Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 テモテへの手紙一4章6~16節

聖書研究 テモテへの手紙一4章6~16節(新共同訳 新約p.387)

(1) イエス・キリストの立派な奉仕者になるために(6~10節)

「キリスト・イエスの立派な奉仕者」(6節)になるためには、主なる神の言葉によって養われ、訓練される必要がある。「信仰の言葉とあなたがたが守ってきた善い教えの言葉」(6節)というのは、パウロがこれまで教えてきた主なる神の言葉を意味する。パウロは、テモテがエフェソの教会の信徒を主なる神の言葉をもって養い、訓練すると共に(6節)、彼自身も主なる神の言葉によって養われ、訓練されることを願った。
 特に、教会の指導者は、自分が教えていることの中に誤謬が入り込んでいないか、聖書に照らして吟味する必要がある。当時偽りの教えがエフェソの教会を揺るがしていた。それ故、パウロはテモテに、「俗悪で愚にもつかない作り話」(7節)を退け、偽りの教えに惑わされることがないよう指導した。「作り話」は、益とならないどころか、却って無意味な争いを引き起こすからである(1章4節)。
 また、パウロはテモテに「信心のために自分を鍛え」(7節)るよう命じている。新共同訳と口語訳で「信心」と訳されているギリシア語(εὐσέβεια [eusebeia])は、新改訳では「敬虔」と訳されている。また、「鍛え」と訳されているギリシア語(γυμνάζω [gumnazó])には、「鍛錬する」(新改訳)、「訓練する」(口語訳)、「練習する」という意味がある。
 パウロは、「体の鍛錬」と信心を比較し、前者はこの世における命にとって「多少は役に立」つに留まるのに対し、後者は「この世と来るべき世での命を約束するので、すべての点で益となる」(8節)と述べている。彼がイエス・キリスト奉仕者として「労苦し、奮闘」(10節)してきたのも、「すべての人、特に信じる人々の救い主である生ける神に希望を置いて」(10節)いたからである。
 勿論、私達は自分を鍛える訓練によって救われるのではない。救いはイエス・キリストの十字架の贖いを信じる者が主なる神の恵みによって受けるものである(エフェソの信徒への手紙2章8節、テトスへの手紙3章5節)。その一方で、イエス・キリストによって救われた者は、「神の言葉と祈りとによって」(5節)信仰が成長し、 聖化されていく。

(2) 信徒の模範となるために(11~16節)

 パウロはテモテに、「年が若いということで、だれからも軽んじられ」ないために、「言葉、行動、愛、信仰、純潔の点で、信じる人々の模範」となるよう命じた(12節)。指導者になったということは、もう何も学ぶ必要はないということではない。逆に、信徒の模範となるために絶えず自分を鍛えなければならない。それ故、パウロは、「聖書の朗読と勧めと教えに専念」(13節)し、主なる神の言葉から離れないようテモテを指導した。また、長老達から按手を受け、教会の指導者として立てられた時、テモテは「恵みの賜物」を聖霊から与えられた。その賜物も「軽んじ」てはならないとパウロは言う(14節)。
 指導者が信仰においても、生活においても、働きにおいても成熟を目指して努力する時、教会も成熟へと向かっていく。パウロは、テモテが「これらのことに努め」、「そこから離れ」ないならば、彼の「進歩はすべての人に明らかになる」と励ました(15節)。テモテが「自分自身と教えとに気を配り」、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして与えられた務めに取り組むことによって、人々は主なる神の言葉を聞き、救いへと導かれる。そればかりか、テモテ自身をも救うことになる(16節)。