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Soli Deo Gloria

主なる神の言葉である聖書を、あらゆる事柄に関する最高権威、人生における規範とし、イエス・キリストを主とする神の国(支配)の拡大と完成を願っています。

聖書研究 ルカによる福音書3章21~38節

聖書研究 ルカによる福音書3章21~38節(新共同訳 新約p.106)

(1) バプテスマを受けられるイエス・キリスト(21~22節)

 民衆がヨハネからバプテスマを受けていた頃、イエス・キリストバプテスマを受けられた(21節)。しかし、イエス・キリストバプテスマは他の人間のバプテスマとは本質的に異なる。民衆のバプテスマは、主なる神に罪を赦していただくための悔い改めのバプテスマであった(3節)。しかし、イエス・キリストは罪のない方である。そのため、福音書記者マタイは、バプテスマのヨハネが思いとどまらせようとしたことを記している(マタイによる福音書3章14節)。イエス・キリストバプテスマは、人間を代表してその罪を負うメシアとして働き始める任職式であった。
 イエス・キリストバプテスマを受けられると、天が開け、聖霊が「鳩のように目に見える姿で」イエス・キリストの上に降られた。イエス・キリストは、聖霊の力を帯び、新しい創造の秩序を造られる方である。主なる神が創造された世界は、アダムの罪によって呪われた(創世記3章17節)。しかし、イエス・キリストの救いがもたらされることによって新しく創造され、回復される。
 主なる神は天からイエス・キリストに「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(22節)と言われた。この御声は、主なる神が自ら即位させた王に告げた「お前はわたしの子/今日、わたしはお前を生んだ」(詩編2編7節)という言葉、また主なる神がご自身の僕について語られた「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す」(イザヤ書42章1節)という言葉を背景としている。
 これは、バプテスマを受けられた時、イエス・キリストにそれまでなかった新しい地位が与えられたということを意味するものではない。既にイエス・キリストは主なる神の「愛する子」である。しかし、この時、主なる神は、イエス・キリスト旧約聖書において預言された主の僕としての使命を負われていることをはっきりと示された。それは「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる」(1章32節)という天使ガブリエルの言葉を確証するものであった。

(2) イエス・キリストの系図(23~38節)

 イエス・キリストが宣教を始められた時、およそ30歳であった。イエス・キリストは人々からヨセフの子と思われていた(23節)。このことから、イエス・キリストが処女マリアを通してお生まれになったことは、まだ人々に知られていなかったと推測される。しかし、1~2章を読んだ読者はその出来事を知っている。ヨセフはイエス・キリストを迎え入れ、法的にイエス・キリストの父となったのである。
 イエス・キリストバプテスマに関する記事の後、系図が続いている。この系図は、イエス・キリストが神の子であり、法的にはヨセフの子であることを明らかにしている。マタイによる福音書では、イエス・キリストの系図は、アブラハムからダビデを経て、イエス・キリストに到っている。それに対し、ルカによる福音書では、アダムが系図の最後に記され、そして神に到っている(38節)。
 福音書記者ルカが、イエス・キリストの系図に主なる神を含めていることには意図がある。主なる神は土の塵でアダムを形づくり、その鼻に命の息を吹き込まれた(創世記2章7節)。そのようなアダムをルカは主なる神の最初の子として位置付けている。一方、イエス・キリストは、バプテスマを受けられた時、主なる神によって神の子であることが公的に宣言された。即ち、この系図において最初に言及されているイエス・キリストと、最後に言及されているアダムは、どちらも神の子である。
 その上で、ルカは、不従順の罪を犯した「最初の人」(アダム)とは対照的に、イエス・キリストを主なる神に従い通した「第二の人」(アダム)として描いている(コリントの信徒への手紙一15章47節)。また、イエス・キリストは、主なる神の永遠の御子なので、始まりと終わりがある最初のアダムとは異なる。この系図はそれを示すことによって、イエス・キリストが堕落した人類に救いをもたらす神の子であることを明示している。