Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 テモテへの手紙一3章1~13節

聖書研究 テモテへの手紙一3章1~13節(新共同訳 新約p.386)

(1) 監督の資格(1~7節)

「監督」(ἐπισκοπή [episkopé])は「神の教会の世話」(5節)をする人である(使徒言行録20章28節、テトスへの手紙1章7節)。パウロは「監督の職を求める人がいれば、その人は良い仕事を望んでいる」(1節)と述べる一方で、監督に相応しい人とそうでない人がいると考えた。そこで、監督に求められる徳についてテモテに教えた。教会が主なる神から与えられた使命を十分に担えるようにするためである。
 パウロによれば、監督は倫理的な面において優れていなければならない。というのは、この世に対して倫理的な模範を示さなければならないからである。具体的には「非のうちどころがなく、一人の妻の夫であり、節制し、分別があり、礼儀正しく、客を親切にもてなし、よく教えることができ」(2節)ること、「酒におぼれず、乱暴でなく、寛容で、争いを好まず、金銭に執着せず、自分の家庭をよく治め、常に品位を保って子供たちを従順な者に育てている」(3~4節)ことを挙げている。
 また、パウロは、どれほど能力があっても、「信仰に入って間もない人」は監督になってはいけないと指摘する(6節)。「信仰に入って間もない人」と訳されているギリシア語(νεόφυτος [neophutos])は「新しく植えられる」という意味の形容詞である。まだ信仰が十分に根付いておらず、訓練も受けていないにもかかわらず、この世における地位や経験を信頼して監督に任命することは、問題の種を作ることになる。そのような人が「高慢になって」堕落したら、罪を犯し、「悪魔と同じ裁きを受けかねない」(6節)。
 更に、監督は、教会の信徒だけでなく教会外の人にも親切にし、正しい行いに励み、「教会以外の人々からも良い評判を得ている人」(7節)でなければならないとパウロは言う。監督が社会的に信頼される人でなければ、「中傷され、悪魔の罠に陥りかねない」(7節)からである。

(2) 奉仕者の資格(8~13節)

 パウロはテモテに、信徒のリーダーである「奉仕者」に求められる徳についても教えた。新共同訳で「奉仕者」と訳されているギリシア語(διάκονος [diakonos])は、「僕」を意味し、口語訳、新改訳では「執事」と訳されている。
 監督と同様に、奉仕者は、倫理的な生活において信徒の模範となるために、「品位のある人」、「二枚舌を使わず、大酒を飲まず、恥ずべき利益をむさぼらず、清い良心の中に信仰の秘められた真理を持っている人」でなければならない(8~9節)。「恥ずべき利益をむさぼらず」というのは、自分に多くの利益をもたらすものであっても、信仰に背くことであればきっぱりと断ることである。また、「清い良心の中に信仰の秘められた真理を持っている」とは、イエス・キリストの福音による救いの確信、喜び、感謝に溢れ、信仰に従って生きようとすることである。
 また、奉仕者は務めを担うにあたって「審査を受ける」(10節)必要がある。「夫人の奉仕者」も「品位のある人」、「中傷せず、節制し、あらゆる点で忠実な人」でなければならない(11節)。また、奉仕者は家庭生活においても監督と同様に正しくあることが求められた(12節)。
 その上で、「奉仕者の仕事を立派に果たした人々は、良い地位を得、キリスト・イエスへの信仰によって大きな確信を得るようになる」(13節)とパウロは言う。信徒一人一人が、イエス・キリストへの信仰に堅く立ち、互いを愛し、仕え合うことによって、教会は建て上げられていく。