Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 テモテへの手紙一1章12~20節

聖書研究 テモテへの手紙一1章12~20節(新共同訳 新約pp.384-385)

(1) イエス・キリストから委ねられた務め(12~17節)

 パウロは自分を「忠実な者と見なして務めに就かせてくださったキリスト・イエス」(12節)に感謝を献げる。そして、彼がこれまで福音宣教の務めを果たすことが出来たのは、イエス・キリストが彼を「強くしてくださった」(12節)からであった。主なる神はご自身の民を或る務めに任命される。その際、イエス・キリストが力を与えて下さる。
 その上で、パウロが委ねられた務めを忠実に担おうとしたのは、自分が主なる神の「憐れみを受けた」(13節、16節)者であることを知っていたからである。最初彼は「神を冒瀆する者、迫害する者、暴力を振るう者」(13節)であった。イエス・キリストを冒瀆し、その福音を伝える人々を迫害し、更には暴力まで振るった。パウロはそのような自分を「罪人の中で最たる者」(15節)と告白している。
 しかし、主なる神は、パウロが犯した罪は「信じていないとき知らずに行ったこと」(13節)であるとして、彼に憐れみを施された(使徒言行録9章1~9節)。イエス・キリストパウロの全ての罪を赦し、救いをお与えになった。更に、恵みも「あふれるほど与えられ」(14節)、彼をイエス・キリストの福音を宣べ伝える使徒として用いられた。別の手紙でパウロは「わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた」(ガラテヤの信徒への手紙1章15~16節)と述べている。
 パウロにとって「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値」(15節)するものであった。イエス・キリストは「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイによる福音書9章13節)と言われた。人間が正しい者であるならば、イエス・キリストがこの世に来る必要はなかった。しかし、人間は「皆、罪の下にあ」り、「正しい者はいない。一人もいない」(ローマの信徒への手紙3章9~10節)。自分のような罪人をもイエス・キリストは招き、救って下さったことを思う時、パウロの心には恵みと感謝が満ち溢れた。
 その上で、イエス・キリストパウロに対してこのような憐れみと恵みを与えられたことについて、パウロイエス・キリストを「信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるため」(16節)であると受けとめていた(コリントの信徒への手紙一4章16節、11章1節)。主なる神の限りない愛を経験したパウロは、イエス・キリストに倣って福音を伝えた。そして、「永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように」(17節)と讃美した。

(2) 信仰と正しい良心を持って戦う(18~20節)

「ヒメナイとアレクサンドロ」(20節)は、元々エフェソの教会で重要な奉仕を担っていた信徒であった。しかし、「真理の道を踏み外し、復活をもう起こったと言」(テモテへの手紙二2章18節)い出し、パウロの「語ることに激しく反対する」(同4章15節)ようになった。彼らは、偽りの教えや虚しい作り話に惑わされ、「正しい良心を捨て、その信仰は挫折して」しまった。それだけでなく、他の信徒を惑わし、教会に悪い影響を与えるようになった。パウロは彼らを教会から追い出した。それは他の信徒に「神を冒瀆してはならないことを学ばせるため」であった(20節)。
 パウロはテモテに、主なる神の憐れみと恵みを受けた者として「信仰と正しい良心とを持って」(19節)、福音の真理を守るために「雄々しく戦」(18節)うよう命じた。この世は霊的な戦いの場である。いつでもどこでもサタンの誘惑がある。そのため、信仰のあった人でさえ、良心が麻痺して堕落してしまうことがある。
 主なる神は、私達が惑わされることなく、使命を忠実に果たすことが出来るよう、「真理」「正義」「平和の福音」「信仰」「救い」「神の言葉」「祈り」という「神の武具」を与えて下さった(エフェソの信徒への手紙6章13~18節)。自分が弱く、無知で、罪深い者であることを常に自覚し、そのような自分を救って下さったイエス・キリストの憐れみと恵みに感謝しつつ、私達は委ねられた務めを全うすべきである。