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Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書3章1~9節

聖書の黙想と適用 ルカによる福音書3章1~9節(新共同訳 新約p.105)

(1) ヨハネによる悔い改めのバプテスマ(1~6節)

 福音書記者ルカは、当時のパレスチナを支配していた権力者、宗教指導者として「皇帝ティベリウス」をはじめ、「ユダヤの総督」ポンティオ・ピラト、「ガリラヤの領主」ヘロデ、「イトラヤとトラコン地方の領主」フィリポ、「アビレネの領主」リサニア(1節)、また「大祭司」アンナスとカイアファの名前を挙げている。イエス・キリストの誕生についての記事でも、ルカは「皇帝アウグストゥス」及び「シリア州の総督」キリニウスの名前を紹介している(2章1~2節)。
 私達は、彼らが世界を支配し、歴史を導いていると考える。しかし、歴史と世界の真の主権者は主なる神である。歴史の背後に滔々と流れる神の国の歴史を見る時、私達は歴史を正しく理解することが出来る。
 主なる神は、「荒れ野」にいたヨハネに臨み(1章80節)、その御心を知らされた(2節)。ヨハネに与えられた働きは、人々を悔い改めに導き、「主の道を整え、その道筋をまっすぐに」(4節)することであった。これはザカリアの預言において既に示されていた(1章77節)。彼は「ヨルダン川沿いの地方一帯」で「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼」を説いた(3節)。水の中に入って出てくるバプテスマ(洗礼)は、罪に死に、主なる神にあって新しく生きることを表すしるしである。
 私達は主なる神の御前で罪人である。罪が赦される道は、悔い改めて、主なる神に立ち返ることである。その時、私達に平安と回復がもたらされる。全き罪の赦しはイエス・キリストの十字架を通して成就される。ヨハネバプテスマユダヤ人に限られたものであったが、イエス・キリストの救いはあらゆる民族に及ぶ。その意味でヨハネイエス・キリストの先駆者であった。

(2) 悔い改めに相応しい実を結ぶ(7~9節)

 悔い改めは口だけで終わってはならない。悪い行いや習慣を断ち切り、生活の変化が起こらなければならない。ヨハネは、「洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆」に向かって、「悔い改めにふさわしい実を結」ばなければ、「差し迫った神の怒りを免れる」ことは出来ないと教えた(7節)。そして、彼らが「我々の父はアブラハムだ」と血筋や特権に拠り頼んでいることを問題にした(8節)。何故なら、主なる神は「石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」(8節)からである。
 ヨハネは、「良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」(9節)ので、悔い改めに相応しい生き方をするように人々に迫った。私達もすべきことをしなかったこと、主なる神の言葉に従わなかったことを日々悔い改めなければならない。それが主なる神の御心である。悔い改めは神の国に入るための前提条件である。神の民であるかどうかは、血筋によってではなく、悔い改めの実によって判別される。主なる神の御心に従うことが幸いな人生の秘訣である。