Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 テモテへの手紙二1章1~8節

聖書研究 テモテへの手紙二1章1~8節(新共同訳 新約p.391)

(1) 継承されていく信仰(1~5節)

 パウロは、イエス・キリストを証しして、牢に入れられた(8節)。当時のローマ帝国においてイエス・キリストの福音を宣べ伝えることは、多くの苦難と迫害、更には殉教をも覚悟しなければならなかった。そのような中、彼は、自分の弟子であり、同労者であり、代理としてエフェソの教会に遣わされていたテモテに、遺言を残すような思いでこの手紙を書き送った。
 パウロはテモテに、自分が「キリスト・イエスによって与えられる命の約束を宣べ伝えるために、神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされた」と述べている。そして、テモテも同じように福音宣教の務めを忠実に果たし、「父である神とわたしたちの主キリスト・イエスからの恵み、憐れみ、そして平和」(2節)が彼の生活に満ち溢れることを切に願った。
 パウロは、テモテを「愛する子」(2節)と呼び、彼のことを「昼も夜も祈りの中で絶えず思い起こし」(3節)た。祈りは、主なる神との関係、また主にある兄弟姉妹との関係をより親しいものにする。パウロは、彼自身が「先祖に倣い清い良心をもって仕えている」主なる神に、テモテも同じように仕えていることについて、「神に感謝」(3節)を献げた。「仕えている」と訳されているギリシア語(λατρεύω [latreuō])は現在形で、宗教的に「仕える」こと、即ち「礼拝する」ことを意味する(マタイによる福音書4章10節、使徒言行録7章7節、ローマの信徒への手紙1章9節)。パウロもテモテも、「先祖に倣い」、これまで主なる神を礼拝してきた。そして、現在も主なる神を礼拝している。更に、それはこれからも続く。
 パウロはテモテが「祖母ロイスと母エウニケ」から受け継いだ「純真な信仰」を喜んでいる(5節)。ロイスとエウニケはユダヤ人で、テモテは「幼い日から聖書に親し」(3章15節)むなど、信仰教育を受けて育った。主なる神に「清い良心をもって仕え」てきた母や祖母の影響を受けて、テモテの内にも確かな信仰が養われた。
 更に、パウロは、テモテの「涙」を思い起こす度に、彼の信仰から励ましを受けた(4節)。その涙は、イエス・キリストの福音に対する感動の涙かも知れないし、自分が犯した罪に対する悔い改めの涙かも知れない。或いは主なる神に祈りを献げた時に流した涙かも知れない。いずれにせよ、それはパウロにとって大きな喜びとなった。それ故、彼は是非ともテモテに「会って、喜びで満たされたい」(4節)と願った。

(2) 聖霊の賜物を再び燃え立たせる(6~8節)

 パウロはテモテに「与えられている神の賜物を、再び燃えたたせるように勧め」(6節)た。パウロが投獄され、「年が若い」(テモテへの手紙一4章12節)テモテは、恐れと不安の中にあったのかも知れない。パウロはテサロニケの教会の信徒にも「“霊”の火を消してはなりません」(テサロニケの信徒への手紙一5章19節)と教えている。イエス・キリストをしっかりと証ししていくためには、「おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊」(7節)である聖霊の賜物を受ける必要がある。テモテが按手を受けた時に与えられた聖霊の賜物が、彼の中で再び燃え立つことをパウロは願った。
 パウロ自身も自分が福音のために牢に入れられていることを決して恥じなかった。そればかりか、福音のために死ぬことさえ恐れていなかった。彼は自分のことを「主の囚人」と呼び、「わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください」(8節)とテモテを励ました。殉教をも覚悟しなければならない状況でイエス・キリストを証しすることは、「神の力に支えられて」可能となる。