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Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 イザヤ書8章23節~9章6節

聖書研究 イザヤ書8章23節~9章6節(新共同訳 旧約pp.1073-1074)

(1) 闇を照らす光(8章23節~9章4節)

「ゼブルンの地、ナフタリの地」(23節)は、イスラエルの北部に位置していたため、諸外国から幾度となく侵略され、苦しみと「辱めを受け」てきた。また、そのために、イスラエルの《中心部》に住むユダヤ人から「異邦人のガリラヤ」(23節)と呼ばれ、蔑まれてきた。
 しかし、「闇の中を歩む民」、「死の陰の地に住む者」に、主なる神は「大いなる光」を照らし、希望をお与えになる(1節)。主なる神は、闇に光を照らすことによって新たな御業を行われる。主なる神の創造の御業は「光あれ」という言葉によって始まった(創世記1章3節)。また、ヨハネイエス・キリストについて、「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている」(ヨハネによる福音書1章4~5節)と証言している。
 闇の中で光を見た民は、「刈り入れの時」や「戦利品を分け合って楽しむ」時のように、「深い喜びと大きな楽しみ」を与えられる(2節)。このイザヤの預言の通り、「光」として来られたイエス・キリストは、ガリラヤの町々を巡回し、宣教と御業を通して神の国(支配)の到来を告げられた(マタイによる福音書4章12~17節)。
 イザヤは、主なる神が闇の中を歩む民に光を照らされることを、「負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭」が折られ、イスラエルに自由にもたらされた「ミディアンの日」に喩えている(3節)。主なる神は、士師ギデオンと僅か300人の勇士を用いて、イスラエルを虐げていたミディアンの大軍を打ち破られた(士師記7章22節)。人間の目には到底不可能に思われた勝利が主なる神の恵みによって実現した。同じように、主なる神が闇の中に光を照らされる時、真の自由と平和がもたらされる。戦いが終わり、「地を踏み鳴らした兵士の靴/血にまみれた軍服」は不要になり、「ことごとく火に投げ込まれ、焼き尽くされ」る(4節)。これは絶望と暗闇の中にある人々に対する希望のメッセージである。

(2) ひとりのみどりごの誕生(5~6節)

 主なる神の救いの御業は、「ひとりのみどりご」の誕生によって成就する(5節)。主なる神は、預言者ナタンを通してダビデとその子孫に約束された永遠の王国について(サムエル記下7章12~16節)、預言者イザヤを通してもう一度改めて宣言された(6節)。この嬰児が与えられる時、「ダビデの王座とその王国に権威は増し/平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって/今もそしてとこしえに、立てられ支えられる」(6節)とイザヤは預言した。そして、主なる神の御心は必ず実現する。イザヤは「万軍の主の熱意がこれを成し遂げる」(6節)と述べている。
 実際、この約束は、イエス・キリストが来られ(マルコによる福音書12章37節)、十字架の御業によって悪魔の支配を打ち破り、神の国を堅く建てられたことによって成就した。そして、イエス・キリストは、王としてご自分の国を「正義と恵みの業によって」今も治めておられる。ベツレヘムの飼い葉桶に寝かされた乳飲み子イエス・キリストを「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」(5節)であると信じる人は幸いである。