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Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 テモテへの手紙二2章14~26節

聖書研究 テモテへの手紙二2章14~26節(新共同訳 新約p.393)

(1) 真理の言葉を正しく伝える(14~19節)

 パウロは、テモテが「適格者として認められて神の前に立つ者、恥じることのない働き手、真理の言葉を正しく伝える者となる」(15節)ことを願った。「正しく伝える」と訳されているギリシア語の動詞(ὀρθοτομοῦντα [orthotomounta])の原形ὀρθοτομέω [orthotomeó]には、字義的には「険しい地形を削って一直線の道を作る」という意味がある。そこから「まっすぐ切る」という意味が出てきて、更に「正確に示し教える」ことを表すようになった。パウロはテモテに、主なる神の言葉を歪曲することなく、正しく宣べ伝えるよう指導した。主なる神の言葉は、罪人を救い、恵みと慰めを得させ、力と勇気を与える。主なる神の言葉を正しく伝えるなら、人々は闇と絶望、失敗と滅びから救い出される。
 一方、パウロはテモテに「俗悪な無駄話を避け」(16節)るよう助言している。「俗悪な無駄話」というのは、グノーシス主義の影響を受けた偽りの教えのことである。「そのような話をする者はますます不信心になっていき」(16節)、しかも「その言葉は悪いはれ物のように広が」(17節)っていくとパウロは警告する。
 パウロは、「真理の道を踏み外し」(18節)た人として「ヒメナイとフィレト」の名前を挙げている(17節、テモテへの手紙一1章20節)。彼らは、物質から成る肉体を悪と考え、「復活はもう起こったと言って」(18節)、死者の復活という福音の核心を否定した(コリントの信徒への手紙15章12~58節)。そして、彼らの教えは「ある人々の信仰を覆し」(18節)た。そのように偽りの教えを説く者には主なる神の呪いがある(ガラテヤの信徒への手紙1章8~9節)。
 偽りの教えを説く人々がいたことは、エフェソの教会に動揺をもたらした。にもかかわらず、「神が据えられた堅固な基礎は揺るぎません」(19節)とパウロは言う。主なる神はご自分の民をよくご存知であられる。それ故、神の民は、偽りの教えに心を揺るがされることなく、「不義から身を引」き、主なる神だけに仕えなければならない(19節)。主なる神の言葉に私達が留まって生きるなら、主なる神が助けて下さる。

(2) 主なる神に用いられるために(20~26節)

 パウロは、自分を清め、主なる神に用いられるに相応しい者となるべきであることを、器を例に挙げて教えている。「大きな家には金や銀の器だけでなく、木や土の器もあり」、夫々の器が用途に合わせて使われる(20節)。しかし、金や銀の器であっても、汚れていては貴いことに使えない。「貴いことに用いられる器」「聖なるもの、主人に役立つもの、あらゆる善い業のために備えられたもの」となるためには、「諸悪から自分を清める」必要がある(21節)。「清める」と訳されているギリシア語の動詞(ἐκκαθαίρω [ekkathairó])は、この箇所とコリントの信徒への手紙一5章7節だけに登場し、霊的にも倫理的にも清くなることを語る際に使われている。
 その上で、パウロはテモテに、「若いころの情欲から遠ざかり、清い心で主を呼び求める人々と共に、正義と信仰と愛と平和を追い求め」(22節)るよう命じた。「情欲」と訳されているギリシア語(ἐπιθυμία [epithumia])は、性欲に限らず、様々な欲望を指す(テモテへの手紙一6章9節、ヨハネの手紙一2章16~17節)。欲それ自体は主なる神が与えて下さった良いものであるが、罪人である私達にはコントロールは決して容易ではない。それ故、罪を犯しかねない場には近づかないことが賢明である。
 また、パウロはテモテに「愚かで無知な議論を避け」(23節)るよう助言する。教会は色々な文化や習慣を持った人がイエス・キリストにあって一つとされた共同体である。自己主張ばかりしていては、争いや衝突が起きる(23節)。悪魔はそこから教会を混乱に陥れ、分裂させ、破壊しようとする。
 それに対し、パウロは「主の僕たる者は争わず、すべての人に柔和に接し、教えることができ、よく忍び、反抗する者を優しく教え導かねば」(24~25節)ならないとテモテに教えている。エフェソの教会におけるテモテの役割は、信徒に主なる神の言葉を教え、彼らを正しい信仰へと導くことであった。主の僕が柔和な心をもって仕え、忍耐し、教える時、主なる神はその働きを用いて教会を建て上げて下さる。そして、今は「悪魔に生け捕りにされてその意のままになって」(26節)者に対しても、主なる神は働いて下さり、いつか彼らを悔い改めへと導き、真理を認識させて下さるかも知れない(25節)。