Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 ルカによる福音書1章57~66節

聖書研究 ルカによる福音書1章57~66節(新共同訳 新約pp.101-102)

(1) バプテスマのヨハネの誕生(57~64節)

 月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ(57節)。「近所の人々や親類」は、「不妊の女」(7節、36節)と言われていたエリサベトに子供が与えられたと聞いて、「主がエリサベトを大いに慈しまれた」と「喜び合った」(58節)。「主がエリサベトを大いに慈しまれた」と訳されているギリシア語の原文(ἐμεγάλυνεν Κύριος τὸ ἔλεος αὐτοῦ μετ’ αὐτῆς [emegalynen Kyrios to eleos autou met’ autēs])は、直訳すると「主は彼女と共にあるご自分の慈しみを大きくされた(増し加えられた)」となる。「大きくする」「増し加える」というギリシア語(μεγαλύνω [megalunó])には、46節の「あがめ」と同じ動詞が用いられている。バプテスマのヨハネの誕生は、主なる神の大いなる慈しみの故である。そして、これは、ガブリエルが告知した「その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ」(14節)という主なる神の言葉の成就であった。
 男の子が生まれて、8日目を迎えると、割礼を施すために人々がザカリアの家にやって来た。その子の名前を決める時、人々は「父の名を取ってザカリアと名付けようとした」(59節)。「名付けようとした」と訳されているギリシア語の動詞(ἐκάλουν [ekaloun])の時制は未完了過去なので、彼らが子供にザカリアと名付けようとしたことは1回だけではなく、これまでにも繰り返されてきたことが分かる。ユダヤ人は、父や祖父、親戚の名前に因んで子供の名前を付け、親族の名を受け継ぐことによって誇りを保ってきた。
 しかし、エリサベトは「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と反対した。これは、天使ガブリエルの命令に従おうとする堅い決心の表れであったが(13節)、当時のユダヤ人の慣習に反することであった。そのため、人々は「あなたの親類には、そういう名の付いた人はだれもいない」(61節)と言って、ザカリアの考えを尋ねた(62節)。
 ザカリアは、まだ口が利けなかったので、「字を書く板」を持って来させ、「この子の名はヨハネ」と書いた(63節)。すると、ザカリアの口が開き、舌がほどけ、主なる神を讃美し始めた(64節)。こうしてガブリエルが伝達した主なる神の言葉は全て成就した(20節)。

(2) 主の力が及んでいる(65~66節)

「近所の人々」は、ヨハネの誕生に関する一連の出来事を目の当たりにし、皆「恐れを感じた」(65節)。「近所の人々」と訳されているギリシア語(περιοικέω [perioikeó])は、58節の「近所の人々」(perioikos [perioikos])の動詞形で、この2つの語の意味は同じである。近所の人々が恐れたのは、これらが主なる神の御業であると理解したからである。恐れは、主なる神の驚くべき御業や奇蹟に対する人間の自然な感情である(5章26節、7章16節、8章37節)。これと似た反応がイエス・キリストの誕生の時にもあった(2章17~18節)。そして、これらの出来事は、彼らを通して「ユダヤの山里中」に広まった。
 ヨハネの誕生に関する知らせを聞いた人々は、「皆これを心に留め」、「この子はどんな人になるのだろうか」と関心を寄せた(66節)。「この子はどんな人になるのだろうか」と訳されたギリシア語の原文には、結果や帰結を意味する接続詞ἄρα [ara](だから、それ故)が記されている。この接続詞は、ヨハネの将来について人々の関心を抱かせたのは、ヨハネの誕生に関する出来事であることを示している。というのは、ヨハネには「主の力が及んで」(66節)いることを知ったからである。妊娠が不可能であった老夫婦に子供が与えられた。不可能を可能にするのは、主なる神の御業だけである。