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Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 テモテへの手紙一3章14節~4章5節

聖書の黙想と適用 テモテへの手紙一3章14節~4章5節(新共同訳 新約pp.386-387)

(1) 酒・煙草に対する私の関わり

 昔、母校での教育実習を終え、実習生全員で打ち上げをしたことがあった。しかし、私は、体質的に酒が苦手で、ぶどうの酎ハイを2杯飲んだだけで意識が朦朧とした。そして、足元がふらついて自宅まで帰ることも出来なくなったため、近くに住むかつての同級生の家に一晩泊めてもらうという大失態を犯した。それ以降、私は家でも外でも酒を殆ど飲まなくなった。煙草についても、気管支が少し弱いため、自分が吸わないだけでなく、煙が漂っている所も避けるようにしている。新幹線に乗る時には必ず禁煙席を選んでいる。しかし、これらは健康上の理由であって、宗教的な理由ではない。

(2) 敬虔に見える傲慢

 パウロは「神がお造りになったものはすべて良いもの」(4節)であると述べている。主なる神が私達に与えて下さったもので、悪いものは一つもない。煙草の葉やアルコールも主なる神によって創造されたものである。それらを通して、私達はリラックスしたり、ストレスを緩和することが出来る。勿論、酒や煙草はリスクと責任を伴う嗜好品である。過度の摂取は、アルコール依存症やニコチン依存症、がんのリスクの増加など、健康を害する。
 エフェソの教会において「結婚を禁じたり、ある種の食物を断つことを命じた」(3節)人達は、人間の目にはとてもストイックで、敬虔に見えたことだろう。しかし、パウロは彼らを「惑わす霊と、悪霊どもの教えとに心を奪われ、信仰から脱落」(1節)した人間、「偽りを語る者たち」(2節)と評している。勿論、ここで言われているのは、糖尿病などを患っている人が食べるものを選択・調節する《食事療法》のことではない。宗教上の理由による禁欲である。とても敬虔そうに見える彼らを、何故パウロは信仰から脱落した者と見なしたのか。主なる神が設けられた《結婚》という制度、主なる神が造られた食物を、彼らが否定したからである。
 主なる神が禁じていないことを、人間が全面的に否定することは、敬虔に見えて、その実傲慢である。彼らは、どれほど信仰深そうに見えても、主なる神が定められた善悪の基準に挑戦している。イエス・キリストはガリラヤのカナの婚礼の席で水をぶどう酒に変える奇跡を行われた(ヨハネによる福音書2章1~11節)。もし酒を飲むことが罪であるならば、イエス・キリストは婚礼に招かれた人達を罪へと導いたことになる。

(3) 欲求のマネジメント

 私達は、「神の言葉と祈り」(5節)を通して、何が許されていて、何が許されていないかを常に主なる神に尋ね求め、主なる神が定められた基準に従って是非を判断しなければならない。その上で、私達が自由に判断してもいい事柄については、欲求を上手くマネジメントする必要がある。
 食欲は、上手くコントロール出来れば、私達の健康にとって益となるし、楽しみにもなる。美食もそれ自体は決して罪ではない。しかし、コントロールに失敗すると、肥満や拒食症、糖尿病などのリスクが高まり、健康を害することになる。性欲も主なる神が私達に与えて下さった祝福の一つである(創世記1章28節)。しかし、コントロールに失敗すれば、深刻な問題を起こしてしまう。