Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 マタイによる福音書10章26~33節

聖書の黙想と適用 マタイによる福音書10章26~33節(新共同訳 新約p.18)

(1) 恐るべき者(26~31節)

 イエス・キリストは、弟子達に「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(28節)と教えられた。私達は体を持って生きている。そのため、主なる神以外のものを恐れることから完全に自由になるのは難しい。
 遠藤周作の小説を映画化した『沈黙――サイレンス』には、キリシタンが転ぶよう迫られる場面がある。そして、そのために彼らは雲仙で熱湯を顔や体にかけられたり、生きたまま焼かれたり、海に磔にされたり、縛られて海に投げ込まれたり、汚物に入った穴の中に逆さに吊るされた。拷問の余りの凄まじさに私は「もし自分がその場にいたら」と考えずにはいられなかった。
 だが、イエス・キリストは「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない」(29節)と言われた。1アサリオンは16分の1デナリ――1デナリは労働者の1日分の賃金――である。2羽の雀が1アサリオンで売られているというのは、1羽だけでは売り物にならないということを意味している。当時雀は、価値のないものの代名詞であり、死んでも誰も気に留めなかった。しかし、1羽の雀が死んで地に落ちることでさえも、天の父の配慮のもとで起こっている。天の父は1羽の雀さえ忘れることなく、愛し、支え、生かしておられる。
 そして、1羽の雀を心にかける天の父は、私達のことも当然無関心ではない。「あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」(31節)とイエス・キリストは言われる。私達は自分の髪の毛の数など知らない。しかし、天の父は私達の髪の毛を一本残らず数えておられる(30節)。天の父は私達以上に私達のことをご存知であられる。だから、反対者や害を及ぼそうとする人々を恐れてはならないとイエス・キリストは励まされた。
 私達が魂も体も滅ぼすことの出来る方を恐れ、この方と共に生き、この方の御心に従って生きるなら、体だけしか殺すことが出来ない者を恐れることはなくなる。何故なら、この方は、滅ぶべき私達を愛し、十字架の贖いによって救って下さり、イエス・キリストとの永遠の交わりの中に入れて下さったからである。

(2) イエス・キリストの仲間であると言い表す(32~33節)

 神の国の福音の核心はイエス・キリストである。イエス・キリスト神の国を宣言されただけでなく、イエス・キリストご自身が神の国の本質である。イエス・キリストを認めて受け入れることが、神の国に入ることである。それ故、イエス・キリストは「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う」(32~33節)と言われた。
 だが、この世はイエス・キリストを拒み、イエス・キリストに従う人々も迫害する。そのため、イエス・キリストを主と告白することには常に勇気が必要である。また、イエス・キリストを主と信じて、従うことには犠牲が伴う。そして、私達は自分の決意や意志で主なる神以外のものを恐れなくなることは出来ない。
 例えば、ペトロは「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」(26章33節)と言った。それに対し、イエス・キリストはペトロに「あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」(同34節)と予告された。事実、イエス・キリストが捕縛された時、ペトロは恐れ、イエス・キリストとの関係を3度否定してしまった(26章69~75節)。
 しかし、イエス・キリストはそのようなペトロをお見捨てにならなかった。復活されたイエス・キリストはペトロに現れた。そして、「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」と3度尋ねられた。この時、ペトロは「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えることしか出来なかった。しかし、そのような彼に、イエス・キリストは「わたしの羊を飼いなさい」と命じられた(ヨハネによる福音書21章15~17節)。
 そして、天に帰られた後、イエス・キリストはペトロに聖霊を注がれた。ペトロは聖霊を受けて立ち上がった。そして、最高法院で取り調べを受け、議員達に「決してイエスの名によって話したり、教えたりしないように」脅されても、「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」と答えた(使徒言行録4章18~20節)。彼は、イエス・キリストだけが真の救い主であることを言い表し、決して黙ることはなかった。