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Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 テモテへの手紙二3章10~17節

聖書研究 テモテへの手紙二3章10~17節(新共同訳 新約p.394)

(1) 迫害と苦難に耐える(10~13節)

 テモテは、パウロの「教え、行動、意図、信仰、寛容、愛、忍耐」(10節)に倣い、「迫害と苦難」(11節)に耐えてきた。パウロはテモテに「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受け」(12節)ると励ました。イエス・キリストへの信仰に立って生きようとする時、苦しみに直面することがある。そして、それは決して驚くべきことではない。何故なら、イエス・キリストご自身が世に憎まれ、苦しみを受けられたからである(ヨハネによる福音書15章18節)。
 パウロも、イエス・キリストを主と信じ、イエス・キリストに従って生きようとして、迫害や苦難を受けてきた(11節、コリントの信徒への手紙二11章23~28節)。しかし、主なる神はその全てからパウロを救い出された(11節)。迫害や苦難は、主なる神に見捨てられたことではなく、主なる神に従おうとしていることの証明である。
 テモテの周りでは「悪人や詐欺師」、即ち偽りの教えを説く者が、人々を「惑わし」たり、自らも「惑わされ」て、「ますます悪くなって」いくということが起こっていた(13節)。そのような中で、パウロは、テモテが「信心深く」生きること、即ちイエス・キリストの内に留まり、主なる神の御心を行うことを願った。「信心深く」(εὐσεβῶς [eusebós])というのは、パウロがテモテに対して繰り返し強調していることである(5節、2章16節、一1章9節、2章2節、3章16節、4章7~8節、6章3節、5~6節、11節)。

(2) 聖書の教えから離れない(14~17節)

 パウロはテモテに「自分が学んで確信したことから離れてはなりません」(14節)と教えた。「確信した」と訳されているギリシア語(ἐπιστώθης [epistōthēs])は、「堅く信じる」「確信する」という意味の動詞の受動態の過去形である。テモテは、祖母ロイスと母エウニケから信仰を受け継ぎ(14節、1章5節)、「幼い日から聖書に親しんできた」(15節)。また、パウロからより深く聖書を学び、福音への確信に導かれた。聖書は「キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵」(15節)であるとパウロは言う。
 その上で、パウロは、テモテがより一層聖書に依り頼むよう助言した。パウロによれば、「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益」(16節)である。「神の霊の導きの下に書かれ」と訳されているギリシア語(θεόπνευστος [theopneustos])は、「神」と「息を吹き込む」という意味の2つのギリシア語から成る合成語である。聖書は、聖霊が人間を用い、導いて書かれたものである。それ故、聖書には誤りはなく、主なる神の命が充満している。
 更に、パウロは、聖書が(1)「人を教え」るという点において、(2)人を「戒め」るという点において、(3)人の「誤りを正」すという点において、(4)人を「義に導く訓練をする」という点において「有益」であると述べている。主なる神の言葉である聖書は、「滅んでいく者にとっては愚かなもの」(コリントの信徒への手紙一1章18節)であるが、「信じる者すべてに救いをもたらす神の力」(ローマの信徒への手紙1章16節)である。また、聖書は私達の歩みを照らし、清める「灯」、「道の光」である(詩編119編9節、105節)。更に、イエス・キリストに結ばれた者は、聖書を通して信仰的にも人格的にも「十分に整えられ」、「どのような善い業をも行うことができるように」なる(17節)。
 イエス・キリストを主と信じて救われたからと言って、急に完全無欠の人間になるわけではなく、私達は尚も罪人である。しかし、主なる神は聖書を通して私達に善い業を行う力を与えて下さる。