Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 ルカによる福音書2章25~38節

聖書研究 ルカによる福音書2章25~38節(新共同訳 新約pp.103-104)

【概要】
 イスラエルが慰められることを望んでいたシメオンは、聖霊に導かれて神殿の境内に入り、幼子イエス・キリストを腕に抱き、主なる神を讃美し、主なる神の救いを見たと告白した。神殿で夜も昼も主なる神に仕えていた女預言者アンナも、エルサレムの救いを待ち望む全ての人々にイエス・キリストのことを語った。

【歴史的背景】
 シメオンの讃歌(29~32節)は、ラテン語訳(ウルガータ)の最初の2つの語から“Nunc Dimittis” (今こそ去らせて下さる)と呼ばれる。

【釈義】
25~28節 聖霊の導きを受けるシメオン
 シメオンについて3つのことが25節に記されている。第一に、彼は「正しい人で信仰があつ」かった。ザカリアとエリサベトが「神の前に正しい人」(1章6節)と言われていたのと同じである。第二に、彼は「イスラエルの慰められるのを待ち望」んでいた。第三に、「聖霊が彼にとどまっていた」。
 シメオンは「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」という主なる神の約束を受けていた(26節)。そのお告げが与えられた時期は分からないが、シメオンはそれをよく覚えていて、それが成就する時を待ち望んでいた。ヨセフとマリアが清めの儀式を行うために神殿にやって来た時、シメオンは「“霊”に導かれて」神殿の境内に入った(27節)。
 神殿には聖所と至聖所のある建物のほかに、イスラエルの庭、婦人の庭、異邦人の庭があった。シメオンが彼らに会ったのは、異邦人の庭、或いは婦人の庭であった筈である。しかし、顔も名前も知らない初対面の彼らのことが、どのように分かったのだろうか。聖霊の御業という以外には説明出来ない。
 シメオンは幼子イエス・キリストを彼の腕に「抱」いた(δέχομαι[dechomai])。このギリシア語の動詞は「受ける」「取る」という意味で、25節の「待ち望む」と訳されたπροσδέχομαι[prosdechomai]と語幹を同じくする語である。つまり、イスラエルの慰めを「待ち望んだ」シメオンは、幼子イエス・キリストを「抱き」、その慰めを〈受け取った〉のである。

【黙想】
 シメオンは幼子イエス・キリストを抱いて主なる神を讃美した。「わたしはこの目であなたの救いを見た」(30節)。「これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです」(31~32節)。主なる神はシメオンに告げた通りのことをして下さった。イスラエルは、民族として屈辱の時代を通り、神の民としての信仰も、形ばかりの人が沢山いた。だが、その中にあってシメオンは、主なる神に希望を置き、主なる神だけを信じ続けた。そのシメオンに、主なる神は大きな恵みを施して下さった。主なる神の栄光はこの世のいかなるものとも比べることは出来ない。

【適用】
 イエス・キリストに出会うことは、人生で最も大きな喜びであり、あらゆる苦しみを喜びに変える。聖霊に満たされて主を待ち望むなら、その主の愛と恵みを新たに知り、この世にない真の喜びに満ち溢れる。

【祈り】
 イエス・キリストに出会って初めて人生の真の意味を見出すことが出来ます。イエス・キリストとの出会いが、今日も私の人生の原動力になります。救いを切に待ち望む者に、あなたの栄光の光を照らして下さい。