読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 テモテへの手紙二3章10~17節

聖書の黙想と適用 テモテへの手紙二3章10~17節(新共同訳 新約p.394)

 今月の21日から『沈黙――サイレンス』という映画が上映される。この映画は遠藤周作の同名の小説を原作としている。高校時代、私は、『沈黙』をはじめ、遠藤周作の作品から多大な影響を受けた。特に、『沈黙』において司祭ロドリゴが踏絵を踏む時、「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ」という声を〈踏絵のイエス?〉から聞く場面に大変感動した(遠藤周作『沈黙』新潮文庫; え-1-15, 東京: 新潮社, 2003年, 改版, p.268)。そして、イエス・キリストを専ら〈同伴者イエス〉として理解し、信じるようになった。
 しかし、バプテスマを受け、クリスチャンとしての歩みを始めると、そのような〈踏むがいい〉信仰はすぐに行き詰まった。というのは、〈踏むがいい〉信仰には、クリスチャンとして成長することの必要性を感じなくさせるところがあるからである。しかも、私は、〈信仰義認〉というプロテスタントの核心の教えを持ち出して、罪の性質が未だに支配している自分の状態を正当化しようとした。しかし、それに対し、「本当にそれでいいのか」という良心の責めが波のように押し寄せてきた。
 とはいえ、私にはどうしたらクリスチャンとして成長出来るのかが分からなかった。そのため、様々な本を買い漁ったり、いわゆる〈根本主義〉や〈聖霊派〉の教会の礼拝や祈祷会に出席したり、超教派の聖会やセミナーに参加するなど、長い〈巡礼〉の旅を続けてきた。そのような中で、私は、宗教改革ジャン・カルヴァン著作に出会い、〈聖化〉という考え方に目を開かされた。そして、聖書の言葉に基づいて生きるのがどれほど素晴らしいことであるかが分かってきた。
「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です」(16節)とパウロは言う。私達はイエス・キリストを主と信じたからと言って、生き方や考え方が急に変わるわけではない。しかし、主なる神は聖書を通して私達が「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする」(12節)ことを助けて下さる。また、私達を罪の悔い改めへと導いて下さる。聖書の言葉に耳を傾けよう。聖書の言葉によって訓練されることを通して、私達は「どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられ」(17節)ていく。