Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 ヨハネによる福音書1章1~14節

聖書研究 ヨハネによる福音書1章1~14節(新共同訳 新約p.163)

(1) 主なる神の「言」であるイエス・キリスト(1~5節)

 ヨハネによる福音書は「初めに言があった」という書き出しで始まっている。「言」(λόγος [logos])について、古代ギリシアの哲学者は、万物の背後に宿る「原理」「道理」「論理」であると考えた。一方、ユダヤ人にとって「言」は主なる神がご自身を啓示し、御業を行う手段であった。「言」に神的な性格があるというのは、ヨハネが最初に提唱したことではない。しかし、ヨハネは、イエス・キリストこそが主なる神の「言」であると宣言する(1節、17節)。
「言」であるイエス・キリストは、世の「初め」、即ち、天地万物が創造される以前から、主なる神と共におられた(2節)。そして、天地創造の御業を主なる神と共になさった(3節)。「言」であるイエス・キリストは、創造主なる「神」であり(1節)、全ての被造物の「命」の源であられる(4節)。
 そして、イエス・キリストは、罪の故に「暗闇」に覆われたこの世に「人間を照らす光」(4節)として来られた。それに対する「暗闇」の反応について、新共同訳では「理解しなかった」、他の翻訳では「勝たなかった」(口語訳)、「打ち勝たなかった」(新改訳)と述べられている(5節)。原文はκαταλαμβάνω [katalambanó]というギリシア語で、どちらの意味も持っている。罪の中にいる人間は、光としてイエス・キリストが来られたことに気付かず、イエス・キリストに敵対する。しかし、闇が光を押し潰すことは出来ない。逆に、光が存在する所では闇が退く。私達が暗闇に打ち勝ち、「光の子として歩」(エフェソの信徒への手紙4章8節)む秘訣は、光であられるイエス・キリストに結ばれることである(4節)。

(2) 光について証しするバプテスマのヨハネ(6~8節)

 バプテスマのヨハネは、人々がイエス・キリストを「彼によって信じるようになる」(7節)という使命を与えられて、主なる神から遣わされた(6節)。その際、ヨハネは、人々が彼をメシアであると誤解しないよう、「わたしはメシアではない」(2章20節)と断言した。イエス・キリストこそが「光」であられ、ヨハネは「光について証しをする」(8節)者であった。
 イエス・キリストを主と信じ、その弟子の一人に加えられた者も、ヨハネと同じように、この世においてイエス・キリストを証しする使命を与えられている。バプテスマのヨハネは、イエス・キリストの誠実な証人としての模範を私達に示している。

(3) 人間になった主なる神の「言」(9~14節)

 出エジプトの後、主なる神は荒れ野でイスラエルの民の建てた幕屋に住まわれた(出エジプト記33章9節、40章34~35節)。主なる神は、更に私達に近づいて、「肉」、即ち人間そのものとなられ、「わたしたちの間に宿られた」(14節)。「宿られた」と訳されているギリシア語ἐσκήνωσεν [eskēnōsen]は、「天幕を張る」「幕屋に住む」という意味の動詞σκηνόω [skénoó]の不定過去時制である。ここでヨハネは「臨在の幕屋」を念頭に置いている。
 主なる神の「言」であるイエス・キリストは、人間となられ、私達と共に住まわれた。そのことによって、人間の弱さ、苦痛、死などをご自身と結び合わされ、それを根本的に解決する道を開かれた。
 にもかかわらず、「世は言を認めなかった」(10節)、「民は受け入れなかった」(11節)とヨハネは言う。「まことの光」(9節)であるイエス・キリストを前にしても、闇にしがみ付くならば、私達は闇の中に留まるしかない。
 それに対し、イエス・キリストを「受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格」(12節)が与えられる。イエス・キリストを受け入れることは、「その名を信じる」こと、即ちイエス・キリストが神であり、その言であり、命であり、光であると信じることである。そして、イエス・キリストを受け入れた人は、その中に「父の独り子としての栄光」(14節)を見る。イエス・キリストの栄光は「恵みと真理とに満ちて」(14節)いる。