Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 マタイによる福音書5章1~16節

聖書の黙想と適用 マタイによる福音書5章1~16節(新共同訳 新約pp.6-7)

(1) 幸いな者(1~12節)

 マタイによる福音書5~7章は、「山上の説教」と呼ばれ、神の国の民の倫理について教えている。イエス・キリストは、群衆を見て、山に登り(1節)、教え始められた(2節)。聖書において「山」は主なる神が啓示を与える場所として登場することが多い(15章29節、17章1節、28章16節、出エジプト記19章3節、24章12節、34章1~2節)。マタイは、イエス・キリストの山上の説教を、シナイ山モーセに与えられた律法の更新(updating)――全く新たに別の律法を与えられるのではない――として描いている。
 まずイエス・キリストは、神の国の民に与えられる8つの「幸い」について教えられた。
「心の貧しい人々」(3節)は、ギリシア語の原文(οἱ πτωχοὶ τῷ πνεύματι [hoi ptōchoi tō pneumati])では「霊において貧しい人」(the poor in the spirit)という意味である。即ち、自分の罪深さと無力を知って心が砕かれた人である。彼は自分自身に絶望している。自分の内に天の父に対して誇ることの出来るものが何一つないことを知っている。自分の内に頼ることの出来るものが何一つないことを知っている。自分が築き上げた地位や財産、業績、資格、知識、人脈、能力などには一切頼ることが出来ない。頼ることが出来るのは天の父だけである。天の父の御前に跪き、天の父が与えて下さるものを待ち望む彼らについて、イエス・キリストは「天の国はその人たちのものである」(3節)であると言われた。彼らは神の国に属する者とされる。
「悲しむ人々」(4節)とは、自分の罪、隣人の苦しみ、社会的・政治的な状況に対して嘆き悲しむ人である。彼らに与えられる祝福は「慰められる」(4節)ことである。慰める方は天の父である。
「柔和な人々」(5節)とは、天の父の愛を信じ、自らも隣人に対して同じ愛をもって生きようとする人である。彼らに与えられる祝福は「地を受け継ぐ」(5節)ことである。当時ユダヤ人の間ではローマ帝国の支配から脱却するために武器を手に取って立ち上がらなければならないという考え方が広まりつつあった。その結果、ユダヤ戦争が起こり、エルサレムと神殿はローマ軍によって徹底的に破壊された。それに対し、イエス・キリストは「だれかが右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(5章39節)と「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(5章44節)と説かれた。
「義に飢え渇く人々」(6節)とは、聖書においては主なる神を切に求めている人を意味する(詩編42編2節、イザヤ書55章1節、ヨハネによる福音書4章13節、7章37節、ヨハネの黙示録21章6節、22章17節)。彼らが受ける祝福は「満たされる」(6節)ことである。
「憐れみ深い人々」(7節)とは、天の父が私達を愛し、受け入れて下さったように、他の人の罪や過ちを赦し、苦しむ者を憐れむ人である。イエス・キリストご自身、《罪人》として蔑まれ、排除されていた徴税人や売春婦を招き、食事を共にされた。
「心が清い人々」(8節)とは、隣人に対して下心や悪意を持たない人である(詩編15編2~3節)。そのような人は「神を見る」(8節)とイエス・キリストは言われる。私達は深く罪に染まっているために、自分の努力によってそのような心を持つことは出来ない。しかし、イエス・キリストにおいて示された天の父の圧倒的な愛を前にした時、私達は自分を主張することが出来なくなる。そして、ペトロが語っているように、「偽りのない兄弟愛を抱」き、「清い心で深く愛し合う」者へと変えられていく(ペトロの手紙一1章22節)。
「平和を実現する人々」(9節)とは、天の父の圧倒的な恵みを前にして、「すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求め」(ヘブライ人への手紙12章14節)るようになった人である。そして、この平和は、「わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得」(ローマの信徒への手紙5章1節)たことを基礎としている。天の父と人間、人間と人間、人間と他の被造物の間に平和が実現するために働くその人は「神の子と呼ばれる」(9節)。
「義のために迫害される人々」(10節)とは、イエス・キリストのために「ののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる」(11節)人である。私達がイエス・キリストを主と信じ、イエス・キリストに従って生きようとする時、迫害を受けることがある。しかし、そのような私達に、イエス・キリストは「天の国はその人たちのものである」と宣言された(10節)。大きな報いが天であるので、弟子達は大いに喜ぶことが出来る(12節)。

(2) 地の塩、世の光(13~16節)

 イエス・キリストは、弟子達にこの世から隔離して生きることを求められなかった。逆に、彼らがこの世において必要な存在であると言われた。イエス・キリストは、弟子達に「あなたがたは地の塩である」(13節)、「あなたがたは世の光である」(14節)と宣言された。「地の塩になれ」「世の光になれ」と命じられたのではない。イエス・キリストの弟子であるならば、認めようが認めまいがそうであるというのである。
「塩」は、古くから食べ物を引き立たせる調味料、また食べ物を保存する防腐剤として使われてきた。イエス・キリストは弟子達に「地の塩」(13節)として世界の腐敗を止めることを求められた。そして、彼らがイエス・キリストの弟子としての質を失う時、「塩気がなくな」った塩のように、「もはや何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである」(13節)とイエス・キリストは言われた。
 また、イエス・キリストは「世の光」として世に来られた(ヨハネによる福音書8章12節)。そのイエス・キリストに従う時、弟子達もまた「世の光」(14節)である。天の父は彼らを通して光を照らされる。イエス・キリストは、弟子達に「家の中のものすべてを照らす」「燭台の上に置」かれた「ともし火」のように(15節)、「あなたがたの光」、即ち、イエス・キリストの光を「人々の前で輝か」すように言われた。それは、人々が弟子達の「立派な行いを見て、天の父をあがめるようになるため」(16節)であった。
 このイエス・キリストの言葉に対し、私達は「自分はクリスチャンである」と言いながら、「地の塩」「世の光」としての務めを全然果たせていないことに気付かされる。その一方で、「地の塩」「世の光」として生きることは、自分にはとても無理であるとも感じる。確かに、これらは自分の力で出来ることではない。それが出来るのは、イエス・キリストにおいて示された天の父の恵みが私達を圧倒する時だけである。