Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 テモテへの手紙二1章9~18節

聖書の黙想と適用 テモテへの手紙二1章9~18節(新共同訳 新約pp.391-392)

(1) 委ねられているものを守る(9~14節)

 パウロはテモテに宛てた手紙で福音の核心を確認している。主なる神は「聖なる招きによって」私達を「呼び出してくださった」。救いは「わたしたちの行いによるのではなく」、主なる神「御自身の計画と恵みによる」ものである(9節)。そして、この恵みは「永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ」(9節)、人となってこの世に来られた「わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされた」(10節)。イエス・キリストは、十字架で人間の全ての罪を負われて死なれ、3日目に復活された。そのことによって「死を滅ぼし」、「不滅の命を現して」(10節)下さった。こうして主なる神は永遠の昔に立てられた救いの計画をイエス・キリストを通して成し遂げられた。
 そして、この福音のためにパウロは「宣教者、使徒、教師」(11節)として召された。信仰は主なる神の恵みによって無償で与えられる賜物であるが、意味もなく救われる人はいない。主なる神の召しにははっきりとした目的が存在する。パウロはそのために「苦しみを受けて」きた。しかし、主なる神が永遠の昔に計画された救いと召しに対する確信、また自分が「ゆだねられているもの」を、主なる神が「かの日まで守ることがおできになる」という確信があったので、彼は恐れや恥を覚えることなく福音を宣べ伝えた(12節)。
 その上で、パウロは主なる神から委ねられた福音伝道の使命をテモテにも委ねた。そして、テモテに「キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちのうちに住まわれる聖霊によって守りなさい」(13~14節)と勧めた。「健全な言葉」、「良いもの」というのは、福音を別の言葉で表したものである。
 キリスト者は、主なる神から救いの恵みを受け、召しを受けた者である。そして、私達の内に聖霊が住まわれる時、私達は、主なる神が委ねられた使命を正しく知り、今日も明日もそれを喜んで行いながら進むことが出来る。聖霊がおられなければ、私達は依然として「肉に従って生き」(ローマの信徒への手紙7章5節)、分裂、不品行、富、名誉、人に認められることを好む者となってしまう。聖霊を慕い求めよう。

(2) 福音伝道におけるパウロの痛みと慰め(15~18節)

 イエス・キリストの福音を宣べ伝えながら、地中海世界を巡る中で、パウロは多くの痛みと喜びを経験した。その時、去る人もいれば、最後まで残り、助けてくれる人もいた。
アジア州の人々は皆、わたしから離れ去りました」(15節)というパウロの言葉が正確に何を意味するのかは分からない。しかし、パウロが大きな困難に直面した時に、彼らがパウロを見捨てたことは間違いない。ここでパウロは「フィゲロとヘルモゲネス」という具体的な名前を挙げているが、彼らはパウロが投獄されるのを見て、イエス・キリストの福音を恥と思い、信仰を捨ててしまったのかも知れない。
 その一方で、パウロを見捨てず、助けた人々もいた。パウロは、オネシフォロの助けに感謝し、主なる神が彼とその家族に憐れみを注いで下さるよう祝福を祈った(16節、18節)。オネシフォロは、パウロを「しばしば励まし」た。パウロが福音のために牢獄で鎖に繋がれた時も、彼が「囚人の身であることを恥とも思わ」(16節)なかった。そして、「ローマに着くと」パウロを「熱心に探し、見つけ出し」た(17節)。オネシフォロの愛と奉仕は、危機と試練の中にあったパウロを慰め、力づけたことだろう。
 主なる神に対する愛と誠実は、人に対する愛と誠実に現れなければならない。私達の周りにも、思いもよらない状況や深い傷によって試練や危機の中に置かれている人がいるかも知れない。彼らを愛をもって励まし、慰めることは、主なる神に喜ばれることである。