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Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 テモテへの手紙一1章1~11節

聖書研究 テモテへの手紙一1章1~11節(新共同訳 新約p.384)

(1) 父なる神とイエス・キリストからの恵み、憐れみ、平和(1~2節)

 パウロは、自分が「わたしたちの救い主である神とわたしたちの希望であるキリスト・イエスによって」(1節)使徒に任命されたと述べている。神の民はイエス・キリストの十字架の贖いによって主なる神に買い戻され、主なる神のために生きる者である。パウロは、主なる神の召しに応え、与えられた使命のために力を尽くしてきた。
 その上で、パウロは、テモテを「信仰によるまことの子」(2節)と呼び、信仰の父として「父である神とわたしたちの主キリスト・イエスからの恵み、憐れみ、そして平和があるように」(2節)とテモテの祝福を祈っている。彼は他の手紙でも「恵みと平和が、あなたがたにあるように」という挨拶をもって書き始めているが(例えば、ローマの信徒への手紙1章7節、コリントの信徒への手紙一1章3節、二1章2節、ガラテヤの信徒への手紙1章3節)、テモテに対しては「憐れみ」を付け加えている(2節)。恵みと憐れみと平和はいずれも主なる神から来る。テモテがイエス・キリストに結ばれ、教会で仕えることを許されているのは、ひとえに主なる神の恵みと憐れみによるものであった。また、主なる神の恵みと憐れみを受けることによって、テモテの心に平和が満ち溢れた。

(2) 異なる教えに対する警告(3~11節)

 パウロは、福音を宣べ伝えるためにマケドニア州に向けて出発する時、テモテをエフェソに留まらせた(3節)。エフェソの教会に誤った教えを説く者がいたからである。テモテは、パウロの代わりに信徒に正しい教えを伝え、イエス・キリストの福音の真理に立って教会を守らなければならなかった。
 当時エフェソの教会には「異なる教えを説いたり、作り話や切りのない系図に心を奪われ」(3~4節)ていた人々がいた。彼らは、自分はアブラハムの子孫であるという選民意識から「系図」(γενεαλογία [genealogia])を誇った。また、そこから更に聖書の本質から外れた「作り話」(μῦθος [muthos])も生み出した。そして、それらが原因で教会の中に争いが起こるようになった。パウロは、こうしたものに執着することについて「信仰による神の救いの計画の実現よりも、むしろ無意味な詮索を引き起こ」(4節)すと批判した。神の民が信じるべきものは聖書であり、そこで証しされているイエス・キリストである(ヨハネによる福音書5章39節)。イエス・キリストにおいて示された「神の救いの計画」を中心としない時、教会は揺らぎ、倒れてしまう。
 主なる神は愛であられる。イエス・キリストの御業も全て愛による。イエス・キリストの十字架と復活において示された主なる神の愛に留まり続ける時、私達は「清い心と正しい良心と純真な信仰とから生じる愛を目指す」(5節)者とされる。しかし、主なる神の愛から離れてしまうと、私達は脇道に逸れ、「無益な議論の中に迷い込」(6節)んでしまう。実際、エフェソの教会には、「律法の教師」(7節)を名乗りながら、その実、信徒が主なる神の御心を正しく知るのを妨げている人々がいた。
 パウロによれば、律法も「正しく用いるならば良いものである」(8節)。彼は律法を「健全な教えに反すること」(10節)を悟らせ、「わたしたちをキリストのもとへ導く養育係」(ガラテヤの信徒への手紙3章24節)であると述べている。律法を通して私達の罪が明らかになる。イエス・キリストは、私達の代わりに律法を全うし(マタイによる福音書5章17節)、十字架で律法の呪いを受けられた(ガラテヤの信徒への手紙3章13~14節)。このイエス・キリストを主と信じる時、私達は主なる神から義と認められ、救いを与えられる。更に、律法は、イエス・キリストによって救われた者がその後主なる神に喜ばれる生き方をするよう促す役割も担っている(コリントの信徒への手紙一1章30節)。
 しかし、イエス・キリストにおいて現された主なる神の愛から離れるならば、私達は律法に基づいて犯した罪を裁かれることになる。パウロは、律法に背いている者として具体的に「不法な者や不従順な者、不信心な者や罪を犯す者、神を畏れぬ者や俗悪な者、父を殺す者や母を殺す者、人を殺す者、みだらな行いをする者、男色をする者、誘拐する者、偽りを言う者、偽証する者」(9~10節)を挙げている。彼は、エフェソの教会が「祝福に満ちた神の栄光の福音」(11節)だけを拠り所とし、主なる神だけを誇り、イエス・キリストにおいて現された主なる神の愛に留まり、主なる神に栄光を帰す教会となることを願った。