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Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 ローマの信徒への手紙12章1~2節

聖書の黙想と適用 ローマの信徒への手紙

聖書の黙想と適用 ローマの信徒への手紙12章1~2節(新共同訳 新約p.291)

『沈黙』の原作の中に「人間には生れながらに二種類ある。強い者と弱い者と。聖者と平凡な人間と。英雄とそれに畏怖する者と。そして強者はこのような迫害の時代にも信仰のために炎に焼かれ、海に沈められることに耐えるだろう。だが弱者はこのキチジローのように山の中を放浪している。お前はどちらの人間なのだ」という記述がある(遠藤周作『沈黙』新潮文庫; え-1-15, 東京: 新潮社, 2003年, 改版, p.121)。
 大学時代、私は、ローマ帝国によるキリスト教弾圧、日本のキリシタンの迫害と殉教、内村鑑三不敬事件、第2次世界大戦中のホーリネス弾圧などに関する文献を購入したり、図書館で借りて読んだ。人の目や評価を必要以上に気にし、信仰も意志も気も弱い私が、どうしたら強い信仰を持つことが出来るか、その手がかりを求めていたからである。
 例えば、エウセビオスの『教会史』には、イエス・キリストを主と信じる者に対する死刑判決が下されると、他の者も自分がクリスチャンであるであることを進んで表明し、息絶えるまで主なる神への讃美と感謝を献げ、歓喜の中で死んでいった様子が記されていた。日本でも、豊臣秀吉の命令により26人のキリシタンが長崎の西坂の丘で殉教しているが、最初は24人であったところに、2人のキリシタンが自ら名乗り出たという。
 凄まじい迫害を前にしても、信仰が揺らぐことのなかった人々の姿に、私は、文字通り雷に打たれたような衝撃を受けた。そして、これこそ、最後の晩餐の時にイエス・キリストが弟子達に与えると約束された平和であると思った(ヨハネによる福音書14章27節)。それは死の恐怖や肉体の苦痛さえも超える平安と喜びを私達に与えるものである。とはいえ、どうすればそのような平安や喜びを得ることが出来るか、私にはそれに到る道が分からなかった。
 2000年の初め、南部バプテスト連盟の宣教師がアメリカに帰国されることになり、最後の交換講壇が行われた。宣教師は、ローマの信徒への手紙12章1~2節を中心に、幾つかの聖書箇所からメッセージを語られた。それは内容的には決して特別なものではなかった。また、礼拝の中で何か特別な体験をしたというわけでもない。しかし、その日、私は、イエス・キリストを主と信じ、神の子供の身分をいただいた者が、それに相応しい生き方、考え方を身に着けるための足がかりを得ることが出来た。もしそのメッセージを聞くことがなかったならば、私は今全く違う歩みをしていただろう。
 宣教師は、私達が「何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるように」なるために、主なる神は聖書を通していつも私達に語りかけているから、聖書を是非読んで欲しいと話された。そして、聖書から教えられたことを無視せず、それを生活の中で行って欲しいと強調された。また、示された主なる神の御心が自分にとって受け入れるのが難しいものであったとしても、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げ」て欲しいと勧められた。
 一例として宣教師は「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」(テサロニケの信徒への手紙一5章16~18節)という聖書の言葉を引用された。私達はいつも喜べない、絶えず祈れない、どんなことにも感謝出来ない、そのような者である。だから、自分が従えないと思う聖書の言葉、或いは従いたくない聖書の言葉から目を逸らそうとする。しかし、それもまた、私達の好きな聖句と同じように、主なる神が語られた言葉であると宣教師は言われた。そして、主なる神の言葉に一つ従うことが出来た時、私達は「キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられる」歩みへと一歩近づくことが出来たと宣教師は励まされた。
 宣教師のメッセージを通して、私は、いわゆる〈聖化〉というのが、聖書の言葉に一つ一つ従うことによって具体的に実現されていくものであることに目を開かされた。殉教したキリシタンのような強い信仰をいきなり要求されたら、余りのハードルの高さに私達は絶望するしかない。しかし、〈聖化〉は、まだまだ不信仰で罪深い部分がある中で、聖霊の助けと導きを受けて、罪と戦う力を与えられ、イエス・キリストに従って歩む者へと徐々に変えられていくことである。
 礼拝後、私は、宣教師のところに行って、「弱く不信仰な私のためにどうか祈って下さい」とお願いした。『沈黙――サイレンス』でキチジローが司祭に何度も告解を求める場面があったが、それを見た時、思わずこの時のことを思い出してしまった。宣教師は「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」(ヨハネによる福音書15章5節)というイエス・キリストの言葉を引用した後、「主よ、この兄弟がどのような時もあなたの内を、あなたと共に歩むことが出来ますように」と短く祈って下さった。