Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 詩編40編1~11節

聖書の黙想と適用 詩編40編1~11節(新共同訳 旧約pp.873-874)

(1) 主なる神を証しする(1~6節)

 2節から6節には主なる神とダビデの深い交わりの様子が記されている。
 苦難の中でダビデは主なる神にのみ「望みをおいていた」(2節)。「望みをおいていた」と訳されているヘブライ語(קָוָה [qavah])は、39編8節(「望みをかける」)でも用いられている。ダビデが粘り強く待ち続けたことが暗示されている。彼は主なる神が必ず応答して下さると信頼し、忍耐をもって主なる神の答えを待った。
 それに対し、主なる神は、ダビデの叫びに耳を「傾け」、その祈りに答えられた(2節)。「傾け」と訳されているヘブライ語(נָטָה [natah])には、「手を差し伸ばす」「体を曲げる」という意味がある。主なる神は身を乗り出すようにしてダビデの祈りを聞こうとされた。そして、「滅びの穴、泥沼」(3節)、即ち自分の力では抜け出せない苦難の中からダビデを引き上げられた。
 この時、自分の口に「新しい歌」(4節)が与えられたとダビデは言う。「新しい歌」とは、主なる神の救いの御業を経験し、ダビデの口から出る「神への賛美」(4節)を指している。
 更に、主なる神に対するダビデの讃美を聞いた人々は、主なる神の偉大さを認識し、「こぞって主を仰ぎ見/主を畏れ敬い、主に依り頼む」(4節)ようになった。このことは、一人の信仰者が喜びと感謝をもって主なる神の御業をほめたたえることによって、周囲の人々にも祝福が広がっていくことを示している。
 ダビデは、自らの救いの経験をもとに、「いかに幸いなことか、主に信頼をおく人」(5節)と語る。「信頼」と訳されているヘブライ語(מִבְטָח [mibtach])は、「避け所にする」という意味の動詞(בָּטַח [batach])から派生した語である。そして、そのような人は「欺きの教えに従わない」(5節)。即ち、主なる神以外の何かに依り頼むことをせず、主なる神のみを避け所とする人を、主なる神は祝福される。何故なら、主なる神は「多くの不思議な業を成し遂げられ」る方であり、主なる神に「並ぶもの」はないからである(6節)。

(2) 主なる神の御旨を行う(7~11節)

 主なる神は律法においてイスラエルの民に献げ物について詳しく教えられた(レビ記1~7章)。しかし、ここでダビデは大胆にも「あなたはいけにえも、穀物の供え物も望まず/焼き尽くす供え物も/罪の代償の供え物も求めず/ただ、わたしの耳を開いてくださいました」(7節)と述べている。主なる神が求めておられるのは献げ物それ自体ではない。主なる神の御心を自分の心に置かない、形だけの献げ物を主なる神は喜ばれない(サムエル記上15章22節)。私達が主なる神を愛し、その言葉に耳を傾け、「御旨を行うこと」、「教えを胸に刻」むことを、主なる神は求めておられる(9節)。
 その上で、ダビデは自分が神の民の一員であることを強く意識していた。それ故、彼は、「大いなる集会」において主なる神の「恵みの御業」を、「真実と救い」を、「慈しみとまこと」を、「決して唇を閉じ」ることなく、「心に秘めておくことなく」人々に語った(10~11節)。主なる神が行われた救いの御業を、ダビデは自分だけで独り占めすることなく積極的に証しした。