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Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書のメッセージ マタイによる福音書10章29~31節

福岡女学院中学校・高等学校 礼拝 2016年10月11日
聖書箇所: マタイによる福音書10章29~31節(新共同訳 新約p.18)
讃美歌21: 504(主よ、み手もて)
奨励: 「一羽の雀さえ御心に留める神」

 先週に続き、今日も皆さんと一緒に聖書の言葉と分かち合えることを嬉しく思います。私は今福岡市に住んでおり、地下鉄と西鉄とバスを使って、この学校まで来ました。家から地下鉄の駅に向かう途中、商店街を通るのですが、その入口の近くの電線に鳥の大群が止まっていたことがありました。渡り鳥なのか、いつもいるわけではありません。また、いる時期も昼間はどこかに行っており、早朝と夕方に戻って来ます。私自身はスーツに上から排泄物を落とされたことがあったため、余り良い印象を持っていませんでした。或る日、その中の一羽の死体が道に落ちていたことがありました。電線に感電したのか、移動しようとして車にはねられたのか、寿命が尽きたのかは分かりません。しかし、スーツのことがあったため、私は特に悲しいという感情は持ちませんでした。
 ところが、今朝私達が読みました聖書の箇所で、イエス・キリストは次のようにお語りになっています。「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない」(29節)。
 当時雀というのは、最も価値のないものの代名詞でした。そのことは、2羽の雀が1アサリオンで売られていることからも分かります。つまり、1羽の雀はそれだけでは売り物になりませんでした。皆さんの中には家でペットを飼っている方がいると思いますが、犬や猫が死んで、「ペットロス症候群」と呼ばれるほど落ち込む人もいると聞いたことがあります。それに対し、1羽の雀というのは、死んだところで誰も気に留めないような存在でした。
 ところが、その1羽の雀も「あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない」とイエス・キリストは言われました。「あなたがたの父」というのは、天の父である神のことです。雀が死んで地に落ちることでさえも、神の配慮のもとで起こっています。神は1羽の雀さえ忘れることなく、愛し、支え、生かしておられます。
 そして、1羽の雀のことを心にかける神は、私達のことも当然無関心ではありません。「あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」(31節)、「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている」(30節)とイエス・キリストは言われます。私達は自分の髪の毛の数など分かりません。しかし、神はその数まで数えておられます。つまり、私達が自分のことを分かっている以上に、神は私達のことをご存知です。私達の悲しみも痛みも全てご存知です。そして、私達がたとえ地に落ちたとしても、それもまた神の完全なご配慮の下で起こっています。
 先週の礼拝の中で、私は、東日本大震災で命を落とされた方、愛する家族を失った方のことについて触れました。5年が経った今も2000人を超える行方不明の方がおられます。また、私の周りでも、いわゆる《大往生》から程遠く、「何故?」と問いたくなるような仕方で死を迎えた人が何人かいました。私には3歳年上の兄がいましたが、私が生まれて2か月後に電車に轢かれて死亡しました。また、私が小学生の時、従兄が脳腫瘍で、近所のおにいさんが心臓の発作で死亡しました。叔母も定年退職を間近に控えた年末にお酒を沢山飲んでお風呂に入り、溺れて急死しました。そして、1995年1月に阪神・淡路大震災に被災し、友人の一人が死亡しました。
 この時私はまだクリスチャンではありませんでした。しかし、身近な人達の相次ぐ死、しかも突然の死に直面し、人間を越えた何かの存在を意識せずにはいられませんでした。そして、当時の私にとってその何かは自分の思い一つで人の命を簡単に奪うことの出来る恐ろしい存在でした。それだけに、キリスト教主義の高校に入学して聖書の話を聞いたり、教会に行くようになって、私が最も信じられなかったのは「神は愛である」(ヨハネの手紙一4章16節)という聖書の言葉でした。イエス・キリストが病気の人や貧しい人、虐げられていた人、蔑まれていた人に深い愛をもって関わられたというのは分かりました。しかし、神が愛であるということはどうしても納得出来ませんでした。
 そのような中でこの聖書の言葉に出会いました。1羽の雀にも目を注いでおられる神は、私達一人一人の人生をも慈しみをもって見守り、導いて下さっている。このことを知った時、「神は愛である」という言葉を初めて受け入れることが出来ました。
 勿論、大地震や大津波によって家族や親しい人と死に別れた人にとって、それが簡単に受け容れることの出来ない死、認めたくない死であるのは言うまでもありません。しかし、私達が「何故ですか」と叫ばずにはいられないような死を迎えた人に対しても、神は私達の思いを遥かに超えた何らかのお考えを持っておられます。そして、そのお一人お一人を神は愛しておられ、そのお一人お一人は神の御手の中にあります。このことを信じる時、私達は悲しみの中から、絶望の中から新しい一歩を踏み出すことが出来ます。

祈り
 天の父よ、あなたの尊い御名を心からほめたたえます。主よ、あなたは私達一人一人を愛して下さっています。そして、私達一人一人を御手の中に握っておられ、その髪の毛の一本一本に至るまで全てご存知です。全く思いもよらぬ仕方で死を突然迎えた方々のことを思います。主よ、あなたの愛に全てを委ねます。また、家族や愛する人を失い、悲しみの中にある方と共にいて、どうかお支え下さい。先週熊本では阿蘇山の噴火が起こりました。相次ぐ自然災害により不安の中にある方々に必要な助けが一刻も早く届きますように。今日から高校1年の生徒が修学旅行で京都と奈良に向かいます。生徒一人一人、また引率されている先生方の道中の安全と健康をお守り下さい。有意義で楽しい時を過ごすことが出来ますように。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。