Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 テモテへの手紙一3章14節~4章5節

聖書研究 テモテへの手紙一3章14節~4章5節(新共同訳 新約pp.386-387)

(1) 真理であられるイエス・キリスト(14~16節)

 パウロは近いうちにテモテの所に行くことを願っていた(14節)。しかし、訪問が遅れる可能性があった。そのため、パウロはテモテに「神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたい」(15節)と願い、この手紙を書いた。
 パウロは教会を「神の家」と呼んでいる。家の主人は主なる神である。どれほど建物が立派で、人が沢山集っていても、そこに主なる神がおられなければ教会とは言えない。他の手紙でもパウロは教会を「神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿」(コリントの信徒への手紙一6章19節)と呼んでいる。
 主なる神は教会を「真理の柱であり土台」として建てられた(15節)。ここでパウロは「信心の秘められた真理」(16節)――新改訳では「敬虔の奥義」、口語訳では「信心の奥義」――の偉大さについて語っている。パウロによれば、それは「キリストは肉において現れ、“霊”において義とされ、天使たちに見られ、異邦人の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた」(16節)ことである。他の手紙でも「あなたがたの内におられるキリスト」こそが、主なる神が「神の聖なる者たち」に明らかにされた「世の初めから代々にわたって隠されてきた、秘められた計画」であり、「栄光の希望」であるとパウロは教えている(コロサイの信徒への手紙1章26~27節)。
 主なる神の独り子イエス・キリストは、人間となられ、十字架と復活を通して人間の罪の贖いを成し遂げられ、天に昇り、主なる神の右の座に就かれた。「道であり、真理であり、命である」(ヨハネによる福音書14章6節)イエス・キリストこそが教会の頭であられる。教会はイエス・キリストの御業を「信心の秘められた真理」として保ち、分かち合い、世に告げ知らせていくことを命じられている。

(2) 主なる神の言葉に堅く立つ(1~5節)

 教会の歴史は異端との戦いの歴史でもあった。パウロは、聖霊の示しを受けて、「終わりの時には、惑わす霊と、悪霊どもの教えとに心を奪われ、信仰から脱落する者がいます」(1節)と警告する。実際、エフェソの教会では、一部の信徒が惑わされて、教会を離れていったり、偽りの教えをもって教会を乱すということが起こっていた(1章3~4節、19節)。彼らは、「結婚を禁じたり、ある主の食物を断つことを命じ」(3節)るなど、極端な禁欲主義に走った。
 こうした主張は一見とても敬虔であるように思われる。しかし、その内実は「偽りを語る者たちの偽善」(2節)に過ぎない。というのは、主なる神が人間への祝福として《結婚》という制度を定められたにもかかわらず(創世記2章18節、24節)、それを否定し、蔑ろにしているからである。
 或る食物を断つことについても、パウロは「この食物は、信仰を持ち、真理を認識した人たちが感謝して食べるようにと、神がお造りになったものです。というのは、神がお造りになったものはすべて良いものであり、感謝して受けるならば、何一つ捨てるものはないからです」(3~4節)と教えている。主なる神ご自身、ペトロに「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」(使徒言行録10章15節)と言われた。主なる神が私達に与えて下さるものは全て良いものである。
 私達は主なる神の恵みによって救いを受け、恵みによって生かされている。それ故、パウロはテモテに「神の言葉と祈りとによって聖なるものとされるのです」(5節)と語った。主なる神の言葉に堅く立ち、イエス・キリストに従って生きようとする時、そのために主なる神の助けを求めて祈る時、私達は主なる神に喜ばれる生き方をすることが出来る。