう道を歩んでおられた。その道は、人々の罪を贖うために、人々の代わりに苦しみを受ける苦難の道であり、死にまで主なる神に従う信従の道であり、ご自分を低くして人々に仕える道であった。しかし、そのイエス・キリストの御前で、弟子達は自分が人々よりも高められることを願っていた。12人の弟子達のうち、イエス・キリストが語られた苦難の意味を真に理解していた者は、誰一人としていなかった。そのため、イエス・キリストは、彼らに仕えることについて教えられた。

(2) 仕えることを命じるイエス・キリスト

 他の人々に仕えることが、神の国の生き方の原理である。この世の支配者は権力を得ようとする。そして、それを用いて、人々を思うままに支配しようとする。しかし、イエス・キリストは、ご自分の民に、自分の十字架を負って、他の人々に仕えるよう命じられた。イエス・キリストを主と信じ、神の国に入る者は、イエス・キリストの統治を受ける。他の人々に仕えることは、私達がやってもやらなくてもいい任意の選択肢ではなく、イエス・キリストから与えられた命令である。この命令に従う者が神の国の民である。
 十字架につけられる直前、イエス・キリストは弟子達と最後の晩餐を囲んだ。この時も弟子達は自分達の中で誰が一番偉いかを言い争っている(ルカによる福音書22章24節)。それに対し、イエス・キリストは、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、腰に手ぬぐいをまとい、弟子達の足を洗い始められた(ヨハネによる福音書13章3~5節)。当時のユダヤ人はサンダルのような履物を履いて生活していた。だから、足は体の中で最も汚れる部分だった。イエス・キリストはその足を洗うという誰もやりたがらないことを弟子に対して率先して行われた。その上で、ご自分の行為の意味について次のように説明された。

「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである」(ヨハネによる福音書13章15~17節)。

 イエス・キリストは、足を洗うという行為によって私達にいかに生きるべきか模範をお示しになった。そして、私達がイエス・キリストに倣うならば、私達の歩みは祝福されると言われた。

(3) イエス・キリストの命令は非現実的な理想論か

 イエス・キリストは、「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」(43~44節)と教えられた。この言葉は一見現実離れした理想論のように思われる。しかし、本当にそうだろうか。
 当時ユダヤ人の中には、ローマ帝国から独立を勝ち取るために暴動を起こしたり、反乱を企てる者がいた。彼らに限らず、ユダヤ人の多くは「自分達は神に選ばれた民であるのに、どうして異邦人に服従しなければならないのか」と現状に不満を抱いていた。弟子達も、こうしたユダヤ人の一般的な考え方の影響を受け、メシアをローマ帝国からの解放者、イスラエルの民族的栄光の実現者として理解していた。しかし、ユダヤ人は、後にユダヤ戦争においてローマ帝国に武力をもって立ち向かい、そして彼らを上回るローマ帝国の圧倒的な武力の前に叩き潰された。エルサレムは陥落し、神殿は徹底的に破壊され、市街も焦土と化した。
 それに対し、イエス・キリストは、山上の説教の中で「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ」(マタイによる福音書5章5節)と言われた。主なる神と隣人の前に対して謙った「柔和な者」こそが地を受け継ぐ。「仕える者がリーダーになれる」というのが聖書の教えるリーダーシップの原則である。立山福音自由教会の高橋秀典牧師は、イエス・キリストについて、近年注目されている《サーバント・リーダーシップ》の考え方をまさに実践された方であると述べている(高橋秀典『お金と信仰』東京: 地引網出版, 2014年, p.122)。
 そして、それは現代の日本においても妥当することである。例えば、市場で長く生き残ることが出来るかどうかは、顧客に《仕える》ことが出来るかどうかにかかっている。顧客により仕えることが出来る者、即ちより安価でより良質なものを提供出来る者が市場において勝利する。マスメディアなどを使って人為的にブームを作り出そうとしても、商品やサービスにそれに見合った内容が伴っていなければ、顧客はそれを選択するとは限らない。最も謙遜な業者が市場経済においてリーダーになれる。