Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 テモテへの手紙二3章1~9節

聖書の黙想と適用 テモテへの手紙二3章1~9節(新共同訳 新約pp.393-394)

(1) 〈終わりの時〉の特徴(1~4節)

 パウロが「終わりの時」と呼んでいる期間は、イエス・キリストの誕生からエルサレム陥落までを指す。初代教会が生きた期間は、旧時代の終わりと新時代の始まりであった(David Chilton, Paradise Restored: A Biblical Theology of Dominion, Tyler, Texas: Dominion Press, 1985, p.115)。
 イエス・キリストの来臨によって始まった〈終わりの時〉の特徴は両極化である。イエス・キリストの御名を呼ぶ者には聖霊が限りなく注がれる。一方、利己心によって生きる者は、「自分自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、高慢になり、神をあざけり、両親に従わず、恩を知らず、神を畏れなくなり」(2節)、ますます身勝手で貪欲になる。彼らは「情けを知らず、和解せず、中傷し、節度がなく、残忍になり、善を好まず、人を裏切り、軽率になり、思い上がり、神よりも快楽を愛し」(3~4節)た。
 テモテと彼が導く会衆は、〈終わりの時〉に何が起こるかを知る必要があった。何故なら、〈終わりの時〉に起こることは教会にも影響を与えるからである(Ibid., pp.115-116)。今日の教会やキリスト者もこの世の不敬虔の影響を受けてしまうことがある。その時、主なる神から多くの恵みをいただきながら、自己中心に生き、欲に従って金銭や快楽を追い求めるようになる。聖霊に満たされて、背教の誘惑に打ち勝ち、主なる神と隣人への愛を実践しよう。

(2) 信心を装う人々(5~9節)

 真の敬虔は内なる人の変化から始まる。どれほど「信心を装」(5節)っていても、実際の生活において「罪に満ち、さまざまの情欲に駆り立てられており」(6節)、「信心の力を否定」(5節)するならば意味がない。
神の国は言葉ではなく力にある」(コリントの信徒への手紙4章20節)。信心の力を否定する者は、「いつも学んでいながら、決して真理の認識に達することができ」(7節)ず、最終的に「信仰の失格者」(8節)となってしまう。モーセに逆らったヤンネとヤンブレのように「真理に逆らって」(8節)いるからである。
 イエス・キリストの十字架と福音は内面の新生を伴う。イエス・キリストが宣言されたように、私達は「水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」(ヨハネによる福音書3章5節)。不法や不義が広まり、悪や異端の力が強まる時こそ、私達は主なる神の言葉にしっかり留まり、信仰の戦いに勝利しよう。