Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 詩編39編1~14節

聖書の黙想と適用 詩編39編1~14節(新共同訳 旧約pp.872-873)

(1) わたしの生涯はどれ程のものか(1~7節)

 ダビデは、言葉で罪を犯さないために、「わたしの道を守ろう、舌で過ちを犯さぬように。神に逆らう者が目の前にいる。わたしの口にくつわをはめておこう」(2節)と決意した。しかし、「口を閉ざして沈黙し」(3節)た時、彼は敵の誹謗中傷などによって苦しめられた。そして、「あまりに黙していたので苦しみがつの」(3節)っていった。苦悩と怒りは日に日に深まっていき、「心は内に熱し、呻いて火と燃えた」(3~4節)とダビデは言う。
 これ以上抑えることが出来なくなった時、ダビデは、主なる神の御前に出て、「舌を動かして話し始めた」(4節)。しかし、その時ダビデが最初に語ったことは、敵に対する罵りでも自分が置かれている状況に対する嘆きでもなかった。「教えてください、主よ、わたしの行く末を/わたしの生涯はどれ程のものか/いかにわたしがはかないものか、悟るように」(5節)という祈りであった。
 ダビデは王として富も権力も名誉も手に入れた。しかし、主なる神の「御前には、この人生も無に等しい」(6節)こと、「人はただ影のように移ろうもの」(7節)であることを悟らされた。私達に与えられた人生は「手の幅ほど」(6節)に短い。ダビデは、自分の人生を振り返り、万事が順調で「確かに立っているよう」に見えたことも、「すべては空しいもの」であったと述べ(6節)、これまで努力し、「あくせくし」てきたことも、「だれの手に渡るとも知らずに積み上げる」ようなものであったと告白する(7節)。

(2) わたしはあなたを待ち望みます(8~14節)

 人生のはかなさと空しさを悟ったダビデは、主なる神の御前では「人は皆、虫けら」(12節)であり、暫くの間、この地上に生き、そして去って行く「宿り人」(13節)に過ぎないという認識を持つようになった。
 しかし、ダビデは自分の弱さと限界に対する絶望で終わらなかった。そこから「望みをかけ」(8節)ることが出来るのは主なる神だけであるという信仰に到った。「望みをかける」と訳されているヘブライ語(קָוָה [qavah])は「待つ」という意味の動詞である。ダビデが人生のはかなさへの嘆きから主なる神を「待つ」ことへと導かれていったことが分かる。「わたしはあなたを待ち望みます」(8節)とダビデは言う。
 その上で、ダビデは、主なる神に今まで「背いたすべての罪から」(9節)自分を救って下さるよう、罪の結果としてのダビデに対する懲らしめを止めて下さるよう懇願した(11節)。「御手に撃たれて」ダビデは「衰え果て」ていたからである(11節)。そして、そのようなダビデを見た敵から「神を知らぬ者というそしりを受け」(9節)ることがないよう彼は祈った。ダビデは、「主よ、わたしの祈りを聞き/助けを求める叫びに耳を傾けてください。わたしの涙に沈黙していないでください」(13節)と叫び、自分がこの世から「去り、失われる前に」(14節)、祈りに答えて下さるよう主なる神に求めた。