Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 ダニエル書3章17~18節

聖書の黙想と適用 ダニエル書3章17~18節(新共同訳 旧約p.1384)

『沈黙――サイレンス』の中で、役人が司祭やキリシタンに「形だけでいいから踏絵を踏みなさい」と説得する場面が何度かあった。そのように語る役人は決して悪人ではない。寧ろ無用の処刑や拷問は避けたいと考える《良心的な》役人であった。その場面を見た時、教会で副牧師として仕えていた時のことを思い出した。
 或る平日、町内会の役員の方が教会に来て、地元の神社の維持・管理のための寄付を求めてこられたことがあった。その神社は福岡藩主・黒田家から代々崇敬を受けてきた由緒ある神社であった。しかし、私は「神社のために教会からお金を出すことは出来ません」と言って、お断りした。
 それに対し、町内会の方は「皆さんが違う宗教を信じているというのはこちらも分かっています。しかし、地域の一員としての責任を果たすということで、町内会費のつもりで納めてはもらえませんか」と言われた。私が「町内会費だったら勿論納めますし、地域の他の活動には協力させていただきますが、これはやはり出来ません」と拒むと、相手は「こちらは何も神社に参拝してくれと強要しているわけではなくて、地域の大事な歴史的建造物だから皆で守っていきましょう、そのために《形だけでいいから》協力して下さいとお願いしているだけです。だから、わがままを言われるとちょっと困ります」と言われた。
 その後も少しやり取りは続いたが、話は平行線に終わった。結局、「主任牧師も教会の役員もおられない中で、私の一存では決められませんから、後日お返事を差し上げます」と言ってお引き取りいただいた。それから、主任牧師や役員の方に連絡し、この件について報告と相談をしたが、私のとった対応で一応了承された。とはいえ、それで押し通せるかどうか、またその後の近所付き合いに影響を及ぼさないかという不安もないわけではなかった。主なる神の守りと知恵を求めて、祈りを献げた。そのような中で私はダニエルの言葉に支えられ、励まされた。
「わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。そうでなくとも、御承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません」(ダニエル書3章17~18節)。
 後日町内会の方に電話を差し上げると、教会の近所に住んでおられるご夫妻――どちらもクリスチャンではない――が、教会の負担分を立て替えて下さったと聞き、大変驚いた。早速立て替えて下さったお金と同額のお菓子を買って、お礼に伺った。その時、町内会の方が教会の次にその方のお宅に行かれ、私とのやり取りについて漏らされたこと、そのご夫妻はキリスト教学校のご出身で、キリスト教の考え方について多少知っていたこと、「さもありなん」と思って申し出られたことなどをお聞きした。私は、そのご夫妻に深く感謝すると共に、主なる神に心から感謝と讃美を献げた。
 なお、町内会の役員の方とはその後一斉清掃などで年に数回顔を合わせた。教会の前の道路は、人の往来が多く、飲食店も沢山あったので、早朝にカラスが生ゴミにたかって、食い散らかしていたり、コンビニやファーストフード店の包装、空き缶、ペットボトルなどのゴミがポイ捨てされていたり、更には酒を飲んだ人が吐いたものがそのまま放置されていることがあった。町内を回ってそれらを一緒に片付けた。