Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 詩編41編1~13節

聖書の黙想と適用 詩編41編1~13節(新共同訳 旧約pp.874-875)

(1) 弱いものに思いやりのある人(1~10節)

 詩編41編は、1編と同様に、「いかに幸いなことでしょう」(אַ֭שְׁרֵי [’aš-rê])という言葉で始まっている。そして、ここでは「弱いものに思いやりのある人」の幸いが歌われている(2節)。「弱いもの」と訳されたヘブライ語(דָּל [dal])は、「弱い」「無力な」という意味で、疎外され、助けを必要とする社会的な弱者を指す。彼らは、経済的には《持てる者》ではなく《持たざる者》であり、身体的には《健康な者》ではなく、「病の床にあ」り、「力を失って伏す」人であった(4節)。
 主なる神はそのような弱者に「思いやりのある人」(מַשְׂכִּ֣יל [maś-kîl])を祝福される。「災いのふりかかるとき/主はその人を逃れさせてくださいます」(2節)とダビデは歌っている。その上で、彼は「主よ、その人を守って命を得させ/この地で幸せにしてください。貪欲な敵に引き渡さないでください」(3節)と祈っている。
 また、ここでダビデは、「主よ、憐れんでください」と懇願している。「憐れんでください」と訳されているヘブライ語(חָנַן [chanan])は、「憐れみを施す」「憐れに思う」という意味である。主なる神に対して罪を犯した結果としてダビデは病や苦難を与えられた。それに対し、彼は「あなたに罪を犯したわたしを癒してください」(5節)と述べ、自分が犯した罪の赦しを主なる神に求めた(5節)。
 その上で、ダビデは今自分が受けている苦しみについても主なる神に打ち明けている。ダビデの「敵」(ヘブライ語の原文では複数形)は「早く死んでその名も消えうせるがよい」(6節)と彼の死を待ち侘びていた。また、彼らは、病床のダビデを「見舞いに来」て、上辺ではダビデを気にかけている振りをして「むなしいこと」を言った(7節)。しかし、その実「心に悪を満たし、外に出れば」(7節)、ダビデについて「呪いに取りつかれて床に就いた。二度と起き上がれまい」(9節)と言い広めた。ダビデは、彼らのことを「わたしを憎む者」、「わたしに災いを謀」(8節)る者と呼んでいる。更に、ダビデは「信頼していた仲間」(10節)にまで裏切られている。

(2) 主なる神の支えを確信する(11~13節)

 ダビデは、5節に続いて、「主よ、どうかわたしを憐れみ/再びわたしを起き上がらせてください」(11節)ともう一度嘆願している。そして、主なる神が守って下さることによって、彼を中傷し、陰謀を企む敵を「見返すことができ」ると述べている(11節)。ダビデは、自分が主なる神の「御旨にかなう」ならば、敵が彼に対して「勝ち誇ることはない」と信じていた(12節)。
 私達が主なる神に依り頼む時、主なる神は私達に助けを与えて下さる。「どうか、無垢なわたしを支え/とこしえに、御前に立たせてください」(13節)というダビデの祈りは、主なる神がその御手をもって彼を支え、彼を立たせて下さるという信頼の表明でもあった。それ故、彼は「主をたたえよ、イスラエルの神を/世々とこしえに。アーメン、アーメン」(14節)と主なる神に対する感謝と讃美をもって詩を締め括っている。